三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ニューエイジのジレンマと仏教批判

2006年09月24日 | 問題のある考え

スピリチュアルはもともとキリスト教の言葉で、霊的、宗教的という意味である。
医療の分野でもこの言葉が使われており、WHOの健康の定義は「身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態」だが、それに「スピリチュアルに健康」を加えようという動きがある。
医療の現場ではスピリチュアル・ケアとか「スピリチュアルな痛み」が問題にされている。
肉体的な痛み、精神的な悼みとは違って、「なぜ死ななければいけないのか」といった苦悩を問題にしているということらしい。

ところが、ニューエイジ、精神世界、心霊主義でもスピリチュアルが使われていて、この場合はうさんくさいと考えてまず間違いない。


伊藤雅之『現代社会とスピリチュアリティ』の中で、スピリチュアリティがニューエイジ的意味で使われている。

まえがきにこう書いてある。
「宗教」という言葉に対して、ある種の嫌悪感をもつ人々が増えており、「宗教」の代わりに「スピリチュアリティ」の語がしばしば用いられるようになってきている。

スピリチュアリティはおもに当事者の個人的体験を指す。当事者の超越的体験、超自然的な感覚、人生の意味の基盤などを表すときに用いることがほとんどである。(略)
スピリチュアリティの語は、おもに個々人の体験に焦点をおき、当事者が何らかの手の届かない不可知、不可視の存在と神秘的なつながりを得て、非日常的な体験をしたり、自己が高められるという感覚をもったりすることを指す

神秘思想が宗教の代わりになっているわけである。

伊藤雅之氏は、ニューエイジが抱えているジレンマを3つ指摘している。

1、しばしば善悪の判断基準の相対化をもたらすことがある。特定の規律や倫理的基準を否定する傾向にある。既存の価値観に基づいて善悪を判断することへの躊躇。
2、「本当の自分」といっても千差万別な個人のあり方を容認しているわけではなく、反合理主義的で感性豊かな人間像を模索している場合が多い。換言すれば、「ありのままの自分」になる理想のもとに、特定の集団が求める人間像を受動的に受け入れてしまう。
3、「個人の意識変容」を最優先させながら、いかに他者とかかわるかについての問題。社会への無関心を暗に肯定する。

3についてつけ加えると、60年代には若者は社会を変革しようとしたが、変えることはできずに挫折した。
それ以降、政治や社会への関心が薄れて、自分の内面への興味が強まり、個人的なことを大事にしようという流れになった。
関心は外的な社会変革から内的な自己変容に移っていった。
このように伊藤雅之氏は指摘する。

このジレンマはオウム真理教やラジニーシ・ムーブメントといったにもぴたりと当てはまる。

そして、仏教も似た問題を抱えている。
田村芳朗氏がさまざまな哲学者や宗教家の仏教に対する批判を遁世主義、空・一如思想、神秘主義的性格と、末木文美士『仏教 vs. 倫理』に紹介されている。

遁世主義とは、仏教が世俗超越の方面ばかり強調し、世俗内の現実の問題に無関心になりがちなことである。

空・一如思想とは、すべてが空・無実体であり、悟りの世界として一体(一如)であるならば、そこでは善悪の区別をすることができなくなってしまうのではないか、という問題である。
神秘主義的性格とは、悟りの体験に究極的な価値を置くため、その他のことが軽視されることである。

遁世主義は「社会への無関心」ということであり、空・一如思想は「善悪の判断基準の相対化」である。

神秘主義的性格は体験至上主義というニューエイジの特徴であるし、「特定の集団が求める人間像を受動的に受け入れ」させるのは仏教教団も同じ。
仏教もスピリチュアル・精神世界と同じ問題を抱えていることになる。

コメント (14)
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