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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

福井厚編著『死刑と向きあう裁判員のために』

2015年12月05日 | 死刑

福井厚編著『死刑と向きあう裁判員のために』に、死刑に関する審議型意識調査の結果が報告されています。

参加者に死刑に関する情報提供資料を前もって配布し、会場で丸1日かけて死刑制度について審議した。
審議は死刑制度に関する情報提供、グループ・ディスカッション(前半)、講演と質疑応答、グループ・ディスカッション(後半)で構成された。
審議前と審議後であまり変化があるようには思えず、参加者は死刑に対する態度決定に必要な知識が不足しているにもかかわらず、そのことに無自覚であることが多い。
たとえば、死刑制度に犯罪抑止力があるという仮説は、海外の研究を含めてこれまでに実証されていないことなどに対して、参加者はこうした情報に関する理解や受け入れの度合いが低かった。

坂上香『ライファーズ 罪に向きあう』からの孫引きですが、2011年、アメリカの無期刑囚は15万人強、仮釈放のない絶対終身刑は4万人強。仮釈放はほとんど認められない。

では、アメリカでは犯罪が増えているのかというと、そうではない。
1960~1990の犯罪率は、フィンランド、ドイツ、アメリカで大差ない。
しかし、フィンランドは30年間に受刑者数は60%減少、ドイツは横ばい。
それなのにアメリカは4倍に激増している。
アメリカの刑務所人口の増加が最も顕著だった1990年代、犯罪の発生率は25%も減少していた。

厳罰化と犯罪抑止は関係がないことは、たしかに理解してもらえません。

参加者は自分にとって新しい考えや意見に対しては柔軟に対応するものの、逆にすでに事実と思い込んでいる情報に対してはそれを否定する情報を提供しても考えを変えにくい傾向が浮かび上がる。

これは人間の特性でしょうね。

マーシャル仮説というのがあります。
死刑について知れば知るほど、①死刑を支持しなくなり、②死刑に反対する感情が生じる。
しかし、③応報的な理由から死刑に賛成する場合には、こうした傾向は見られない。

刑事裁判とは「被害者」対「被告人」で戦うものであり、「被害者が正義を勝ち取る場」であるという認識が強いこと、しかも「正義」は被告人が有罪(死刑)になるかならないかにかかっており、被告人が「罪を犯したかを裁く場」という認識は薄いことも明らかになった。「被告人には弁護士がつくのに、被害者には弁護士がつかないのはおかしい」といった発言が見られたのも、こうした認識によるものだろう。被害者に注目しているため、「被告人」がかならずしも「犯罪者」ではないという認識が薄いのである。


以前、裁判員と死刑についての集まりで、ある人が強盗殺人で起訴されたが、殺人と窃盗だと主張、一審は被告の主張が認められて懲役25年、二審では強盗殺人で無期懲役、上告はしなかった、という話をしたら、殺された人にとっては窃盗も強盗も同じだと言われ、反論できませんでした。
11月29日、泣き声がうるさいというので、生後16日の娘をごみ箱に閉じ込めて死なせたとして、両親が傷害致死容疑で逮捕されました。
傷害致死ですから、両親は死ぬとは思わずにゴミ箱に閉じ込めたということでしょうけど、殺された赤ん坊にとっては殺意があろうとなかろうと、たしかに同じです。

だけど、裁判員がそういうふうに考えてはまずいわけで、裁判員になったらという話し合いをしているのだから、強盗も窃盗もどっちもいっしょだと言うようでは裁判員失格だ、と反論すればよかったと反省。

このことは法律家にとっては深刻な事態である。というのも、刑罰はあくまでも国家や社会一般にとっての必要性の見地から科されるものであり、被害者が求めるから科すのではないというのが法の建前であり、法律家の圧倒的多数もまた、被害の程度に比して不釣り合いに大きなことがあり得る被害者遺族の感情を決め手として量刑を決めるべきではないという見解を有しているからである。


マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』に、自分の赤ん坊2人を殺害した罪に問われた事件があり、同じ家庭内でふたりの子どもが乳幼児突然死症候群で死亡する確率は7300万分の1だと小児科が証言したとあります。
7300万分の1という数字がおかしいそうだが、それはともかく、赤ん坊が2人とも突然死することは珍しいが、子どもを2人殺すということも極めて稀である。
稀だからといって、殺した可能性が高いということにはならない。
そんなことをマイケル・サンデルは書いているわけですが、素人には判断できないと思います。

高山佳奈子氏は「死刑を科すという判断は、市民が自己の経験を基に行うことのできる性質のものではない」と書いていますが、そう思います。


大山寛人『僕の父は母を殺した』

2015年10月12日 | 死刑

少年の再非行防止活動をしている知人から、読まないかと渡されたのが大山寛人『僕の父は母を殺した』です。

大山寛人さんの父親は、1998年に自分の養父を殺し、2000年に母親(自分の妻)を殺害したことによって死刑になった。

母を失った僕は、近い将来、たった一人の父親を死刑で失うことになります。父の死刑は、僕に新たな悲しみを与えるものでしかありません。被害者遺族が望まない加害者の死刑がある――そのことを知ってもらいたくて、この本を書き始めました。

被害者遺族のことを考えると死刑は当然だとか、被害者は厳罰を求めていると主張する人が多いですが、殺人事件の4割は家族が加害者、すなわち被害者遺族=加害者家族なのです。

母親が殺害されたとき、大山寛人さんは12歳、小学6年生。
中学2年のときに父親の殺人が発覚する。
父親が逮捕されて母親の姉に引き取られたが、悪さをするようになった。

この事実を受け止めることができず、非行に走って荒れた生活を送りました。周囲からは「人殺しの息子」と白い目で見られ、心も身体も行くあてがなく、公園のベンチや公衆トイレで眠る日々でした。僕から全てを奪った父を「この手で殺してやりたい」と思うほど憎み、恨み、爆発しそうな感情を抱えながら、精神安定剤を乱用し、自殺未遂を繰り返し、心も身体もボロボロになっていました。


中学を卒業すると児童養護施設に入るが、施設を出て荒れた生活をし、何度も補導されては鑑別所、自立支援施設に入るなどする。
公園のベンチやトイレで眠るという生活が続き、自殺未遂をしては病院に運ばれることを繰り返す。
父親のことなどを隠さずに正直に話せる恋人ができたが、親の反対で別れることになる。
広島を出て、名古屋に住むが、仕事の面接を受けて合格しても、父親のことを知られ、勤務する前にクビになる。

被害者感情を声高に言う人がいますが、現実は援助の手をさしのべる人はあまりいません。
大山寛人さんは自分の名前や写真を公にしていることで、さまざまないやがらせがあるだろうと思います。
しかし、非行をし、自殺未遂をする大山寛人さんを家に泊めてくれる友達がいたそうです。
手をさしのべる人がいるということにホッとします。

父親の死刑判決(一審)をきっかけに、3年半ぶりに父親と面会したことで、何かが変わり始めた。
何度も面会し、手紙のやり取りを重ねる中で、父親を責める気持ちが薄れた。
そして、父親に生きて罪を償ってほしいと考えるようになった。

父さんが死刑になっても母さんは戻ってはこない。今まで僕は父さんを恨み、憎み続けてきた。でもその感情は僕の心を押し潰しただけだ。父さんを恨んでいる限り、僕は救われない。
許すことはできない。
でも、恨みや憎しみを心に秘めることはできる。


大山寛人さん自身は、死刑制度に反対しているわけではないそうです。


少年死刑囚の写真

2015年07月13日 | 死刑

10年以上も前のことになりますが、犯罪被害者遺族として死刑廃止を訴え続けているレニー・クッシングさんと、アメリカの少年死刑囚の写真を撮影し続けている写真家トシ・カザマさんの講演を聞きに行ったことがあります。
きわめて重たい話でした。

それまで死刑についての本を何冊か読んでいて、予備知識はあったつもりでしたが、しかし実際に話を聞くと、何とも言えぬ重い気持ちになりました。

レニー・クッシングさんの父親は自宅に押し入った強盗に殺害されました。
被害者の救済と同時に死刑の廃止も求める「和解のための殺人被害者遺族の会」の代表をされています。

アメリカには18歳以下の死刑囚がいます。
トシ・カザマさんは彼らと会い、対話し、そして撮影します。
死刑囚のみならず、死刑囚の家族、被害者の遺族、そして刑務所や死刑を執行する部屋などをも写しています。
死刑囚といくら親しくなっても、いつか死刑が執行されて死ななくてはいけません。

中には、犯行現場にいただけなのに死刑になったり、明らかに無罪の少年もいます。
実際に犯罪を犯した人には、人を殺すまでに到る闇があります。
そうした話をいくら聞いても、カザマさんにはどうすることもできない。

カザマさんは重たいものを背負うだけです。
カザマさんが写した写真を見ながら、そうした話を聞く私たちも、そのいくらかを背負うことになる。
聞くということはしんどい行為です。

それから何年かして、レニー・クッシングさんをはじめとする「和解のための殺人被害者遺族の会」の方たちの講演会を聞く機会がありました。
英語で話して、日本語に通訳という講演ですから、靴の上から足をかくような感じです。

