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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

死刑囚表現展のアンケート

2024年01月06日 | 死刑
2022年10月に行われた死刑囚表現展の入場者アンケートの結果が「FORUM90」VOL.185に、2023年11月の死刑囚表現展のアンケートの結果は「FORUM90」VOL.189に掲載されています。
死刑反対の人だけでなく、死刑に賛成の人、どちらでもない人も来場していることがわかります。

・死刑に賛成の人
まるで自身は世間に殺されるのだと言わんばかりの死刑囚には怒りを通り越してすっかり呆れ果てました。私は死刑肯定者です。冤罪の疑いが僅かでもある限りは確定、執行は絶対に避けるべきですが、自分の犯した罪に対し命をもって償うのは当然だと思います。正直に死刑廃止論者の方々についても、なんて罪深い団体なのだろうと各メディアで廃止を訴えている様を見掛ける度に死刑囚と同等に罰してもらいたい程の気持ちになります。(40代)

人を殺した人は、同じ方法で殺されるべきだと思っています。自分だけ楽に死ねるのは間違っているとも思っています。(40代)

私は死刑には賛成で、人の命を奪った罪はやはり命をもって償うべきであると思う。殺された人はやり直しの人生を送ることが出来ないのだから。(60代)

死刑が嫌なら悪いことをしないでください。(20代)

一度罪を犯した人って、やっぱりこの程度なんだなって思いました。(10代)

一番真摯に向き合ってるのは風間博子さんなのかなと思った。彼女は旦那が違えばきっとこのような人生を歩まず子供と平々凡々のくらしをしたはず…それがかえすがえすも残念…。僕は死刑に反対はしません。殺された人々そして遺された人の苦しみや悲しみとは変えられないと思うので…。(50代)

・早く執行すべきだという人
逆に「もういいんじゃない」「さっさとサインしろよ」(法務大臣への執行命令書に署名)との思いを強く抱きました。色エンピツや絵具の未決囚の所持、差入れや使用が制限されたとのニュースをチラッと見たような気がしますが、それも当然、遅いぐらいに思います。(40代)

殺された人を無視して、静かな環境で絵を描いたりすることの違和感をとても感じる。きっと充実している時間を持っているのだろう。殺された人にはその時間はないのに。粛々と刑の執行を望みます。(50代)

・死刑に賛成、反対と言い切れない人
私としては、やはり被害者の方のことを考えると廃止とは言い切れませんが、これからも自分なりに考えたいと思いました。(30代)

「死刑廃止しろ」とは思いません。日本において死刑になる人はみんな人殺しです。殺された人は生きていたかったのに殺されて未来をうばわれたのです。死刑にするのはごくまれな人であり、仕方ないのかもしれません。しかし処刑されたら罪をつぐなえなくなる。何もできなくなる。だから「死刑をなくせ」とか「死刑存続しろ」とか強く言えない。(40代)

殺されている多くの人がいるのに絵が描けて良いご身分。反省もせず、1分1秒でも生きたい、など、吐きそうでした。そういう意味では死刑より無期の方が良いかもしれません。早急な執行を望みます。(40代)

絵や作品から「死刑」「死」に対する恐怖が伝わってくる方もいますが、反対に人を殺めたのに反省すら見えない者も。(20代)

私は死刑制度に反対ではありません。どの絵や表現にもあまり反省している様子は伺われず、自己主張のかたまりのような気がしました。(50代)

全体的に品位が感じられない。まだ自分のした事が悪いと認識してないようだ。(50代)

・死刑に疑問を感じた人
私は死刑反対派というと少しちがって、死刑は償ったことになるのかな?と思っています。(10代)

死刑は被害者のつぐないのためと思っていたが、結局人間“自分”が1番かわいいんだなと思ってしまった。私も含めて、死刑は誰のためにあるのか考えさせられた。見せしめ?(20代)

近年、死刑になりたいから罪を犯した、という事件を見聞きするたび、死刑は犯罪の抑止力になっていないのだなあ、と感じます。(40代)

本日、来るまでは悪い事をしたのだから死刑になってあたり前だと思っていましたが、どんな人にも生きる権利はあっても良いと死刑に対する考え方が変わりました。死刑囚の方々の思いを絵や文を通して知ることができて良かったです。改めて、私を育ててくれた両親に感謝したいです。(20代)

重罪を犯したのだから、死刑は仕方のないこと、そう思っていた自分もどこかにいた。しかし、死刑囚といえど、1人の人間であり、その人権は尊重されるべきである。(40代)

死刑はあるべきものと思います。亡くなられた方たちを思うと。でも、今もどこかで大きな罪を犯した人がこういう作品を作りながら考えながら生きていると思うと、被害者の方やその遺された家族を思うことがむずかしい気持ちになりました。(30代)

・植松聖死刑囚について
植松聖死刑囚の絵画が目当てでした。彼は精神障害者に差別的な発言をしていましたが、腑に落ちてしまったのは、実は知的障害者の存在があるからです。発達障害者の中には、知的障害を合併している人も居ます。先日まで働いていた職場で中等度や重度の知的障害者と関わる機会がありましたが、やはり、人並みの事が出来ないのは勿論ですが、自分本位で思いやりが無く、不機嫌になると暴言どころか暴力にまで進展します。現代は「平等社会」と謳っていますが、「生きている事」だけが平等であり、全くもって「公平」な社会では無いのだと感じます。人間も本来は動物ですが、より野性的と言える人達は、個人的に恐怖の対象です。(30代)

植松聖さんの作品群も、自分を非難する人々やとりまく権力への不服、怒りのような気持ちが伝わってきました。(20代)

植松さんの画、言葉、殺すことはだめだけど、気持ちはわかる。(60代)

植松聖死刑囚の作品を見るために初めて来ました。私には「知的しょう害を伴う自閉症」の息子がいます。彼が生まれた年、場所によっては、津久井やまゆり園で生活していたかもしれず、彼に殺されていたかもしれません。植松死刑囚の行いを否定するなら、彼の言動も知らなければと思い、足を運びました。彼の作品にふれてみて、改めて全く賛同できないと確信しました。(50代)

植松氏は、全く変わっていないと思えたし、独善的な思想のられつであり、作品として深みも面白みもないと思えた。自分の犯した罪のことを何とも思っていない、それをさしおいて、他の死刑囚を責めていると感じた。(30代)

死刑に賛成の人の感想を読むと、死刑や死刑囚について知らないか、誤解しているように思います。

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(3)

2023年09月24日 | 死刑

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』に、死刑廃止の意見は維新後から主張されてきたとあります。

明六社の津田真道は1875年(明治8年)8月、「明六雑誌」に「ベッカリア氏の顰に倣いて」を発表した。

刑は人の罪悪を懲す所以なり。懲るとは何ぞ。曰く犯人の悪事の罪業たる、罪業の畏るべきを知りて之に懲り、善道に復帰するなり。刑法の目的は宜しく此の如くなるべし。然り而して死刑は苟も之を施行すれば即ち人命を絶つ。豈之を懲悔の法とすべけんや。たとえ其の人懲悔する所あるも、其の人已に死して其の心魂其の体に在らず、奈何んぞ善道に帰し、善行を人間に脩むるに由あらんや。故に曰く死刑は刑に非ずと。

チェザーレ・ベッカリアは18世紀の法学者で、死刑には予防効果はなく廃止されなければならない、教育により犯罪を防止すべきだと、死刑廃止論を説いた人です。
明治6年に死刑執行されたのは946人、明治7年は722人で、明治8年は451人。
明治7年の全国の死刑宣告者総数は748人だった。

植木枝盛は1881年(明治14年)に自由民権運動の機関誌「愛国新誌」で死刑廃止を主張した。
そして、「日本国々憲案」の第45条に「日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト雖モ生命ヲ奪ハサルヘシ」と、死刑廃止を書き込んだ。

大内青巒は1891年(明治24年)の第2回帝国議会に死刑廃止を求めて請願し、第3回と第4回帝国議会にも死刑廃止を請願した。
衆議院議員の田辺有栄は第2回帝国議会で、刑法から死刑の一部撤廃の緊急動議を提出している。

1902年(明治39年)の第16回帝国議会に刑法改正案が提出された前後から、刑法からの死刑削除を求める声は再び活発になる。
1902年、幸徳秋水は「万朝報」で死刑廃止を取り上げた。

