ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』にこういうことが書かれてある。
われわれはみな、「この世は正しい。誰もが自分に相応しい運命を割り当てられている」と心の奥底で信じている。幸運もその人に相応しい運命なら、ひどい目に遭うのも身から出た錆だ。
他人の苦しみが不当な苦しみだと感じられる場合には、「この世は正しい」という信念を根底から揺るがすことにつながりかねない。そこで、他人の不幸を目撃すると、不幸に見舞われた人が悪い、と考えるのである。少なくとも不幸の一部はその人自身のせいだ、と考えることによって、ゆらぎかけた信念を回復するのである。
他人の苦しみが不当な苦しみだと感じられる場合には、「この世は正しい」という信念を根底から揺るがすことにつながりかねない。そこで、他人の不幸を目撃すると、不幸に見舞われた人が悪い、と考えるのである。少なくとも不幸の一部はその人自身のせいだ、と考えることによって、ゆらぎかけた信念を回復するのである。
この指摘、すごく示唆に富んでいる。
糸井重里のおばあちゃんは「悪い時もあれば、いい時もある。結局、人間が一生のうちに味わういいこと悪いことは、みーんな同じ」と、いつも言っていたと『私は嘘が嫌いだ』に書いてある。
同じことを思っている人は多いはずだ。
私も似たようなことをしゃべった記憶がある。
「この世は正しい」という信念(というほど確固としたものではないにしても)を持っているからこそ、結局のところ幸せの分量はみんな平等だと信じている。
そう思うことで安心感を与え、不平不満を抑えることができるのである。
しかしながら、「何でこんなことになるんだ。神も仏もあるものか」と文句を言いたいくなる時がある。
おかしいじゃないか、と。
災難に遭った時に、まず「神も仏もあるものか」と感じるということは、神や仏は「みーんな同じ」になるよう、うまいことバランスを取ってくれているんだ、と無意識に信じているわけだ。
そういった、世界の調和をもたらす存在としての神(というか信念)を否定してしまうと、今までの安定していた世界が壊れてしまう。
だから、「この世は正しい」ことにするため、「人生、楽ありゃ苦もあるさ」とか言って慰めようとする。
その程度ならまあいいのだが、デーケンが言うように、不幸や災難に遭った人に対して、「そりゃ本人の問題だ」とか「あんたの責任だ」ですましてしまいがちである。
ハンセン病を天刑病と言ったように。
児童虐待について真光ではこんなことを言うそうだ。
因縁というのは前世の話になりますが、先祖が人を殺したとか、そこまで極端じゃなくても、前世で人を虐めたというような人は、現世で殺されたり虐められたりする。
児童虐待はこれに入りますね。その子供が前世で自分の子供に同じようなことをしたからとか。虐殺なら、前世の時か先祖が戦争に加担して虐殺の一端をになったとか。
真光ってのは不幸現象にたいして、こういうとらえかたをしてます。つまり因果応報ですね。今の自分は悪くなくても、過去世の自分が今のつらい状況を作った。だから、現世であがないをさせられている。このように不幸に対しての説明づけがされてます。
児童虐待はこれに入りますね。その子供が前世で自分の子供に同じようなことをしたからとか。虐殺なら、前世の時か先祖が戦争に加担して虐殺の一端をになったとか。
真光ってのは不幸現象にたいして、こういうとらえかたをしてます。つまり因果応報ですね。今の自分は悪くなくても、過去世の自分が今のつらい状況を作った。だから、現世であがないをさせられている。このように不幸に対しての説明づけがされてます。
糸井重里のおばあちゃんの言葉に、「そうそう、世の中ってうまくできているよね」と賛成する人(私もその一人)は、真光の教えにも納得するような気がする。
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta-0t.htm
http://hexageon.cool.ne.jp/ikiru/nenpyo.html
けれど、ホームレスの方が危険だという意見の方が圧倒的なんですが、これジョークにあてはまるかどうか。