質疑応答で、死刑に反対ということとキリスト教の信仰と関係があるかという質問をしました。
「無宗教だ」と答えたのがローゼンバーグ夫妻の息子さんでした。
「自分はキリスト教を信じているが、それと死刑廃止とは関係ない」と答えた方もおられました。
加害者に対する憎しみや怨み、復讐心はないのか、あるとしたら、なぜ死刑に反対しているのかといったことを聞きたかったです。
もしも私が英語がぺらぺらで、みなさん方と一杯飲みながら話をする機会があり、そういった話ができたらと思いました。


死刑囚の権利保護

2015年05月17日 | 死刑

死刑囚の権利保護、強く要請する決議 国連人権理事会
 国連人権理事会はスイス・ジュネーブで26日、死刑廃止に向け、死刑制度が残る国に死刑囚の権利保護などを強く要請する決議案を、賛成29、反対10、棄権8で採択した。(略)朝日新聞 2014年6月26日

2014年7月15日から16日にわたって、国連自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)における人権状況を審査する自由権規約委員会による日本審査がジュネーブで行われ、以下のことなどが懸念されています。
・死刑確定者が執行までに最長で40年も昼夜間単独室に収容されていること
・死刑確定者もその家族も執行日を事前に通知されないこと
・死刑確定者と弁護士との秘密交通権が保障されていないこと
・執行に直面する人々が「心神喪失の状態にある」か否かを判断するための精神鑑定が独立したものでないこと
・再審あるいは恩赦の請求が刑の執行を延期する効果を持たず,実効的でないこと
・死刑が,袴田巌の事件を含め,自白強要の結果として様々な機会で科されていること

「FORUM90 vol.141」によると、日本政府審査において日本政府は、死刑囚のみの監房はなく、窓もあり、新鮮な空気に自然光の入る、清潔な独房であるという写真を示して反論したそうです。

ところが、新獄舎が完成した大阪拘置所では、「死刑確定者の収容体制が,残虐,非人道的又は品位を傷付ける取扱い又は刑罰にならないよう保障すること」はなされていないように感じます。
最新の警備システムで管理され、死刑囚は職員との会話も壁に取り付けられたマイクでインターホン越しにする。
刑務官とさえ顔を合わせて話せない。
向かいの居室内は見えぬようガラスで遮蔽されており、外向きの窓は全面目隠し、天候もわからない。
水道の蛇口はなく、洗面台に埋め込まれた出口からボタンを押すと15秒ほど水圧の弱い水が出る。
食事を出し入れする小窓も、廊下から閉められ、房内は密閉状態。

かつて大阪拘置所では死刑囚の俳句の会があり、福岡拘置所では死刑囚のソフトボールチームがありました。
昭和50年以前の東京拘置所の運動場には、死刑囚が花を植えたり、刑務官が朝顔を育てているスペースがあり、レンギョウ、あじさい、ダリアが咲いていたが、保安上の理由から刈り取られてしまったそうです。

自然や人間との関わりを断ち切ろうとしているわけで、「非人道的」だと思います。
死刑囚はそれだけのことをしたのだから苦しむのは当然だ、死刑囚の権利なんて、と感じる人がいるでしょうが、そうした感覚は中国やサウジアラビアのような国民の人権すら認めない国と一緒なわけです。

「拷問あるいは不当な処遇によって得られた自白が証拠として援用されないことを確保すること」ですが、裁判員経験者である田口真義さんは「裁判員裁判は冤罪を防げるか」で、裁判員裁判に冤罪が存在する要因として3つあげています。
1 不全な判断材料
2 感情による評議の傾向
3 世論の形成及び圧力

「不全な判断材料」というのは、証拠が足りない、あるいはあるはずの証拠がないということ。
そして、証人のあり方は、証人尋問で行われる検察官との主尋問は演劇じみている。
公判前整理手続にも問題があり、非公開なので、裁判員にはまったく知らされない。
裁判員に負担にならないようにというので、公判前整理手続の期間がどんどん延びている。

「感情による評議の傾向」とは、劇場型の法廷が展開されるということ。
一番の問題は被害者等参加制度で、裁判員に与える影響は無視できない。
被害者の声が大きくなればなるほど、それに傾いていく。

「世論の形成及び圧力」とは、同調圧力に左右されるということ。
評議室のなかでも、人がそういうのなら自分もと、手を上げてしまう傾向がある。
そして、マスコミの報道次第で裁判員の事件の受けとめ方が違ってくる。
裁判官も世間を大変気にしている。
この要因を是正するためにまずできるのは取調の可視化である。

鹿児島県議選を巡る選挙違反事件(志布志事件)で無罪が確定した元被告ら17人が、損害賠償を求めた訴訟で、鹿児島地裁は国と県に賠償を命じる判決を出しています。
全面可視化をしていればこんな冤罪事件は起きないはずなのに、どうして検察や警察はいやがるのかと思います。


江田島中国人実習生8人殺傷事件

2015年04月10日 | 死刑

2013年、江田島市で中国人実習生による殺傷事件が起き、2人が死亡しました。
陳双喜被告は死刑になるだろうと思っていましたが、検察は無期懲役を求刑しました。
不思議に思ってたら、土屋信三「江田島事件の裁判員裁判始まる」に、この殺傷事件を外国人技能実習生制度と切り離して扱うことは大きな誤りを犯すことになると書かれていて、こういうことかと納得しました。

技能実習生制度は「現代の奴隷制度」であり、「人身売買」に他ならない。
低賃銀労働力として外国人技能実習生が利用されている。
月に手取額は7~8万円、残業代は時給300~400円。
しかも、給料や残業代がきちんと支払われないことがある。
有給休暇を認めない職場もある。

就労の自由、転居の自由を奪われた実習生たちは、どんなにひどい労働条件や住環境にあっても、非人間的な扱いをする事業主に雇われても、3年間は逃げ出すこともできずに我慢しなければいけない。
ある中国人女性実習生が事業主から1年以上にわたって執拗なセクハラを受け、警察に被害届を出したら、寮を叩き出され、解雇された。

裁判では被告側証人の鳥井一平氏が、前借金を抱えた実習生たちにとって解雇や強制帰国がどれほどの脅威なのか、異国で生活するうえでの不安や言葉の問題、孤立と孤独、現実に行われている違法、脱法行為を証言した。
裁判後、被害者や被害者遺族は「裁判を通じて技能実習生制度のずさんさも感じました。私たち遺族と母は、陳被告と制度の問題に見て見ぬふりをしてきた国や関係者の犠牲になった」とコメントしている。

また、陳被告は知的障害があり、一度にたくさんのことを処理できないため、仕事が遅く、仕事の段取りが悪かったことで馬鹿にされた。

2015年3月に出された判決は無期懲役だったが、技能実習生制度との関連をまったく認めなかった。

一人の人格を持った外国人労働者として対応すべきである。労働条件にしても日本人と同等の待遇にすべきであろう。このことは制度の中にも、建前として謳われていることである。就労の自由や移動の自由を認めれば、崩壊するような制度自体がすでにおかしいのである。

このように土屋信三氏は書いています。

罪を許すべきだというわけではもちろんありません。

われわれは、陳双喜被告が犯した犯罪行為を免罪せよと主張しているのではない。しかしながら、建前だけは立派なことを言いながら、その実、最低賃金で、しかも差別的扱いを強要するような実態を無視して、問題を扱うことはおかしいと主張しているのである。

ネットで技能実習生制度を調べたら、日弁連は実習制度の廃止を求める意見書を政府に出しているし、国連も批判していることを知りました。
労働環境がもっといいものだったらこういう事件は起きなかったかもしれないと思いました。

陳双喜さんを死刑にして終わりという問題ではない。「現代の奴隷制度」「人身売買」と批判されている、この技能実習生制度をなくすことをもって、今回の悲劇的事件を総括していく必要がある。そうでなければ、また同じ悲劇が、形を変え、姿を変え繰り返されることとなるだろう。

堀川惠子『教誨師』

2015年03月11日 | 死刑

堀川惠子『教誨師』は、東京拘置所で死刑囚の教誨を50年間勤めた渡邉普相へのインタビューをまとめた本です。
死刑囚と面接をして対話を重ね、死刑執行に立ち会うといった任務の過酷さに、心がもたなくなる教誨師が多いそうで、渡邊普相もアルコール依存症になったことがあります。
実際に死刑の執行をする刑務官の気持ちはどうなのでしょうか。

やっぱり、殺す方の看守さんたちもね、そういう宗教者がいた方が、せめてもの心の救いになりますから……。
(生きている人のためにも、ですか)
そう、人殺しですから。「人殺し、人殺し」って言うとね、拘置所の人らは「人殺しって言わないで下さいよ」って嫌がるんだけどね。人殺しじゃないか、あんた、人殺しやっているんだぞと。
(前にも「人殺し」という言葉を使われましたね?)
だって人殺しじゃないですか。良いことをやっているわけじゃないでしょう? みんな仕方なしに……

以前は死刑囚の目の前で刑務官がレバーを引いていたそうです。

だからね、刑務官も可哀想でしたよ、本当に。今はね、ボタンが壁の裏側にあって、三人こう並んでやってますが、前は(死刑囚の)目の前でレバーですから。自分が落としているのが確実に、自分が人を殺しているのが分かるわけですよ。刑務官もね、震えて泣いていましたよ、刑務官が……。ああ可哀想にと思って、この人は一生、これを心の傷に持っていくんだろうなと思ってね。それはボタンでも同じでしょうがね。最近は死刑の立ち会いはその日の朝でなければ言わないそうです。前の日から言うと逃げちゃうから。

刑務官だって死刑の執行をしたいわけではありません。

一般の人は死刑っていうものは、まるで自動的に機械が行うくらいにしか思ってないでしょう。何かあるとすぐに死刑、死刑と言うけどね、それを実際にやらされている者のことを、ちっとは考えてほしいよ。


死刑囚はどんな人たちなのでしょう。
幼い頃から家や社会で虐げられ、いわれのない差別や人一倍の不運にさらされて生きてきた者が圧倒的に多い。
知能指数の平均は70ほど。
事件が悲惨であればあるほど、その犯人には気の小さい者が多い。
死刑囚の多くが殺人を犯す前に自殺を試みている。

絶望の果てにその手に握った刃が、自分か相手かのどちらに向くかなのだ。

死にたいというので、通りすがりの見知らぬ人を殺すという事件が起きますが、拡大自殺のようなものなのでしょう。
死刑囚には被害者的な恨みに捉われている者が多く見受けられるそうです。
事件を犯すに至ったやむを得ない経緯があっても、警察も検察も裁判所も耳を傾けません。

そこで情状酌量の余地など認めれば、ひとりの人間をこの世から抹殺する死刑判決など下せるはずもない。だから多くの死刑判決は、そこら中に落ちている日常のちょっとした出来事まで殺人の背景を形づくる材料としてかき集め、一方的に断罪することに腐心しているように渡邉には思えた。殺人者の話に耳を傾けようとする者などいない。


死刑囚の家族が置かれている状況は悲惨なものがあります。
タバコ屋の老夫婦を殺害した大橋(仮名)の家族は、店で食糧を売ってもらえなくなったり、子どもたちが登校を拒否されたりと、村中からひどく迫害される。
一家は明日の米にも事欠き、子どもまで餓死寸前の状態に追い込まれた。
現場検証のために村を訪れた一審の裁判長は、一課が置かれている状態を知り、地元の新聞に実名で記事を掲載しています。

残された家族にあたたかい目で、この人たちが悲劇に落ち込んだりすることのないよう見守ってやって下さい。

訴えもむなしく、大橋の両親は村から追われるようにして引っ越し、老齢の身に鞭打っての土木の日雇い仕事で身体を壊して寝たきりになり、子どもたちも各地の親戚に引き取られ、散り散りになりました。

連続殺人犯の大久保清の姉が渡邊普相を訪れ、大久保清の骨壺を預かってくれないかと相談します。

大久保家は地元では裕福な旧家で、立派な墓地も構えていた。しかし事件が起きて、高齢の両親はすっかり体調を崩し、二束三文で屋敷を売り払って養老院に入った。それも大久保清の親であることが分かるや追い出され、次の施設を探し求めては放浪するという生活が続いているという。さらに大久保への死刑が執行されたという情報がどこか漏れ、ニュースが新聞の一面を飾ると、地元の人は「大久保の骨を町に戻してなるものか」と、一夜にして大久保家の墓を暴いてしまった。墓石は根こそぎ倒されて滅茶苦茶に壊され、先祖代々の遺骨や骨壺もすべて掘り出され、あたりに投げ出されたという。

何ともひどい話ですが、地元の人がそうしたのはこういう事情があるからです。

加害者と被害者の遺族が共に暮らす田舎町に、重ねて鞭をふるったのは、事件後のマスコミだった。女性たちが大久保の誘いにのったのはあまりに尻軽と、被害者とその遺族を中傷するような報道を続けた。大久保が車を乗り回して女性たちに声をかけた通りを「大久保ロード」と呼び、記者が地元の女性に声をかけてはナンパの成功率を競う、もはや悪乗りとしかいえないような報道もあった。町には大久保事件の現場を巡る観光客が押しかけ、あちこちで写真撮影する姿まで目につくようになった。
この上、大久保清の墓まで出来たとなれば、それこそ新たな〝観光スポット〟にされかねない。忌まわしい事件の記憶が静かに風化していくのをじっと耐えている町の人たちにとっては、傷口に塩をすりこまれるような事態が続いていた。


今ならネットでの誹謗中傷が加わります。

マスコミは往々にして被害者の怒りは取り上げるが、悲しみに寄り添うことはしない。

渡邊普相は被害者と加害者をつなぐことができなかったことを悔いていたそうです。


小川秀世「袴田事件をとおして死刑を考える」

2015年03月07日 | 死刑

「FORUM90」VOL.140に、小川秀世弁護士(袴田事件弁護団事務局長)の「袴田事件をとおして死刑を考える」という講演録が載っています。

袴田事件の再審請求裁判では、裁判所が「警察による捏造の可能性」を認定しました。
小川秀世氏によると、捏造には二種類あり、自白の強要と5点の衣類などの証拠の捏造です。
検察は捏造をわからなくするために証拠を隠した。
裁判所は警察や検察が捏造していることがわかっても、それについて何もしていなかった。
これは袴田事件だけの問題ではない。
当時、静岡県では冤罪事件が続いたが、死刑判決が出て、最高裁で無罪になった幸浦事件では、被告人は焼け火箸を耳の後ろにくっつけられ、耳の後ろに焼けただれた跡があったにもかかわらず、裁判所は自白の強要や証拠の捏造の指摘をしなかった。

