三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

イ・チャンドン『シークレット・サンシャイン』

2008年07月25日 | 映画

イ・チャンドン『シークレット・サンシャイン』は、子供が誘拐されて殺された母親の物語である。
キリスト教の教会(これがかなり怪しそう)に行くようになり、心の落ち着きを取り戻す。
そうして、加害者を赦したことを本人に伝えるために、主人公は刑務所に面会に行く。
ところが、男は刑務所でキリスト教を信仰するようになったと言い、そうしてにこやかな顔で「神の赦しを得た」と言うのである。
「祈りとともに目覚め、祈りとともに眠る」と、男が心の平安を語るのを聞いた主人公は壊れてしまう。

「赦した」と男に伝えたら、男は感激し、感謝するだろうと主人公は楽しみにしていたと思う。
そのことが主人公の喜びともなり、救いとなるはずだった。
ところが、男の満ち足りた顔を見て、主人公は男を、そして神を許せなくなったのではないだろうか。
神は私に無断でどうして赦したのか、私が苦しんでいた時に男は神の赦しを得てのほほんと暮らしていた、という怒り。

主人公は、自分が苦しんだように、男も苦しみ悩んでいてほしかったんだろうと思う。
ところがけろっとした顔をしている。
この表情が不気味である。
罪の意識、恥じる気持ちがない。

たまたま宮城『正信念仏偈講義』を読んでいたら、こういうことが書かれてあった。
「親鸞聖人にあっては、償い切れるような罪は罪というに値しないとおっしゃるのでしょう」
「罪業というのは、死んでおわびをするというようなものではない。死によっても終わらないものです」
「死んだらそれで帳消しにしてもらえるというようなものではないのです。死んで罪を償うというのですけれども、仏教の智慧からいえば、死んで償えるようなものは罪というに値しないのでしょう」

『シークレット・サンシャイン』で言えば、神に赦されたからといって、自分のしたことが帳消しになるわけではない。
それどころか、神に赦されたことによって、よりいっそう罪の重さを知ることになり、自分の行為を恥じることになるはずである。
安易な心の平安などあり得ない。

そして、宮城先生はこう言う。
「自らの在り方を深く悲歎するという心だけが人間としての心を回復していくのです」
悲歎とは慚愧、すなわち恥じることである。
「慚愧というものの深さを親鸞聖人は悲歎ということばで述べておられるわけですが、その自らの在り方を深く悲しむという心がないとき人間関係が失われるのです」

男は恥じていないし、悲しんでいない。
恬淡としているというか、自己満足の世界に浸っている。
宮城先生は
「他の存在とのかかわりのほかに自己というものはない。他の存在とのかかわりを断ち切るときには、人は自己であることを失うのです。自己であることを失うということは、ただその人だけの観念の世界に、つまり自己満足の世界に閉じこもる。そういう自己満足の中に閉じこもって、他の存在に心を開かないのが、実は驕慢なのです」
と言われているが、まさにぴったり、あの表情は驕慢さを表しているわけだ。

で、『シークレット・サンシャイン』に出てくる教会だが、キリスト教福音主義らしい。
神様がとにかく救ってくださるんだからありがたい、と感情をむき出しにして喜ぶ人たちを見ていると、カルトとはこういう感じなのかと思った。
すべては神様のお心なんだ、最終的には何もかもうまくいくんだ、というところには悲歎や慚愧はない。

宗教の意味を『明解国語辞典』で調べると、「神・仏などの超人的・絶対的なものを思慕・崇拝・信仰して、それによってなぐさめ・安心・幸福を得ようとする機能」とある。
悲嘆や慚愧がないわけで、ちょっと違うように思う。

   
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コメント (30)
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