三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ロバート・I・サイモン『邪悪な夢』1

2009年03月21日 | 

凶悪な事件が起きた時、「我々と同じ人間とは思えない」とか「人間の皮を被った悪魔」という言葉を見かける。
あるいは、「あんなことをするなんて頭がおかしい」とも言ったりするが、本当に頭がおかしくて狂っていら責任能力がないということになって無罪にしないといけない。
罪に問うためには自分と同じちゃんとした人間ということにしないといけないことになり、ささやかな矛盾に陥ってしまう。

ロバート・I・サイモン『邪悪な夢』にはこうある。
「臨床精神科医として、また法精神医学者として、32年間治療にあたってきた私の経験から言うと、普通の犯罪者と平凡な一般市民を比べた場合、その精神生活に大きな隔たりはない」
善人と悪人との間に明確な境界線はないと言うのである。

以前、「誰でもいつ犯罪を犯すかわからない」と書いたら、「普通の人は犯罪なんかしない、まして殺人なんかしない」というコメントがあった。
それに対してロバート・I・サイモンはこう言う。
「患者や犯罪者の言うことに永年耳を傾けていると、善人がやりたいと夢見たことを、悪人は実際にやってしまったにすぎない、という結論に達せざるをえない」
この結論に賛成しない人は多いと思う。

「たいていの人は、善人と悪人は根本的に違っていて、悪人は『狂っている』と思いがちだ。これをくつがえすのは容易なことではない」
それはたぶん、自分は犯罪とは関係のないところで生活している、もしくは生活している、悪人と自分は違う世界に住んでいると思って安心したいということがあると思う。
保険会社への損害請求に虚偽の請求や水増し請求が、アメリカでは1994年に200億ドルを上回っているとか、所得をごまかし申告をしない人がいるとか、有愛会の加入儀式や士官学校の新入生いじめでは行き過ぎた行動が見られ、時には死につながることもある、といった例をロバート・I・サイモンは紹介しているように、決して無関係ではなく、気づこうとしないだけなのだが。

自分が善人ならば正義の立場に立って裁くことができる、というのでこういう事件が起きる。
ブログ書き込みの18人を書類送検へ・お笑い芸人中傷で
 お笑い芸人の男性(37)のブログに事実無根の誹謗中傷を書き込んだとして、警視庁中野署は5日までに、大阪府高槻市の国立大学職員の男(45)ら17-45歳の男女計18人を名誉棄損などの疑いで書類送検する方針を固めた。
 調べによると、18人は2008年1月から同10月にかけて、自宅や職場のパソコン、携帯電話などから男性のブログに「人殺しがどうして芸人をやっているんだ」「犯人のくせに」などと事実無根のコメントを書き込み、誹謗中傷した疑い。
(2月05日)

お笑いタレントのスマイリーキクチ(37)のブログが「炎上」した事件は、脅しや中傷を書き込んだとされる19人全員が「犯罪になるとは思わなかった」と供述したという。ネット社会では、悪質な書き込みが匿名性に隠れ、犯罪性の認識が薄いことが浮き彫りになった。
「正義感のつもりだった」。脅迫容疑で書類送検された川崎市の会社員の女(29)は、1988年に足立区で起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件に、キクチが関与したかのような書き込みを見た。「許せない」と思い、ブログのコメント欄に「殺してやる」と書き込んだという。
(2月5日)

この人たちには悪意が全くなかったと思う。
「人殺し」とののしりながら、「殺してやる」と脅すのも変な話ではあるが、自分は悪人を殺してもいいと思っているのかもしれない。
だからといってこの女性を責めているわけではない。
「人殺しを思い夢見ることが、死刑を科しうる犯罪なら、われわれはみな死刑囚監房の住人だ」
とロバート・I・サイモンも言っているし。
少なくとも、殺してはいけない人間と殺してもいい人間がいて、自分は殺してもいい人間を選ぶことができるとは思っているんだろう。
どちらにしても、たぶん正義感の強い真面目な人なんだと思う。

中南米の独裁国家では、反政府側だとみなされると、普通の市民であろうと拷問にかけられていた。
仕事として拷問をする人たちは仕事熱心な真面目人間だという。
「ナチスの処刑人の多くは、女性や子どもや年寄りを抹殺して帰宅すると、家族に囲まれ快適な家庭生活を営んでいた」
「処刑人は心のうちで、昼間行なった虐殺と、家族との夕べの憩いをどう折り合いつけていたのだろうか?こういうことが平気でできるのは、精神を病んでいたからなのか?」