証拠を捏造した警察や、証拠を隠した検察は、証拠がないし自白もしていないのに、本当に袴田さんが犯人だと信じていたからそんなことをしたのでしょうか。

今も検察は袴田さんが有罪だと思っているのでしょうか。
無実の人間を殺すことになるかもしれないとは考えなかったのでしょうか。
ほんと不思議です。

小川秀世氏はさらにこう言います。

DNA鑑定などの科学の進歩、証拠開示、取調の可視化によって誤判の可能性は減少するかもしれない。
しかし、完全な制度はないし、完全な人間もいない。
それなのに死刑という絶対的な刑を科すのは誤りである。

誤判と死刑について死刑存置論者は二つの批判をする。

一つは、誤判は死刑だけの問題でなく、無期や罰金刑でもあるということ。
もう一つは、現行犯で捕まった人も死刑にしてはいけないのかということ。

これに対する小川秀世氏の反論です。

無期や罰金刑と違って、死刑は取り返しがつかないから、無実で死刑執行された人を救済できない。
また、どういう人を死刑にし、どういう人を死刑にしないのかをどうやって区別するのか。
自白した人は死刑にして、否認したら死刑にしないのか。
あるいは、現行犯で逮捕されても、精神が正常でない状態で事件を起こしたかもしれない。

死刑は憲法違反だと小川秀世氏は言います。

このことはあまり言われていないが、死刑は人権の制約である。
かつては、人権は公共の福祉によって制約できるとして、最高裁は公共の福祉によって命を奪うことができるという判断を下している。
今は、公共の福祉とは他の人権を守るためであれば、必要最小限度で制約できるという考え。
要するに、ほかの人権を守るためでないと人権を制約することはできない。
人の命を守るためでなければ死刑はできないが、死刑の犯罪抑止力は証明されていない。
だから、死刑は憲法に違反する。


マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』

2015年03月04日 | 死刑

『心臓を貫かれて』は、「ローリング・ストーンズ」などに音楽評論を書いているマイケル・ギルモアが自分の家族について書いた本です。

1976年、マイケル・ギルモアの次兄ゲイリーは2人を殺し、死刑になる。
ゲイリーが事件を起こしたのは、連邦最高裁判所が死刑は合憲だとして死刑制度を復活させた直後だった。
アメリカでは過去10年以上、死刑の執行はなかったのに、ゲイリーは刑の執行を求め、1977年に銃殺される。
事件から20年経った1996年に『心臓を貫かれて』が出版される。

読みながら「魂の殺人」という言葉を何度も思い出しました。
マイケルは4人兄弟の年が離れた末弟。
父親は何度も結婚しては妻子を捨てている人間で、マイケルの母や兄たちに暴力を振るいます。
父よりも23歳年下の母は殴られながらも、夫とケンカをし、息子たちを支配しようとします。
ゲイリーは小学生のころから非行に走り、少年院や刑務所に何度も入っていました。
三兄のゲイレンも12歳から酒を飲むようになり、最後は刺されたことが原因で死にます。
長兄のフランクとマイケルは犯罪とは無関係ですが、結婚して子供を育て家庭を営むということはできませんでした。

カポーティ『冷血』には殺人犯の親に社会が寛容だったことが書かれています。
しかし、マイケルやフランクに対して世間の目は冷たいものでした。

僕は今の仕事(ロックを中心とした音楽評論)に就いているべきではないと考える見知らぬ人々から、手紙が寄せられた。殺人犯の肉親には、若者の注意を引くような記事を書いたりする資格はないと彼らは書いていた。おまえも兄と一緒に撃ち殺されればよかったんだという手紙の何通かあった。

 

殺人犯を生んだ家庭で育てられたのなら、そいつもやはり同じような動機や悪の種を受けつけられているに違いない、考えようによっては実際に引き起こされた暴力事件にだって責任はあるはずだ。そこには後ろ指をさされるような恐ろしい継承のしるしが焼き付けられているに違いない。人々はそう考えているみたいだった。血がつながっているというだけで、罪であるみたいに。

長兄のフランクも同じような経験をしています。

ほとんど顔も知らないような連中がよく俺のところにやってきて、ずいぶんひどいことを口にした、「おまえの弟がとんでもないことをしでかしたっていうのは本当なのか? どうしてそんな奴と同じ屋根の下に住んでいられたんだい?」ってな。仕事場の同僚の誰かが、俺がゲイリーの兄弟であることをかぎつけたことが何度かあった。そいつらは必ず喧嘩をふっかけてきた。


