三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

鳩山法相の死生観

2008年07月13日 | 死刑

毎日新聞に「特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観」という、鳩山法相へのインタビュー記事が載っていた。
その中であれっと思った個所をいくつか。

「死刑廃止論はドライでかさかさした人たちの考え。人の命を奪ったんですよ。何人奪っても死刑がない、そんなドライな世の中に私は生きたくない」
と鳩山法相は言うが、どうして死刑廃止論者が「ドライでかさかさした」考えの持ち主になるのだろうか。
いつ執行されるかわからない死刑囚の恐怖、死刑囚の家族の思い、執行にたずさわり遺体の後始末をしなければならない刑務官の気持ち、そして遺族の悲痛etcを思いやる死刑廃止論者がウエットであり、「さっさと殺してしまえ」と言い切り、死刑になると忘れてしまう人こそがドライだと思う。

で、死刑を廃止したらどうして「ドライな世の中」になるのかということだが、
元秘書に解釈してもらう。「大臣の立ち位置は死刑囚でなく、遺族。遺族が死刑を望んでいるならその望みを断ち切ることはできない、という意味でウエットなんです」

人情家鳩山、というところだろうか。
死刑を望む遺族に立ち位置があるというのは忠臣蔵的心情である。
もっとも法相は執行のサインをするのだから観客ではなくて当事者だが。
だけど、毎度書くことだが、被害者のすべてが極刑を求めているわけではないし、中元勝義という人は無実を主張し再審請求をしていたのに執行されている。
この割り切り方はドライだという気がする。

遺族の望みということだが、全国犯罪被害者の会(あすの会)が朝日新聞社に出した再質問書にある、
「殺害犯人と同じ空気を吸っていると思うだけでも耐えられず、被害者の払う税金が死刑囚が生きていくための費用に使われていると考えるだけでも怒りがこみあげてくるのです」
といった
怒りや憎しみに共感しようとは思わない。
復讐の肯定につながるし、「社会を明るくする運動」の主旨とは違ってることを鳩山法相はどう考えるのだろう。

驚いたのがこのこと。
裁判員になって死刑判決にかかわるのは嫌だという理由で、裁判員になることを拒否できるのか。
答えは意外にもイエスだった。「それはなんとか認める方向に持っていこうとしている。どうしても苦痛が大きいのであれば配慮されるようになると思う」

つまり、死刑判決を出すのがいやだと言う人は裁判員にならなくてすむかもしれないわけだ。
死刑反対の人は裁判員に選ばれないという話だし、となると、裁判員になる人は死刑判決をためらわない人、死刑賛成の人ばかりになる。
おまけに被害者が裁判に参加するわけだから、裁判員制度が始まると、今以上に死刑ラッシュになるだろう。
死刑反対の人が裁判員になれないのだったら、死刑賛成の人も裁判員からはずすべきではないだろうか。

そりゃないな、と思ったのがこれ。
「不動明王は地獄に落ちた人を救うそうです。執行した後は不動明王にお参りしてます」という。大臣は、ひょっとして地獄に落ちるかも、と怖いのだろうか。
「失礼だな、私自身は地獄に落ちるとは全然思っていない。死刑囚は天国に行かず地獄に落ちるだろうから(死刑囚を)導いてくれ、ということだ」

そうか、死刑囚は地獄に落ちるのか。
反省しようが、改心しようが、とにかくダメということなのか。
地獄行きのハンコを押す法相は死に神と言われても仕方ないように思う。
人間は必ず死ぬのだし、急いで地獄に落とさなくてもいいのではないか。
それよりも、死ぬまでの間、少しでも善根を積ませるほうが功徳になると思うのだが。

     
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コメント (55)
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