死刑を存ずるは文明国民の恥辱也、而して実に罪悪也。


監獄関係者から死刑廃止を求める意見や声が上がるようになったのは、1902年以降の刑法改正期からである。
内務省の監獄事務官でもあった監獄学者の小河滋次郎の死刑廃止論は官僚からの発言だった。
今なら法務官僚が死刑に反対だとは公言できないでしょう。

監獄現場から死刑廃止論が盛り上がったのは、死刑制度を旧刑法のまま存続させた新刑法草案が帝国議会にかけられた1907年(明治40年)である。
この草案に対し、反対論を特集した監獄協会の機関誌「監獄協会雑誌」の巻頭論文は「刑法改正案に就いて」である。

死刑廃止を行なうことの出来ぬ改正案、その基づく所は依然として単純な畏嚇又は除害の主義である。

「立法の大勢が既に死刑廃止に傾きつつあるは争うべからざる現実的事相」なのに、「死刑廃止を断行する能わざりしは遺憾なり」とあるそうです。

特集号には、全国の監獄の典獄、看守、教誨師など監獄職員89人が死刑について寄稿しており、半数近くの40人が死刑廃止を主張している。
刑務所所長や刑務官が死刑の存廃について論究することも現在では考えられません。

教誨師3名が連名で寄稿した論文にこうある。

(死刑囚の)十中八九の者は殆ど改悪遷善の念を起こせることは、従来の経験上、正に確認し得るところとなり、然るに之を其の身に実行するの遑なくして幽冥処を異にす。(略)冤枉の罪に引かれて、黄泉に赴くが如き不幸を免るる者を現出するに至るべし。何れの点より考察を回らすも、死刑は有害無益の惨刑たる断案を下すに憚らざるなり。

明治から大正には、死刑廃止論がこんなに広がっていたとは驚きでした。

田中一雄も寄稿しています。

予が明治33年以来悲惨窮まりなき死刑宣告者に教誨するもの82人、うち証拠不十分にして無罪の宣告を受けしもの5人、無期徒刑に処せられしもの7人、内4人は特典を以て死一等を減ぜられ、他の70人は死刑の執行を受けたり。此の70人中改心の見込みなきは僅か3人を観るのみ。但し此の3人とても監獄行刑上取締り得ずという者には非ざるなり。

田中一雄が見送った死刑囚の多くは死刑にする必要はなかったということでしょう。

仏陀の大慈大悲を教へながら、黙して此の残酷極まる死刑を見るは忍ぶ能はざるなり。

この言葉に僧侶である田中一雄のやりきれない気持ちがうかがわれます。


田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(2)

2023年09月16日 | 死刑

教誨師は矯正施設で教誨を行う民間の篤志家という扱いですが、戦前までは監獄に官吏として教誨師が配置され、受刑者に宗教教誨を受けることを義務づけられていました。
https://www.ryukoku.ac.jp/news/detail/en2614/newsletter.pdf

明治末に約20年間教誨師を勤めた田中一雄の『死刑囚の記録』には大逆事件の死刑囚も記されています。
12人の死刑囚のうち、2名は記されておらず、9名についても事務的でそっけない記述である。
しかも田中一雄自身の感想を記していない。

9人目の古河力作のところで、「大石、松尾、奥宮等に就いて記したき事多くあるも、事秘密に属するを以て書くことを得ず。以て遺憾とす」と書いている。
率直な思いを記せば大逆事件裁判を批判することになるから書けなかったのかもしれません。

菅野須賀子についても事務的な記述だが、末尾に「性質怜悧にして剛腹なり」とある。
そして、田中一雄は「日記の写し」と小見出しを付して、菅野須賀子の獄中日記「死出の道艸」から自分についての文章を書き写し、加筆補正している。

「死出の道艸」は死刑を宣告された1911年1月18日から書きはじめられた。
菅野須賀子は、田中一雄と沼波政憲の2人の教誨師のことも記している。

1911年1月19日の日記

夕方沼波教誨師が見える。相被告の峯尾(節堂)が死刑の宣告を受けて初めて他力の信仰の有難味がわかったと言っていささかも不安の様が見えぬのに感心したという話がある。そして私にも宗教上の慰安を得よと勧められる。私はこの上安心の仕様はありませんと答える。絶対に権威を認めない無政府主義者が、死と当面したからと言って、にわかに弥陀という一つの権威に縋って、初めて安心を得るというのはいささか滑稽に感じられる。