川崎市での中1殺害事件で逮捕された少年たちの家族の実名や顔写真がネットでさらされています
社会が加害者の家族を排除するなら、家族はどうやって生きていけばいいのでしょうか。
被害賠償もできません。
政府は再犯、再非行防止のため社会復帰支援に取り組むそうです。

マイケル・ギルモアはこのように書いています。

もう死んでしまったろくでなしの殺人犯の弟であるというだけで、世の中の人々は僕のことを忘れてはくれないし、赦してもくれないのだ。僕にはそう思えた。処罰を受けた後の余波を乗り越えて生きていくのがどういうことなのか、僕はいささかを学んだ。生き残った身内の一人として、その処罰の負担と遺産の一部を引き受けていかなくてはならないのだ。

事件から10年以上経っても、フランクはゲイリーの肉親であることがばれてしまい、解雇されています。
仕事がなくて生活できずに犯罪を犯せば、「やっぱり。殺人犯の家族は……」と非難されるんでしょうね。

こないだある人が「正義と悪は紙一重だ」と言ってて、なるほどと思ったものですが、正義を振りかざす前に、自分のしていることはどっちのなのかを考えてほしいものです。


アメリカの死刑の現在

2014年10月08日 | 死刑

「FORUM90」に載っていた澤康臣「記者が見たアメリカの死刑と廃止運動」と堀和幸「アメリカ死刑廃止最前線」から、アメリカの死刑の現在についてご紹介します。

アメリカの死刑議論が盛り上がる背景には情報がオープンだということがある。
死刑囚の情報は州当局のサイトを見れば分かる。

アメリカの死刑廃止州は18州。
アメリカ50州の過半数の州が死刑を廃止すれば、おそらくアメリカの最高裁は、過半数の州が廃止しているということは死刑は残虐だというので、違憲判決が出されるのではないか。
あと10年経てば、28州で死刑が廃止され、アメリカでは死刑が廃止されるのではないかという意見がある。

実際、アメリカでは死刑判決、執行、ともに減っている。
2000年に224件あった死刑判決が2013年には80件。
死刑執行も2000年に85人だったが、2013年は39人。
死刑判決、執行がアメリカで一番多いテキサス州では、2005年に仮釈放のない終身刑を導入したら、判決や執行が減少傾向にある。

ギャラップ調査による死刑の賛否でも、死刑賛成の人が減り、反対の人が増えている。
            1993  2000  2003 2013
死刑に賛成  80   66   64  60
死刑に反対  16   26   32  35

廃止・減少の理由を大きく分けると、冤罪の問題。
それから人種的差別問題で、有色人種のほうが白人よりも死刑になる可能性が高い。
そして、犯罪の抑止効果はあまりないのではないかということ。

最近では薬物注射が問題化されている。
ヨーロッパの薬品会社が供給しなくなったため、執行のための薬剤が入手できなくなっている。
代わりの薬物を試しているが、失敗する危険、苦しむ危険がある。

費用の問題も大きい。
テキサス州では1件あたり1億円から2億円、あるいは数億円かかるらしい。

アメリカの死刑制度は9審制。
日本でいう地裁、高裁、最高裁で有罪、あるいは死刑が確定する。
そのあとに、確定判決の手続きに誤りがなかったかという、確定後の手続きがまずは州レベルで3段階あり、さらに連邦レベルで3段階あるので、9段階を経る。

確定前手続きには、弁護人・検察官・陪審員・裁判官等に不適切な言動はなかったか、事件記録の精査、担当弁護人・証人・被告人等へのインタビューや再鑑定などがある。
確定審の審理が公正ではないと判断された場合は、審理のやり直しが命じられる。

死刑事件では、このすべての段階で国選弁護人が選定される。
死刑求刑事件では弁護費用の中間の値が49万ドル(約5000万円)ぐらい、最高が178万ドル(約1億7800万円)ぐらい。
弁護費用が高くなれば、それだけ充実した弁護活動ができるので、それによって死刑判決も減少する。

アメリカの死刑廃止運動の特徴の一つは、被害者との結びつきが非常に強いこと。
被害者遺族が中心となり、被害者のための死刑廃止だと訴えている。

メリーランド州では、2008年に殺人被害者遺族49人が州議会に手紙を出した。
その内容
・私たちの間で死刑についての考え方は異なるが、刑罰は迅速、確実であるべきだ。死刑はいずれも欠く。長い異議申し立ての過程は被害者を苦しめる。
・死刑には私たちの多額の税金が使われる。
・その金を警察官増員と治安改善、犯罪防止、そして被害者遺族支援にあてるべきだ。
死刑判決(一審判決)から執行までの期間は16年弱だそうだ。

