三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『とりかえばや物語』

2008年07月28日 | 

長尾真氏が『「わかる」とは何か』に、
「今日の教育の荒廃は」「日本古来の文化・伝統、あるいは道徳観や地域社会のもっていた価値観を全面的に否定し、それを無視し、教育のなかからこれらすべてをほとんど排除してしまったところにあるといってもよいだろう」
そして
「日本には、ニュートンやシェークスピアとあまりちがわない時代に関孝和というすぐれた数学者や、近松門左衛門というシェイクスピアにも比すべき劇作家がいたのである。そういった人たちの業績や作品については、今日の教育の場ではまったくといってよいほどあつかわれていないし、ほとんどの人の知らない、関係のない話となってしまっている」
と書いてる。

だが、近松と言えば心中物である。
『曽根崎心中』『心中天の網島』などは遊女との心中である。
教育の場でどういうふうに紹介するか、かなり難しいと思う。

『源氏物語』は光源氏という男のセックス遍歴を描いた好色一代男の物語である。
かわいい女の子を見て、誘拐、監禁し、成長すると妻(紫の上)にするなんてひどい話である。
おまけに紫の上は光源氏の浮気に悩み、世をはかなんで出家を願うが、光源氏は出家させない。
光源氏の不倫の子供が天皇になり、光源氏自身も寝取られてしまうとか、平安時代はフリーセックス(この言葉、年を感じます)だったのかと思ってしまう。

丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士『文学全集を立ちあげる』『とりかへばや物語』がずいぶん評価されていたので読んでみる。(もちろん現代語訳)
感想は王朝ポルノ。
「日本古来の文化・伝統、あるいは道徳観」のイメージがくつがえると思う。

「少年少女古典文学館」『とりかへばや物語』で田辺聖子氏がどう訳しているかと思って読む。
これはかなりの意訳である。
田辺聖子氏はあとがきにこういうことを書いている。
「戦前は『とりかえばや物語』を読むことはできなかった」
「軍国主義のさかんな時代なので、こういう退廃的な物語には、人々は拒否反応をおこしたであろう」

そして、津本信博氏の解説にはこうある。
「この作品は性的描写にかなりの露骨さがめだち、また生理的記述にもリアリティが感じられるところから、一般的に、なにやら退廃的文学として受けとられている傾向が見られます」

『とりかえばや物語』には、同性愛的異性愛とか人妻の不倫・妊娠とか、まあそんなことの目白押しでして、津本信博氏が
「(院政期における)文化の特性として、好色性、耽美性、怪奇性があげられます」
と書いていることに、なるほどねと思った。

男は自分勝手で、いろんな女に手を出しては子供を作る。
女はそんな男を頼り、男の訪れをただ待っているだけ。
これが10代なんだから、今なら不純異性交遊。
女主人公はそういう女のあり方を嘆くが、最終的には天皇の寵愛を受け、子供を産んでめでたし。

田辺聖子氏は
「(女主人公は)ふたたび男すがたにもどろうとはしないが、男の支配をうけたくないと思う。そのためには産んだ子どもさえすててゆく。さすがに情愛にひかれて苦しむものの、世間が期待する母性愛―子の愛にひかれて苦境にたえ、母として生きる―人生を、彼女は徹底的に否定するのである」
と言っているが、その意味では『とりかえばや物語』はかなり現代的である。

氷室冴子『ざ・ちぇんじ!―新釈とりかえばや物語』は『クララ白書』みたいに健全で、これなら中学生の娘にも読ませたい。
男装の主人公が妊娠したり、男に戻ったらあっという間に4人の女性に子どもを作ったりというところは省略されていますので。

ちなみに西鶴だが、私が高校の時の古文の教科書には、『好色一代男』ではなく『日本永代蔵』の「世界の借家大将」が載っていた。
借家に住みながら、一代で財を築いた男のケチ話である。
初ナスの話は今でも覚えているから、昔は記憶がよかったなあと嘆き節。
大阪商人のドケチ価値観は山崎豊子氏らの小説に受け継がれていると思う。

    
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする