脊椎カリエスで寝たきりの正岡子規が、
「悟りという事はいかなる場合でも平気で死ぬる事かと思って居たのはまちがいで、如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」
と書いているのを読み、うーむ、これは深い、と思った。
夏目漱石が死ぬ一ヵ月前に、松岡譲ら弟子たちに則天去私についてこんなことを語ったと、「漱石山房の一夜―宗教的問答」(『漱石先生』)にあるそうだ。(『漱石先生』は未見です)
弟子たちは「そりゃ、先生、残酷ぢやありませんか」と言ったら、夏目漱石は静かに、「凡そ真理といふものはみんな残酷なものだよ」と穏やかに答へたという。
悟りとは本能の力を打ち敗かすことかと尋ねると、
と夏目漱石は答えた。
その境地を「則天去私」とよび、「俺が自分といふ所謂小我の私を去つて、もつと大きな謂はば普遍的な大我の命ずるまゝに自分をまかせる」ことだと説明する。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/dd8e5f9db3506a1f33947dd53b60e781
正岡子規の「如何なる場合にも平気で生きて居る事」と、夏目漱石の「あゝさうかといつて、それを平静に眺める事」とは違うような気がする。
正岡子規は毎日のガーゼ交換のたびに、激痛のために隣近所にまで響き渡る絶叫をあげる、そういう日々を過ごしている。
にもかかわらず、最後の著書『病牀六尺』ですら、さまざまなことに好奇心を持ち、驚き、妙に明るい。
その一方、娘が失明しても、「ああ、そうか」と平然とし、心が波立たないことが悟りなのか疑問に思う。
話は飛ぶが、7月に姫路で84歳の妻が80歳の夫を殺した事件があり驚いていたら、9月2日には神奈川県で86歳の妻が90歳の夫を千枚通しで十数カ所を刺して殺したという事件があった。
他人事ではない、これからはドアにカギをかけて一人で寝ないと危ないかなどと、殺されるかもしれない夫の立場で考えた。
では、妻はどう思ったのかと気になるが、聞いてもまともには答えないだろうから推測すると、どちらの事件も、夫から怒鳴られてばかりいたからというのが殺人の原因らしい。
常日頃、私の暴言に愛想を尽かしている妻としては、「殺したくなる気持ちはわかる」と共感しているかもしれない。
児童虐待についてどう思うか、いろんな人に聞いてみると、ほとんどの男性は「理解できない」と言うが、女性の場合だと、60歳以上の方は「虐待する気持ちがわからない」という答えが多く、60歳以下の方の中には「わかる」と答える人がいる。
「いくらあやしても泣きやまないので床に叩きつけたくなったことがある」とか、「一人で喫茶店に入ってコーヒーを飲んだらすごく楽で、育児放棄するのはこういうことなのかと思った」といった話を聞いたことがある。
男性が児童虐待をする人間の気持ちが理解できないのは、育児にほとんど関わっていないから、その苦労を知らないからじゃなかろうか。
経験をしなければわからないことはあって、仮定の事柄で悟ったようなことを言うのは簡単だと思う。