袴田事件の再審開始が決定しても、死刑問題についての議論はあまり起きていないように思う。
犯罪被害者との結びつきが弱いということもあるかもしれない。

曽根崎哲也「体をもって名を知らしむ」(「更生保護」8月号)にこんなことが書かれてある。
法務省が主唱する「社会を明るくする運動」は、犯罪をした人の立ち直りの支援をする運動だが、加害者の更生だけを訴えるのではなく、犯罪被害者の声や実状を知ることで、一般の人からも更生保護への賛同が得られるのではないか。

犯罪被害者当事者団体の会長がこんなことを言われている。

『社会を明るく』と言って犯罪をした人の立ち直りの支援を進めておられ、それも大切なことかもしれませんが、犯罪被害者が置かれた過酷な現状に目をやっていただくことなく、犯罪者の更生を助けることだけで社会は明るくなっていくのでしょうか。

被害者との関わりを続ける中で、犯罪の被害者も加害者も生活を回復していけるよう支援していくことが大切である。

犯罪被害者の方々が味わった悲痛な状況を知り生活の回復を手助けするとともに、二度とそのような悲劇をもたらすまいと決意する。そこに動機付けられ加害者に更生してもらう努力をする。そうするからこそ、更生を助けるという活動も芯の通ったものになり、「更生を助けなければならない」ということを第三者に納得してもらえると思う。


アメリカのように日本の死刑廃止運動も被害者と協働したらいいと思うが、「FORUM90」を見ても被害者との関わりは少ないらしく、そんな簡単にはいかないようです。


「いまこそ死刑廃止を 袴田事件と飯塚事件」

2014年08月02日 | 死刑

「FORUM90」VOL.136は、フォーラム90主催の集会「いまこそ死刑廃止を 袴田事件と飯塚事件」での話が掲載されている。
この集会は袴田事件の再審開始の決定を受けてのもの。

保坂展人氏の話では、1999年、法務省の矯正局長が「袴田さんの話のなかに“天狗”という言葉がしばしば登場するんですよ。死への恐怖には凄まじいものがあって、妄想に逃げ込んで自己防衛しなければ、現実が襲ってくるんだろう」、そして「その状態というのは、明らかに治療が必要なんじゃないですか。そしてこの治療というのは、はっきり言って、拘禁を解けば、回復に向かうと思われます」とも言ったそうだ。
法務省は袴田さんが病んでいることを知っていながら、何もしなかった。

2002年、衆議院法務委員会で、保坂展人氏の「大臣と一緒でもいいです、あるいは私だけでもいいです。やはり国会議員として、諸外国ではこういう事態が起きると国会議員は刑務所の中に入るんですよ。どういう状態なのか、そして施設の長とも話をして、工夫をするなり、お姉さんと対面させて、治療をどういうふうにするのかとか、きちっとしたことをやるんですね。これは今のままでは進まないんです。具体的に何らかの努力をしていただきたい」という質問に、森山真弓法務大臣は

被収容者の方が会いたくないとおっしゃっているという話もございますし、断片的に聞くところによりますと、少し常軌を逸し始めた精神状態なのかもしれないとも思います。
東京拘置所におきましても、お医者さんのカウンセリングとかそういうことをやっているというふうに聞いておりますが、拘置所の方で具体的にその症状を見て適切な判断をしていってほしいというふうに考えております。

と、何もする気がないのがミエミエの答弁している。

袴田事件弁護団の戸舘圭之氏は静岡地裁の決定文に

袴田に対する拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する状況にあると言わざるを得ない。

と書いてある。
矯正局長や森山真弓氏が何かしていればと思う。

2003年、保坂展人氏は東京拘置所の集中治療室に長くいる波崎事件の冨山常喜さんと会う。
新葛飾病院の清水陽一院長に同行してもらい、適切な治療・対応が行われているかどうかを見に行った。
清水医師の見立ては、「これは必ず感染症で亡くなります」とのことだった。
東京拘置所では治療を何もしていない。
人工透析をして、自分で食べる状態ではなく、寝たきりの状態。
この状態では感染症を防ぐことができない。
うちの病院に来れば、歩いてリハビリをしながら自分の力で食べることから体力を回復する可能性があると清水医師は話したという。
その半年後に冨山常喜さんは感染症で亡くなる。
ろくな治療をしないのはどこの刑務所・拘置所も似たり寄ったりらしい。

冨山常喜さんも冤罪を主張していた。
物的証拠はなく、自白もしていないのに死刑判決が下されている。
2014年7月16日現在の死刑確定囚128名。
無実の死刑囚は何人もいるだろうし、その人たちはまともな医療を受けていないんだろうと思う。