トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった』は、1942年11月から1945年5月のヒトラーの死まで秘書を務めた著者トラウデル・ユンゲ(1920年生)が、1947年から1948年にかけて書いた手記に、編者が著者の生い立ちからヒトラーと出会うまで、そしてヒトラーが死んでから現在までの解説を加えた本である。
トラウデル・ユンゲはまえがき(出版に際して書いたもの)にこう記している。
『私はヒトラーの秘書だった』に描かれているヒトラーはユーモアがあり、優しく、丁寧な態度をしめし、禁欲的である。
トラウデル・ユンゲは秘書になって間もなく、ヒトラー一行と旅行をともにした時のことをこう書いている。
ヒトラーは言葉つかいが丁寧である。
もともと熱心な映画・演劇ファンだったが、「開戦以来この種の娯楽は控えた」。
エヴァ・ブラウンに映画を見ようと勧められても、ヒトラーは
と断っている。
しかし、他の人が映画を見ることについては何も言わなかった。
どうしてエヴァ・ブラウンと結婚しないとかと著者がヒトラーに尋ねると、こういう答えが返ってきた。
トラウデル・ユンゲはヒトラーをこのように評する。
ヒトラーや麻原彰晃を、狂人、あるいは俗物と決めつけてしまっては、どうして多くの人を惹きつけ、自分の言いなりにさせたのかがわからなくなってしまう。
よく気がついて優しく、魅力的にふるまいながら、残酷なことを平気で行う、ヒトラーや麻原彰晃はどういう人間なのか。
総統防空壕から脱出してからのトラウデル・ユンゲの人生は波瀾万丈である。
ソ連に捕まり、アメリカに捕まり、そして釈放されと、これだけで一編の小説ができる。
『私はヒトラーの秘書だった』が感動的なのは、ヒトラーの秘書だったということを、仕方なかったと自己弁護しないばかりか、自らの責任に苦しむ点である。
ヒトラーの近くにいたとはいえ、若かったし、ナチスの党員でもなかったから無罪となり、解放される。
普通なら、ヒトラーの秘書だったことについて、戦争について、自分の責任を感じることなく一生を過ごすだろうが、違った。
1960年代半ばごろから、トラウデル・ユンゲは自分の中で、「若かった」「何も知らなかった」という言い訳が通用しなくなり、自分を責める。
トラウデル・ユンゲ著者はウツになった時、自分の落ち込みを「ナチス体制の残虐行為に結びつけて考えるようになる。そしてますます具体的になっていく罪悪感に苦しめられたのだ。
日本人の場合、自らの戦争責任と正面から向き合っている人は少ないように感じる。
その少ない例として中国帰還者連絡会の方たちがいるが、中国に洗脳された、共産党の手下だ、などという中傷が多い。
責任を感じることと自虐とはまるっきり違うことである。