三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

大飢饉

2006年09月08日 | 日記

南部藩では江戸時代、7年に一度の割で飢饉があったそうだが、宮本常一編『日本残酷物語』を読むと、飢饉の際には年寄りや子供より、意外と若い者が死んでいったとある。
自分は元気だからと、弱い者たちに少ない食べ物をまず食べさせたからである。

鴨長明の『方丈記』にも同じことが書かれている。
養和の飢饉の時、仁和寺の隆暁は京都の路上に横たわる死者を供養し、二ヶ月間数えてみると遺体の数が42,300余りにも及んだ。

又、あはれなること侍りき。さり難き女男など持ちたるものは、その思ひまさりて志深きは必ず先だちて死しぬ。その故は、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしく思ふ方に、たまたま乞ひ得たる物を、まづ讓るによりてなり。されば親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先だちて死にける。
(またたいそう哀れなことがあった。夫婦は相手を思う気持ちの強い者が先に死んだ。そのわけは、たまたま得た食べ物を相手に譲ってしまうからである。だから親子でも、親が先立っていった)


養和年間は1181年から1182年にかけての年号で、安徳天皇の時代である。
鴨長明は1155年生、どうやって養和の大飢饉を生き延びたのだろうか。
鴨長明や親鸞、道元といった死なずにすんだ人たちは「志深き」人ではなかったということか。

過去帳を見ると、江戸三大飢饉の一つ、天保の飢饉の天保8年に亡くなった人は前後の年の2・5倍である。
死亡者が多いのは飢饉のためかどうかはわからないが。

コメント (2)
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