で、こういう本があります。10年以上前の事件について書かれていますが、大きな示唆を得ました。
http://www.tarojiro.co.jp/cgi-bin/SearchMain.cgi?operation=3&ISBN=4-8118-0641-7
その縁っていうのは何でしょう。真光さんのいうような、「過去世」でのその人の行いってなものではきっとないでしょう。現世での、人との出会いじゃないのかな。
以前に栗山千明さんのCMで、命は大切だうんたらかんたらと何万遍称えるよりも、あなたが大切だと言ってくれたらうんたらかんたらというのが、すごくいいと円さんが言われてました。
もう15年以上も前、死刑廃止運動の機関紙を取ってたことがあって、ある殺人事件を起こした女性がおおむねこういうことを書いてました。「私は、自分のことなんて、人生なんてたいしたことないと思ってた。そして、そんな時あの男と出会い、そしてその男が命じるままに、女性を誘拐して保険金目当てに彼女を殺した。それは、自分の人生なんてどうでもいいと思ってたから人の命なんてのもどうでもいいと思ってた」と。
お釈迦さまは、どっかでこういうことを言ってました。(モンチさんどこか探して下さい)「人っていうのは、自分が一番カワイイ。それは、他人とて一緒だ。だから、他人を害してはいけないんだよ」と。
北村年子さんの本でもキーワードは「自尊心」でした。自分を大切に扱ってもらって、自分が生きるに値するということを少年たちは学んでいないのではないか、と。
このあたりのメッセージがどうも死刑廃止運動の人から聞こえてこないというのが、私のイライラを募らせ、その機関誌を取らなくなった理由です。
怠け者だからこうなったんだ、何をするかわからない、汚い、いなくなればいいetc
私の目の前から消えて見えなくなれば、この世は正しいままですから、私としてはホッとするわけです。
正しい世界から排除しなければならないということは、彼らは正しくない存在、すなわち悪です。
だから、ホームレスは危険だということです。
ハンセン病者や犯罪者も、その意味では同じ存在です。
なんだか風が吹けば桶屋が儲かるみたいですが。
しないこと、できないことも、縁によってしないんですね。
>自分を大切に扱ってもらって、自分が生きるに値するということを少年たちは学んでいないのではないか、と。
酒鬼薔薇事件などを弁護した野口善國弁護士も同じことを話されてました。
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/noguti.htm
酒鬼薔薇についてこう言っておられます。
「この子は親にかわいがられて育った記憶がないから、自分はどうでもいい、ダメな人間だと思っているんですね。自己評価が低い。だから、他人の命もどうでもいい。
自分が無価値な存在だから、他人も無価値だと考えていたんです。その子にとっては、ナメクジもネコも人間も一緒なんで、ナメクジ殺していいんだったら、別に人殺してもいいんじゃないかと。」
その他にも、
「自分が大事にされているという感情、他人に認められているという感情を持ててはじめて、本当の意味の人に対する思いやりであるとか、罪の意識とかを持つことができるんです。」
「自己評価の低い人は自分を大切に思うことができない。自分を大切に思わない人は、他人を大切に思うことはできない。そして、自分をダメだと思っている子は、努力する意欲が少ない。」
などなど、なるほどというお話をされました。
お釈迦さまのお話ですが、コーサラ国の王様とお后の会話です。
http://souryo.blog24.fc2.com/blog-entry-90.html
むしろブルーハーツの唄うように「弱い(立場に置かれた)者たちが夕暮れ さらに弱い(立場にある)者をたたく」の方がリアルかな。
北村さんは、これを「弱者いじめの連鎖」という風に名づけていました。この連鎖を断つためには、真光さんみたいに訳のわからない「前世のインネン」なんて観念を持ち出したらダメですね。
やったことを社会のせいや親のせい(それがどういうものかであるかを吟味しないまま)にして終わりにするのではなく、また彼ら彼女らだけを責めたり、抹殺するだけで終わりにするのでなく。
