三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

郷田マモラ『モリのアサガオ』

2008年07月01日 | 死刑

「新人刑務官と或る死刑囚の物語」という副題がついている『モリのアサガオ』は、新米刑務官の及川直樹が死刑囚たちと接する中で、死刑の是非に悩むという漫画である。
死刑囚たちのエピソードは泣かせる話、考えさせる話ばかり。
だけど、最終巻の7巻、あまりにもひどくて、がっかりしました。

郷田マモラ氏はあとがきで
「ぼく自身が「死刑」に対して賛成なのか反対なのを決めなければ描きはじめられないと感じ、結局、どちらなのか分からず、その分からない思いを主人公の及川直樹に反映させることにしました。刑務官という立場と経験から、直樹は、さまざまな疑問を抱きつつも、「死刑」を肯定して終わりました」
と書いているように、いろいろ悩んだけど死刑は必要だというのが『モリのアサガオ』での結論である。
しかし『モリのアサガオ』は、主人公の一人である渡瀬満の執行で始まるから、死刑の是非は最初から決まっていたのではないかと思う。

『モリのアサガオ』に出てくる死刑囚には、改心している者、冤罪の者などが少なからずいる。
『モリのアサガオ』の舞台であるなにわ拘置所には、冤罪の死刑囚が4人いるし、冤罪なのに処刑された者が少なくとも2人はいることを及川は知っているにもかかわらず、死刑を肯定するのである。

なぜ死刑は必要だと及川は考えたのか。
「死刑という極限の罰があるからこそ まったく反省の色がなかった確定囚の心が変化することもあるんやで
人間らしさを取り戻して死んでいったほうがいいに決まっている」

「死刑の存在そのものが心を変えることができるんや
多くの人を悲しませたり…いろんな問題はあるけれど…やっぱり死刑は必要なんや!!」

「確かに「死刑」にはさまざまな問題点があるし、さらに無実の罪で…「冤罪」によって長い年月を死の恐怖にさらされ続けている人もいる
しかしどちらが大切かと考えた場合…被害者やその遺族たちの感情や そして何人かの死刑確定囚が改心した例を目のあたりにすると やっぱり「死刑」は必要不可欠なんやとぼくは思うんや」

こういう及川のセリフが何度も出てくる。
極悪人を改心させるためには死刑は必要だ、死刑があるからこそ反省できる、懲役刑や無期刑だったら反省しない、というわけである。
某氏が書いた死刑賛成論の冊子に、「死刑も矯正教育」だとあった。
私は全く賛成できない。

渡瀬満は、両親を殺した男を復讐のために殺す。
その時に男の娘も殺したために死刑になった。
渡瀬が控訴しなかったのにはわけがある。
及川はその理由を知り、そして渡瀬が泣きながら「助けてくれ」と助けを求めるのにもかかわらず、「満…キミは間違っているよ キミの罪は「死刑」に値するとぼくは思う」と言い放ち、死刑を執行された死刑囚の遺書を見せる。

「もし死刑がなかったなら、私は反省などせず、殺人鬼のまま地獄へ落ちていたことでしょう。
死刑があるがゆえに私は死の恐怖を思い知り、自分の犯した罪に向き合うことができたんです(略)」

そして及川は渡瀬にこう言う。
「ぼくは「死刑」が必要やと思うんや
ぼくはこれまでに何人もの死刑確定囚が世古(遺書を残した死刑囚)と同じように死と向き合い…心から反省する姿を見てきたから…
「死刑」があるからこそ人間らしさを取り戻す様子を目のあたりにしてきたから…
加害者を同じ目にあわせたいと願う被害者遺族の感情もあるけれど…
この死刑囚舎房で働き…経験してきたぼくはぼくなりにやっぱり「死刑」はなければならないと思ったんや
どんな状況下であれ2つの尊い命を奪ったキミは…「死」を…「死」をもって償うべきなんや 満!!」
そりゃないですぜ、友人が絞首刑で殺されるんですよ、ちょっと薄情すぎるじゃないですか、及川さん、と言いたくなる。

そして及川は、渡瀬を抱きながら「本当は渡瀬のことを助けたいけど… しかし「死刑」があるから人は心から反省できるんや… 渡瀬もそうあってほしいんや」と独白する。
なんだか及川という人、傲慢すぎる。

