三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった』

2006年09月14日 | 戦争

トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった』は、1942年11月から1945年5月のヒトラーの死まで秘書を務めた著者トラウデル・ユンゲ(1920年生)が、1947年から1948年にかけて書いた手記に、編者が著者の生い立ちからヒトラーと出会うまで、そしてヒトラーが死んでから現在までの解説を加えた本である。

トラウデル・ユンゲはまえがき(出版に際して書いたもの)にこう記している。

ヒトラーの魅力に屈することがどんなにたやすいことか、そして大量殺人者に仕えていたという自覚を持って生きてゆくことがどんなに苦しいことか。

『私はヒトラーの秘書だった』に描かれているヒトラーはユーモアがあり、優しく、丁寧な態度をしめし、禁欲的である。

トラウデル・ユンゲは秘書になって間もなく、ヒトラー一行と旅行をともにした時のことをこう書いている。

ヒトラーは女性に対してとても感じのよい優しいホストだった。私たちに自分で好きなものをとるように勧め、何か希望はないかと尋ね、以前この列車でした旅や犬の話を若干のユーモアをこめて話し、自分のスタッフについて冗談を言ったりもした。私には会話の自然さがとても意外だった。

ヒトラーは言葉つかいが丁寧である。

私個人が葉巻やタバコの匂いを嫌いだと思うことはべつにしても、尊敬する人や愛する人にタバコや葉巻を勧めるなんぞ、私はしませんね。


もともと熱心な映画・演劇ファンだったが、「開戦以来この種の娯楽は控えた」。
エヴァ・ブラウンに映画を見ようと勧められても、ヒトラーは

この戦争中、国民はおびただしい犠牲を出さなければならず、私も非常に難しい決定を下さなければならない。こんなときに、私は映画なんぞ一本だって眺めていることはできん。

と断っている。
しかし、他の人が映画を見ることについては何も言わなかった。

どうしてエヴァ・ブラウンと結婚しないとかと著者がヒトラーに尋ねると、こういう答えが返ってきた。

私はよき家庭の父親にはなれないだろうし、充分に妻に尽くす時間もないのに家庭を持つのは、無責任でしょう。


トラウデル・ユンゲはヒトラーをこのように評する。

ヒトラーは、男も女もその威力から逃れきることのできない、ある種のカリスマ性を発していた。人間としては控えめだし愛嬌もあった


ヒトラーや麻原彰晃を、狂人、あるいは俗物と決めつけてしまっては、どうして多くの人を惹きつけ、自分の言いなりにさせたのかがわからなくなってしまう。

よく気がついて優しく、魅力的にふるまいながら、残酷なことを平気で行う、ヒトラーや麻原彰晃はどういう人間なのか。

雄弁と暗示力で人々を虜にし、彼ら自身の意志や確信を押し黙らせることができるような一人の人間の力が、いかに大きな危険を秘めいているか。

総統防空壕から脱出してからのトラウデル・ユンゲの人生は波瀾万丈である。
ソ連に捕まり、アメリカに捕まり、そして釈放されと、これだけで一編の小説ができる。

『私はヒトラーの秘書だった』が感動的なのは、ヒトラーの秘書だったということを、仕方なかったと自己弁護しないばかりか、自らの責任に苦しむ点である。

ヒトラーの近くにいたとはいえ、若かったし、ナチスの党員でもなかったから無罪となり、解放される。
普通なら、ヒトラーの秘書だったことについて、戦争について、自分の責任を感じることなく一生を過ごすだろうが、違った。

1960年代半ばごろから、トラウデル・ユンゲは自分の中で、「若かった」「何も知らなかった」という言い訳が通用しなくなり、自分を責める。

私は間違った方向に進んでいったのです。いいえ、もっと悪いことには、決定的な瞬間に自分で決断を下せず、人生をただ雨に降られるままにしておいたのです」

トラウデル・ユンゲ著者はウツになった時、自分の落ち込みを「ナチス体制の残虐行為に結びつけて考えるようになる。そしてますます具体的になっていく罪悪感に苦しめられたのだ。
日本人の場合、自らの戦争責任と正面から向き合っている人は少ないように感じる。
その少ない例として中国帰還者連絡会の方たちがいるが、中国に洗脳された、共産党の手下だ、などという中傷が多い。
責任を感じることと自虐とはまるっきり違うことである。

コメント (2)
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