三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

自信喪失と社会運動

2008年07月22日 | 仏教

真宗大谷派の参務が、社会問題をやっているのは劣等感からだ、と発言したと聞いた。
こういう発言らしい。
2006年度全国教区会正副議長会の内局懇談会における発言である。
「さきほど総長も触れられましたけれども、この宗門は、どこまでも、社会運動とかと平和運動とかをやる団体ではないので、それは各御縁によって、それぞれがやっていただければいいのであって、この宗門は、念仏者を生み出す、これが第一であり、これだけしかないのです。そういう念仏者を生み出す、輩出する宗門、これが宗門の運動であり、使命でありますから、そういう中で、どうも、世間でいろいろ動き回っているほうが、自信があって、やっているように見えると、これは、私に言わせれば、逆に言いますと、自信喪失の裏返しです。きちんと念仏申す人、浄土に立脚してもの事を見ていく、これは、往相回向の真義を得るということが欠落しているのではないかと私は思います。
 そういう人を生み出すのが宗門の歴史で、そこから、そういう娑婆の問題を見、娑婆といろいろな活動をしていく。それは人、人の御縁でしていけばいいのであって、宗門が鉢巻き締めて、わっさわっさとやって、反対とか賛成とか、そんな団体ではないのだと。そういう意味で、さきほど総長が言われたことを具現化するために、教学研究所長の人事もその一環としてあるとも、はっきりと私は申しあげていいのではないかなと思っております」

「社会運動とかと平和運動とかをやる」のは「自信喪失の裏返し」などと言われたら、平和運動やボランティア活動、あるいは障害者やホームレスの支援など、そうした活動を実際にやっている人は気分を害するだろうと思う。

某参務は、世間で動き回っている人は何について自信を喪失していると考えているのだろうか。
教団のあり方、教え、布教、自分自身などなど、いろいろあげられる。
それに対して、某参務は自信満々ということなのだろうか。

某参務の言っていることは『歎異抄』第4章の「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」の問題だと思う。
困っている人を見て何とかしたいと思っても、人を救いきることは難しく、行き詰まってしまうということは事実である。
だが、娑婆の問題よりも自分が救われることが先だと言えるかどうか。
目の前に苦しんでいる人がいても、何もしない(お念仏を称えなさいぐらいは言うかもしれないが)のか。
どうも、何もしないことの言いわけとして使われているように感じる。

暁烏敏『わが歎異抄』にこういうことが書いてある。
社会をよくする運動に取りかかりたいと言う青年に、暁烏敏はこう言う。
「君は社会状態をよくしたいと言うが、そういうことを言うておる君に、そういうことをやる資格があるか。君自身が社会を造っておる一人として、その社会を改めるというだけの高潔な自分であるかどうか、また改める力があるかどうか。考えて見給え」
そして、
「自分は社会を救うことも出来ぬ、自分自らを救うことも出来ぬ自分だということがわかって来る。だから、私はとにかく自分が助からねばならぬ、自分の歩んで行く道を教えてもらわねばならぬ。よそを見ておれない。先ず静かに自分に力を戴かねばならぬ。こういう点で私には念仏の道があるのである」
とさとしたと言うのだが、何かする前に「できない」と決めつけるのもどうかと思う。

では、念仏の道とはどういうことかというと、
「自分が助かるということが根本になるのです。自分が仏になるということは、そのまま衆生を済度することになるのです。だから、どんな結構な慈善事業よりも、先ず自分が仏になる道を行くこと、即ち完全円満なる人格を戴くということが一番大切なことになるのです。これがわかってみますと、他の人に対して一番にやらねばならぬことは、成仏の道をすすめることです。早く仏になりなさい、仏になる道を聞きなさいということを勧めるより外に慈悲の道はないのであります。物をやる、或いは心を直すというよりも、何はさておき、仏になる道を語ることです。仏になればみんなが助かるのです」

しかしなあ、とてもじゃないが「完全円満なる人格を戴く」とか「仏になる」とか、そういうところまで到達するのにはかなり困難であるし、時間もかかる。
自分が仏にならないかぎり何もできないというのでは、目の前におぼれている人がいるとして、完全に泳ぎをマスターするまでは救助してはいけないということになる。

そして、暁烏敏はこうも言っている。
「今日、世の中の欠陥を見て、その世の中を改造しようということを考えておる人がある。社会運動などする人もそれだし、政治運動をする人もそれです。しかしよく考えてみますと、自分の力じゃ駄目だ」
駄目だ駄目だと、どうも最初から自信を失っている。
この理屈だと、「社会運動とかと平和運動とか」できなくて自信を喪失した人が念仏者になるということにならないだろうか。

聖道の慈悲と浄土の慈悲ということ、これは二者のうちどちらかを選ばないといけないわけではなく、両方とも大切である。
「人はパンのみにて生きるにあらず」というが、しかしパンがなかったら生きてはいけない。
キリスト教の教団で、パンを与えるのは教団の仕事ではない、個人ですべきことだ、と言う教団があるだろうか。

某参務は「この宗門は、念仏者を生み出す、これが第一であり、これだけしかないのです」と言っているが、では念仏者とはどういう人なのか。
「私は念仏者です」と自分から言う人はいないだろうし、単なる理念上の存在というか、真宗的理想的空想的人物のような気がする。
それか、言われるままに懇志を納める人のことか。
案外とそれが正解かもしれない。

追記
某氏に「真宗大谷派名古屋教区教化センター センタージャーナル」をもらう。
それに大正時代の『真宗』に掲載された質疑応答がいくつか紹介されている。
その中にこういうQ&Aがある。

Q 真宗では、この世で理想の世界を実現させることは語られていないのに、何故、社会に対する働きかけをするのか?
A 浄土往生が目的だから娑婆世界はどうなったっていい。果たしてこのようなことが理論上からも実際上からも云えるでしょうか。「東京へ行くのが目的だから、途中の汽車はどうなったっていい」誰がこんなことを真面目に考えましょう。汽車は汽車です。東京ではありません。汽車の中に東京を実現することはできません。それだからとて、汽車が壊れようが、座席がなかろうがどうでもいいとは云えません。この土はこの土です、浄土ではありません。この土へ浄土を立てることは出来ません。だからとて、この世が血の海となってもいいとは、常識のあるものならば云えぬ筈です。

まことにもっともな返答である。
たとえば戦争や地球温暖化などなど、所詮人間の世界はそんなもんなんだと開き直っていいものかと思う。

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コメント (13)
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