イエスの言葉を円さんは、引用されてましたが、
http://www4.ocn.ne.jp/~vine7/essay/kannin.html
ここでは、赦しが語られてますが、最後の一節でイエスは
「もう罪は犯さないように」とクギをさします。親鸞さんも、
「今までは、なんだかわけわからんままに酔っ払ってたんだけど、今みんなはアミダさんの願いに触れたんだよ。で、薬があるからといって、毒をすすんで好めなんてことは言わないよ」と
いいます。何か親鸞さんと言えば、悪人正機。悪人こそが救われるんだ、と悪を礼賛するように言われたりしますが違うのですね。
http://www.worldtimes.co.jp/special/mida/md000319.htm
ま、要するに金もっててドーンと寄付できる人だけとか、根性や体力があって修行に耐えうる人だけとか、頭が良くてお経の理解が深い人だけが、お浄土に生まれるんだったら多くの人は望みをたたなきゃいけないでしょう。だから、アミダさんという仏さんは、なんまんだぶつと称えるという、誰にでもできる簡単な行を選んで、誰でも往生できるようにされたんだ、と。
これ、別に平安時代末期~鎌倉時代の宗教の話しだけに終わらせるにはもったいないと思います。(この部分を読んで、カトリックの井上洋治神父も感激したといいます。http://www.pauline.or.jp/mybook/mybook02.html)
善人には、居場所が与えられて、悪人には居場所が与えられないとうちの先生が言われてました。これこれということが出来る人には、居場所が与えられて、これこれということが出来ない人には居場所が与えられない。こう訳せばいいでしょうか。人はいつも他人から評価(モノサシ)にさらされますね。
「あいつは、仕事ができる」「あいつはアホだ」「あの娘はカワイイ」「あの女はブスだ」。。。
道頓堀から、ホームレス生活をする藤本さんを突き落としたゼロという少年は、自分がいじめられっ子だったから、いつも強くなりたい。強くなって人を見返してやりたいと思っていた云々というお話しが書かれていました。そして、いじめる自分に対して反抗してこない藤本さんに苛立ちを感じた、とも。
「あなたはあなたであっていい」というような言葉は、陳腐な
お説教かも知れませんが、こういう事件の文脈の中におけば、とても大切なメッセージだと思うのです。
悲しみや苦しみが人生の肥やしになる人がいれば、根腐れしてしまう人もいます。
この違いはどうして生じるのかということをよく考えますが、どうなんでしょうか。
法然との問答を読むと、ニラやニンニクを食べたあと念仏を称えてもいいかとか、赤ん坊に乳をやりながら念仏を称えてもいいかとか、実にどうでもいいようなことを法然に質問しています。
いろんなことがケガレであり、罪であり、悪であり、そうしたことに人々は悩んでいたんでしょう。
そのころの人はものすごい制約の中を生きていたんだなと思います。
そんなことは気にしなくていい、と智慧第一の法然房があっさりと言ってくれた時の喜びは、我々には想像つきません。
そうした制約は形を変えてですが、今でもあります。
ゼロという少年、成長、向上、進歩、発展しないとダメなんだと思っていたんでしょうね。
「~ねばならない」の呪縛です。
できない人間は悪人ですよね。
法然がしたように、言葉が届けばみんな楽になるんでしょうが。
再度、「ひきこもりの未来」で、上田和樹さんが書いてた文章の引用です。○○でなければ、いけない。○○であってはならない。規範意識にがんじがらめになっている様がよく伝わってきます。
彼のような状態が、鎌倉時代の穢れタブーにおそれおののいていた人々なのでしょうね。イエスの時代もそうでした。ものすごくユダヤの規範、戒律が煩瑣なものになって、そういうものを守れない人々は、罪人と呼ばれていたのでした。律法を厳しく守らなければ、神の国には入れないという守旧派が庶民を脅していたんですね。それに対して、イエスは真っ向から立ち向かったのでした。
「生きてる人間のために、戒律や法律やルールがあるのであって、ルールや戒律や法律のために人間が存在しているのではない!」。これは、建前上律法を守っている人たちにとっては、がまんならない言葉だったと思います。