沼波政憲は真宗大谷派の教誨師です。

同じ19日に田中一雄も菅野須賀子の独房を訪れた。
菅野須賀子は「相被告が存外落ちついて居るという話を聞いて嬉しく思う」と書き、続けて「この人は沼波さんの様な事は勧めないで」といったん書いて抹消している。
このあと「(田中が)ある死刑囚が立派な往生を遂げた話などをせられた」と書き留めている。
そして、「私は予ての希望の寝棺を造って貰う事と、所謂忠君愛国家の為に死骸を掘り返されて八つ裂きにでもせられる場合に、あまり見苦しくない様にして居たいと思うので、死装束などについて相談した」と書く。

1月21日の教誨での田中一雄の言葉。

アナタは主義という一つの信念の上に立って居るから其の安心が出来るのでしょう。事件に対する厚薄に依って、多少残念に思う人もあろうが、アナタなどは初めから終わりまでずっと事にたずさわって居たのだから相当の覚悟があるのでしょう。

菅野須賀子は「宗教上の安心をすすめられるより嬉しかった」と感想を書いている。

1月23日には、田中一雄は、自分は会津藩士で、戊辰戦争の際に死刑の宣告を受け、刑場に引き出される途中で死を減じられたことを菅野須賀子に話している。

沼波政憲は大逆事件に連座した被告のうち、11名の死刑執行に教誨師として立ち会った。
市場学而郎が沼波政憲から大逆事件の執行寸前の様子を聞き出したものが『死刑囚の記録』に付録として添付されている。
それによると、沼波政憲がこう言ったと書かれてある。

故教誨師沼波政憲氏が、死刑執行当時の惨憺たる光景に痛く頭脳を刺激せられ、子々孫々に至るまで、決して監獄の教誨師たるべきものに非ずと、直ちに職を辞したと聞き。


1912年、田中一雄は東京監獄の教誨師を退職した。
約二週間後、沼波政憲も退職した。

死刑反対でありながら、死刑囚を教誨し、そして執行に立ち会う。
死刑囚がどんなに悔悟しようとも、結局は絞首刑に処されてしまう。

日本の国体より言わば刑法第七十三条の如き法律あれば、死刑を全廃すべきに非ざるべし。

死刑判決は厳しすぎると思ったり、冤罪かもしれないと感じたこともあったでしょう。
しかし、刑法に死刑の規定があるかぎり死刑はなくならない。
何のために教誨を行うのか、日々、自分の無力さ、虚しさを感じながら死刑囚と会うのは非常につらいものがあったと思います。


田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(1)

2023年09月10日 | 死刑

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』は、1890年(明治23年)から1912年(大正元年)まで教誨師をしていた田中一雄が残した『死刑囚の記録』という文書について書かれています。

田中一雄は会津藩のお抱え医師で5人扶持だった。
明治5年、贋札製造・行使の罪で死刑になったが、刑場に引き出される途中で死を減じられた。

神道大成教の信者の時に教誨師になり、後に浄土真宗本願寺派の僧侶となる。
鍛冶橋監獄と東京監獄で約200人の死刑囚の教誨にたずさわった。

『死刑囚の記録』には、1900年(明治33年)から退職するまでの12年間に担当した114人の死刑囚一人ひとりの記録が記されている。
死刑囚の姓名、仕事、性格、宗教意識や信仰心、身体の強弱、飲酒や賭博の習慣の有無、犯罪の内容と動機、自己の犯罪をどう感じているか、獄中での言動、教誨への対応、死刑執行前の心理状態、遺言、さらに田中一雄の感想や死刑の是非などが書かれている。

田中が教誨師をしていた当時、監獄教誨をほぼ独占していた浄土真宗の死刑囚教誨は教育勅語にもとづく国民道徳を説き、極悪人の心を落ち着かせて死を受け容れさせる「安心就死」であった。田中一雄はだが、「安心就死」に距離を取った。異端だった。極悪人と断罪され、肉親などからも見放され、寄る辺なき身となった一人ひとりの死刑囚の生い立ちや家族環境や教育程度などに目を凝らし、なぜ非道な犯罪に至ったのかに迫り、ときに共感的な眼差しを向け、死刑はやむを得ないのかと心を働かせる。そこから一歩踏みこんで、時間をかけ、丁寧に教誨すれば極悪人も「新しい生」を生きられる可能性があるはずだ――。手記には田中のそんな熱い想いが脈打っている。


