国共内戦のさなか、戦闘で連隊長の主人公以外47名全員が戦死する。
そして主人公は、烈士ではなく失踪扱いされた部下の名誉を回復するため奮闘する、というのがフォン・シャオガン『戦場のレクイエム』のあらすじである。
最初と最後は部隊の慰霊碑(?)のショット。
フォン・シャオガン監督は「これまでも中国では国共内戦の映画が数多く作られていました。ただしそれらは共産党の国策映画であって、国のイデオロギーから離れたエンタテインメントはこれが初めてです」と言うが、戦死者顕彰映画だと思う。
この話を日本に置き換えると、戦死した部下の名誉を回復するために生き延びた上官が奮闘し、晴れて靖国神社に合祀される、となる。
監督が意図していなくても、戦死者を顕彰することによって戦争を美化し、次の戦死者を生み出す国策映画になっていると思う。
失踪が単なる生死不明という意味なのか、それとも脱走も含めた失踪とされたのかは映画を見ただけではわからない。
結城昌治『軍旗はためく下に』は敵前逃亡などとされて陸軍刑法によって処刑された、つまり不名誉な死を遂げた兵士の話、五話を集めたものである。
たとえば、たまたま中国人の家にいて襲撃を受けて怪我をし、八路軍に助けられた兵士が、八路軍から逃げ出して部隊に戻ったにもかかわらず「敵前逃亡・奔敵」とされて死刑になる。
「上官殺害」は残忍な小隊長を殺したという話である。
語り手は正当防衛だったと言う。
「あの残忍な小隊長をそのままにしておいたら、もっと多くの犠牲者がでたに違いありません。わたしも生きて還れたかどうか分からない。小隊長の横暴を知りながら、それを放任していた大隊長や中隊長にも責任があります。さらに言うなら、補給もできないような南方の島へ、勝算もなしに兵隊を送りこんだ軍の上層部に責任があるでしょう。兵隊は戦争が好きで従ったわけじゃありません。金のためでも勲章が欲しいためでもありません。たとえ厭々ながらでも、祖国を信じ、命を投げだして戦ってきたのです。その命は、たった一つの命で、犬ころのように死ねる命ではありません。
日本は戦争に負けました。部下に、俘虜になるくらいなら自決しろと命じていた高級将校まで、おめおめと俘虜になり、濠軍の給食で生き長らえていた。そんな連中に果して戦争中の事件を裁く資格があったかどうか疑問です」
結城昌治は死刑になった兵士たちを復権しようとしていると思う。
その復権とは遺族年金をもらうとか靖国神社に祀られるとかいったことではないし、まして戦争の美化にはなっていない。
『戦場のレクイエム』とは後味が違うのである。
石川達三『風にそよぐ葦』に、夫が応召された妻と予備役将官にこう言う会話が交わされる。
「日本が戦争していることも存じて居ます。誰かが兵隊になって戦わなくてはならないこともわかります。でも、どうしても行きたくない人だってありますわ。そういう人の命までも取り上げてしまう権利を誰が持っているんでしょう」
「陛下です。陛下のご命令ならば国民は命をなげ出しても国土と皇室とを守護し奉らなくてはなら。それで何の文句があります?」
「たとい陛下のためでも、私はいやです。私は私のために生きているんで、陛下のために生きているんではありませんわ。私の主人だって同じことです」
「なるほど。あなたのような、そういう考え方を自由主義というんだ。いま日本中がこぞって自由主義を排除せよと叫んでいるのそのことだ」
『戦場のレクイエム』は予備役将官のようなことは言っていないが、そう違っているわけではないように感じる。