三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

末木文美士『仏教vs.倫理』

2006年09月29日 | 仏教

某氏から勧められていた末木文美士『仏教vs.倫理』をやっと読む。
仏教と倫理の関係からさまざまな問題提起されている。
あれこれと考えました。

釈尊の悟りの内容には「教えを説く」「衆生を救う」ということは含まれていないと末木文美士は言う。

原始仏教の原理には二つの異なる源泉があることになる。ひとつはブッダの悟りそのものに含まれているもので、最終的には四諦八正道などといわれる体系にまとめられる。もうひとつはブッダの後半生の伝道布教の動機となるもので、それは悟りそのものには含まれない無償の慈悲の原理である。

悟りと、衆生を救いたいという慈悲とは別だというわけである。

教えを人々に説いてその苦しみから救いということはブッダの最高の慈悲の行為であるが、それが必ずしもその悟りの真理の中核になかったということは驚くべきことである。まったくひとりで人里離れてひっそりと死んだとしても、ブッダの悟りの根本に背くことにはならないのである。慈悲の原理はブッダの悟りの原理とは違うところにある。


大乗仏教では自利(悟り)利他(慈悲)円満だから、悟りと慈悲は一つの体系である。
そして、小乗は自己の悟りしか考えていないと、大乗仏教は批判した。
しかし、釈尊の教えは自己の悟り(成仏)が目的だから、利他がないと批判するのはおかしいことになる。

しかも、大乗仏教によって仏になったものがいるのか(自利)、衆生を済度しているのか(利他)。
その問題を宮元啓一『ブッダ』にはあけすけに書かれてある。

大乗仏教は、もともと、だれでもその気になれば仏になれるということを強調してやまない仏教である。(略)しかし、どうなのであろうか、筆者の知るかぎり、大乗仏教の徒で、自他ともに仏になった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史のなかではたして登場したであろうか。答えは、まったく否なのである。(略)
部派仏教では、仏にはなれないけれども阿羅漢にはなれる。(略)それにくらべて、大乗仏教では、仏どころか涅槃も不可能なのである。大乗仏教の、「仏教」としての存在意義は、いったいどこにあるのだろうか、筆者の疑念は尽きるところを知らない。

たしかにそうだと思う。

そして、末木文美士はこう書いている。

大乗仏教は確かに衆生救済という高い理想を掲げる。(略)それはすばらしい。しかし、そもそもわれわれ凡夫にはそのような高度の救済活動ができるのか。ここに、他者としての救うブッダや菩薩が現れ、我々は救われるべき衆生となる。

救うべき菩薩から救われるべき衆生へ、という展開である。

しかし、目の前に苦しんでいる人がいたらどうすべきか、ということは大問題である。
末木文美士によると、大乗仏教にも2つの立場がある。

即身成仏・仏性説の立場 利他の実践を自らが成仏して以後の問題として先送りする。

法相宗の立場 仏になるというのは先の話であり、今は菩薩として衆生済度の行を実践すべき。

前者の立場である鎌倉新仏教は社会的実践を軽視し、後者の立場である旧仏教は社会救済事業に尽くしたのは事実である。
法相宗は利他行は往相で実践すべきと説く。
日本仏教の流れは仏性説が主流となっている。

こういうふうに末木文美士は整理しているが、社会(他者)との関わりという点から考えるならば、上座部仏教や法相宗に軍配を上げたくなる。

今月号の「真宗」に「お坊さんはどうして社会問題に疎いのでしょう」という言葉があったが、ほんと、そのとおり。

本覚思想について

具体的現象的な色(=迷いの世界)がそのまま本質的絶対的な空(=悟りの世界)と考えられて、両者が同一であると考えられるならば、迷いの世界はそのままで悟りの世界であり、迷いの世界を変える必要はない、ということになってしまう。実際、日本の本覚思想はそのような方向を極端に発展させたものである。


仏性について

絶対的能力に関しては、善人であれ、極悪人であれ、少しも変わらないことになる。仏性はみな同じであり、大小はない。ちなみに、法然の浄土教では浄土往生に関して、同じような平等性がいわれる。
ところで、ここで注意を要するのは、仏性の平等ということは、現実の不平等を少しも解消しないということである。むしろ現実の不平等を隠蔽する理論として用いられる可能性も大きい。最終的には同じように成仏するのだから、現世の不平等は我慢しなさい、という論法は容易に成り立つ。

本覚思想も仏性説も、単純に現実を肯定してしまうおそれがあるということである。
苦の衆生の救済を説きながら、苦や差別をそのまま是認してしまう教えに陥ってしまうという矛盾。
何もしなくてもいいんだということになり、さらには、何かしようとすること自体がはからいだとして否定してしまう。

この問題を考える糸口として、末木文美士は他者の問題を取り上げている。

自利は他者がいなくても実践しうるが、利他は他者なしには成り立ちえない。

菩薩であることの根拠は自己の中にではなく、他者との関わりの中にあるのである。

釈尊も永遠に衆生と関わり続ける限り、どこまでも菩薩である。その際重要なことは、菩薩の菩薩たるゆえんはあくまで他者との関わりの中にあり、仏性とか如来蔵のように、実在的な基盤があるわけではない、ということである。

「他者」とは単なる他人ではないそうだが、難しいことは私にはわからない。
だけども、救いは他との関わりの中でしかあり得ない、と思っている。

コメント (21)
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