三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

みーんな同じ

2006年09月10日 | 日記

ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』にこういうことが書かれてある。

われわれはみな、「この世は正しい。誰もが自分に相応しい運命を割り当てられている」と心の奥底で信じている。幸運もその人に相応しい運命なら、ひどい目に遭うのも身から出た錆だ。
他人の苦しみが不当な苦しみだと感じられる場合には、「この世は正しい」という信念を根底から揺るがすことにつながりかねない。そこで、他人の不幸を目撃すると、不幸に見舞われた人が悪い、と考えるのである。少なくとも不幸の一部はその人自身のせいだ、と考えることによって、ゆらぎかけた信念を回復するのである。

この指摘、すごく示唆に富んでいる。

糸井重里のおばあちゃんは「悪い時もあれば、いい時もある。結局、人間が一生のうちに味わういいこと悪いことは、みーんな同じ」と、いつも言っていたと『私は嘘が嫌いだ』に書いてある。
同じことを思っている人は多いはずだ。
私も似たようなことをしゃべった記憶がある。

「この世は正しい」という信念(というほど確固としたものではないにしても)を持っているからこそ、結局のところ幸せの分量はみんな平等だと信じている。
そう思うことで安心感を与え、不平不満を抑えることができるのである。

しかしながら、「何でこんなことになるんだ。神も仏もあるものか」と文句を言いたいくなる時がある。
おかしいじゃないか、と。
災難に遭った時に、まず「神も仏もあるものか」と感じるということは、神や仏は「みーんな同じ」になるよう、うまいことバランスを取ってくれているんだ、と無意識に信じているわけだ。

そういった、世界の調和をもたらす存在としての神(というか信念)を否定してしまうと、今までの安定していた世界が壊れてしまう。
だから、「この世は正しい」ことにするため、「人生、楽ありゃ苦もあるさ」とか言って慰めようとする。

その程度ならまあいいのだが、デーケンが言うように、不幸や災難に遭った人に対して、「そりゃ本人の問題だ」とか「あんたの責任だ」ですましてしまいがちである。

ハンセン病を天刑病と言ったように。

児童虐待について真光ではこんなことを言うそうだ。

因縁というのは前世の話になりますが、先祖が人を殺したとか、そこまで極端じゃなくても、前世で人を虐めたというような人は、現世で殺されたり虐められたりする。
児童虐待はこれに入りますね。その子供が前世で自分の子供に同じようなことをしたからとか。虐殺なら、前世の時か先祖が戦争に加担して虐殺の一端をになったとか。
真光ってのは不幸現象にたいして、こういうとらえかたをしてます。つまり因果応報ですね。今の自分は悪くなくても、過去世の自分が今のつらい状況を作った。だから、現世であがないをさせられている。このように不幸に対しての説明づけがされてます。


糸井重里のおばあちゃんの言葉に、「そうそう、世の中ってうまくできているよね」と賛成する人(私もその一人)は、真光の教えにも納得するような気がする。

コメント (16)
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