ナチスの処刑人にしても、多くはサディストなんかではなく、職務に忠実なだけだったに違いない。
誹謗中傷のコメントを書いた人たちもよき処刑人になるだろう。
正義の持つ怖さである。
権威者の指示に従って人を傷つけることも平気ですることを証明したのがスタンリー・ミルグラムの実験
だから私も平気で虐殺をするようになるに違いない。

善人と悪人は根本的に違っていると思いがちなのは、ロバート・I・サイモンが言うように「人間だれしも、心に暗い部分をもっている」し、「われわれは、心の暗部を恐れるとともに、魅了される」わけで、自分が「やりたいと夢見たこと」をやってしまうかもしれないなどと考えると不安になる。
だから自分は善人だと思いたいということもある。

ロバート・I・サイモンはこう言う。
「他人への激しい批判を細かく検討してみると、心の平安を乱す自己批判であることがわかる。自分の問題を、他人の問題にすり替えたほうがずっと楽だからだ。自分の心のうちを覗いて、受け入れがたい衝動を発見することは、非常に辛い経験だ」
それでブログへの誹謗中傷のように、悪人を攻撃することで自分を安全な場所に置こうとする。
しかし、
「暴力を『われわれ』ではなく『彼ら』のせいにして見過ごしてしまえば、心理的にはより危険な安全神話の虜になるだけだ」
「人間だれしも、心の暗部に潜む暴力と格闘しなければならない」

それにしても、悪人は善人が夢見たことを実行にうつすにすぎないとして、頭の中で考えたことを行動に移すことができるのはどうしてだろうか。
それに対するロバート・I・サイモンの答えは明確ではない。
連続殺人者の大半は子どものころ肉体的性的虐待を受けている。
多重人格者の97%は6、7歳までにひどい虐待を受けている。
だったら殺人と虐待は関係があるのかというと、アメリカでは男性の6%、女性の15%は子ども時代に虐待されており、アメリカ人女性の4。5%は実の父親に犯されているそうで、虐待と「殺人とどう結びつくのか、はっきりしたことは分かっていない」

あるいは、道徳観念が欠如し罪悪感を持たないサイコパス(精神病質者)は、まわりにどれほど迷惑をかけようがいっこうに気にせず、反社会的行動をとる。
アメリカにおける反社会性人格障害の割合は男性で3%、女性で1%未満、平均で2.8%いるという。
ところが、サイコパスはどうして反社会的行動を行うのかとなると、『邪悪な夢』を読んでもよくわからない。
「反社会的な少年には大家族の出身者が多い。細やかな人間関係が育まれないため、攻撃的な少年の反社会的傾向が増長されやすいからだ」
私は逆かと思っていた。
「反社会的な性向は、程度の差こそあれ、だれにでも存在する」そうだし。

「大量殺人者は、被害妄想と抑鬱が危険に組み合わさった症状に悩んでいる。すっかり気落ちし、無力感にさいなまれる一方で、自分がこんな目に遭っているのは人のせいだと思い込む」
「レイプ犯の多くは、普通の生活を送る普通の人びとだ」
「ストーカーの多くは、女に拒絶された男だ。そして大半は、自分の人生にこれといった手応えをもたない、孤独で、精神的に病んだ者たちだ」

つまりは、「まったくの善人も、まったくの悪人も存在しないのだ」ということになる。
死刑囚の島秋人
「憎むべき罪人であっても、極悪ではない。極善という人がおりますか。おそらく人間としてはないだろうと思います」
と書いている。
善と悪との境目はちょっとしたことなんだろうと思う。

なるほどと思ったのが次のこと。
「私が診た患者のなかに、自分を責めてばかりいる人がいたが、それはどれほど辛いことであろうと、自分の心の悪鬼に立ち向かうことに比べれば楽な道だ。セラピーが往々にしてうまくいかないのは、チクチクと棘さす良心が、自分の本性を隠す格好の隠れ蓑になるからだ」
これは鋭い指摘だと思った。

罪悪深重の凡夫とかよく言うが、そういうことにしておくことで、実は自分自身と真向かいになることを避け、ごまかしている自分がいる。
「怖いもの見せてあげようほら鏡」という川柳がある。
そういう「心の悪鬼」をうつす鏡よりも白雪姫の母親が持っている、「世界で一番美しいのはあなたです」と言ってくれる鏡のほうがいい。
教えを聞くことは自分自身をうつす鏡のはずだが、教えを聞くことで、泥凡夫というお化粧をした姿をうつす鏡にうっとりとすることもあるのは事実である。

コメント
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