渡瀬は執行前日、「ぼくがキミに「死刑」を突きつけたのは…ま…間違いやったんや…」と言う及川に、「こんな悲劇が起きないためにオレは「死刑」にならなければいけないんや」と言う。
自分が死刑で殺されたから悲劇がなくなるわけではあるまいに。
冤罪の者を処刑してまで死刑を肯定し、必要だと主張しなければならないのか。
最後で白けてしまった。

たしかに死刑を求刑され、死刑判決が出されることで自分の罪を認め、反省を始める人がいることは事実である。
しかし、死刑があるから本当の反省が生まれるというのはあまりにも単純な考えだと思う。
死刑がなければ犯罪を犯した人は反省しないのか、罪を悔いないのか。
すべての死刑囚が死刑によって反省するのか(『モリのアサガオ』にも反省の色を見せない死刑囚が何人も登場する)。
拘禁反応で精神障害になる人がいることをどう考えるのか。
などなど、死刑矯正教育論には疑問を持つ。
そして、本当に改心した人をどうして殺さなければならないのか、私には理解できない。

安田好弘弁護士はこう言っている。
「みなさんが人を殺したとして、死刑でなかったら反省しませんか。相手の苦しみを知り、自分のやった行為がどういうことかを認め、罪を自覚することによって初めて反省できるわけです。刑の重さによって反省するかどうか決まるわけではありません。事件を起こした人も起こしていない人もそれは同じなんです。それを一面的にとらえて、死刑があるから反省するんだとか、死刑があるから犯罪を犯さないと言うのは、人間というものの現実を見ていない考え方だと思います」

土本武司白鴎大学法科大学院教授といえば、刑事裁判のニュースでは厳罰化に賛成し、死刑判決に賛成するコメントをする人である。
産経新聞の「正論」(2006年11月26日)の「死刑未執行が増加する現状へ」という論の中でもこういうことを書いている。
「判決が確定した以上、刑は速やかに執行されなければならない」
「そもそも法が死刑執行に期限を定めたのは不当に長く死への恐怖を継続させないためである。有期囚はもちろん、無期囚であっても仮出獄制度との関連において社会復帰の可能性が高いが、死刑囚にはその可能性は皆無に近く、将来には「死」あるのみである。かつてとられていた執行の具体的日時の予告制度は現在はとられていないが、そういう状況下で余命が長引くことが死刑囚にとって残酷なことでないといえるだろうか」

ところが、その土本氏について「週刊朝日」6月6日号に、「死刑囚から届いた9通の手紙「彼を刑場に送る必要はないのでは、と思った」」という記事が載っている。

「元最高検検事の土本武司氏はかつて、みずから死刑を求刑した死刑囚と文通を重ねていた。そして、そこにつづられていた言葉に動かされ、この死刑囚の恩赦を願い出ようとした。裁判員制度の開始まで1年。死刑囚から届いた9通の抜粋とともに、土本氏の死刑についての考えを紹介する」

地検検事の土本氏は、強盗殺人を犯した22歳の被告に死刑を求刑した。
被害者は1人、「無期懲役になるかもしれない」と、土本氏は思っていた。
地裁で死刑判決が出て、1ヵ月後、被告から年賀状が来た。
それから文通が始まる。
手紙は恨みつらみを書いたものではなかった。
彼は自分を見つめ、最後は犯罪者どころか仏さまのような心境に変化していった。
土本氏は彼の手紙を見て、「もう彼を刑場に送る必要はないのではないか」と考え、恩赦請求を本気で上司に相談したそうだ。

検事として死刑を求刑した際、おそらく矯正不可能、遺族の処罰感情が熾烈、社会秩序を守らなければetcということが死刑を求める理由としてあげただろうと思う。
しかし、恩赦を申請しようと思ったということは、こうした求刑の理由が間違っていたことを認めたことになる。

土本氏が死刑囚の恩赦を出願しようと考えたとは。
土本氏の死刑に対する本音はどこにあるのだろうか。
私は「週刊朝日」6月6日号を読んでいないので、土本氏がどういう意図で手紙を公表したのかはわからない。
ひょっとしたら、本当に改心した死刑囚は恩赦して無期刑に減刑すべきだというのが、土本氏の現在の考えなのかもしれない。
もしもそうなら私も賛成である。

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コメント
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