稲妻強盗こと坂本慶次郎は1895年に収監中に脱走。
逮捕された1899年までに殺人、強盗、強姦などを30件以上重ねた。
1900年2月9日に死刑確定、2月17日に執行。

田中一雄が坂本を初めて教誨したのは1899年11月。
坂本は自己の犯行を自慢げに語り、呆れさせた。
その残忍さには「実に驚くの外なし」と書いている。
それでも週一回の教誨を重ねるうちに、坂本の心は次第にほぐされ、やわらかくなっていった。
死刑確定の前には、獄内でも坂本の謹慎ぶりが際立ち、自己に向き合って犯した罪をしきりに悔やむほどに変貌した。

田中一雄は手記の備考欄にこう書いています。

本人をして今後監督の下に五年を経過せば、或いは剛情は化して名誉心に変じ、再び犯罪なきに至るも知るべからず。法規は之に余年を与えず。試験中に執行せらるるの不幸を視るは甚だ遺憾に堪えざるなり。


死刑事件では、検察が「更生の可能性は皆無」と死刑を求刑します。
しかし、田中一雄はどんな人間も生き直すことができるという確信を持っていました。
この信念は自らが死刑囚だったという体験も大きく影響していると思います。

長く監獄に留め、教誨に十分な時間をかければ坂本も自らの罪と正面から向き合い、心から反省し、悔い、生き直しや新たな生の道を歩む可能性はあるはずだ、その途中で死刑を執行するとは、と田中一雄は憤るのだった。明らかに死刑制度への怒りで、そこには制度が死刑囚の「新しい生」を歩む機会を永久に奪うことへの批判が含まれていた。


博徒の親分が巡査を殺害したとして死刑。
「逃走の恐れある者にはあらず。年時を尽くして教誨せば、十分悔悟の念ある者」で、「斯くの如き者について死刑の要は少しも認めざるなり」と感想を記し、「死刑の要は少しも認めざるなり」に強調点を付している。

21歳の鋳物職人は奉公先で知り合った遊び友達に誘われて盗みに入り、家の主人を刺殺して死刑。
鋳物職人の家庭は恵まれていなかった。
5歳のときに父親が亡くなり、母はその一年後に幼い2人の子供を捨てて、男と東京へ行ってしまった。
兄妹は祖母に養育され、兄は13歳で鋳物工場に奉公した。
教育もなく、自分の姓名を書くのがやっとだった。

許嫁が他家の男との結婚が決まったことで殺意を抱き、許嫁と結婚の世話をした女性を殺した25歳の男は、兄弟姉妹が7人いて、教育はまったく受けていない。

彼の如きも永く監督の下に導き教訓することあれば、必ず改心者とあるものと信ずるなり多くは色情より起因する犯罪の如き、死刑執行の必要なき、今さら言を俟たざるべし。


小学校教育も受けられず、自分の姓名も書けないような犯罪者は少なくなかった。
このため田中一雄は死刑執行の直前に死刑囚の遺書をしばしば代筆している。

『死刑囚の記録』には情欲に絡んだ殺人事件は十数件を数える。
いずれについても「死刑の必要なし」「死刑にするには及ばず」「死刑は無益なり」などと言い切っている。
「すべて情欲に起因する犯罪は、時日を経過するに従い、改心の情頻りに起こるもの多」いからだと、田中一雄は書く。

同業者の妻と通じ、夫を殺した28歳の男は一審、二審と死刑だった。
ところが上告審で、殺したのは女で、自分は遺体を埋めるのを手伝っただけだと主張した。
しかし死刑判決が確定。
事実は不明だが、ひょっとしたら冤罪かもしれない。
他にも冤罪や事実認定の誤りと思われる死刑囚がいた。

『死刑囚の記録』の緒言に、田中は「死刑須らく廃すべし 否廃すべからず」と記している。
その基準は「社会に害毒を流す」かどうか。

監獄の規律に従順なるものならば死刑を執行する必要なかるべし。如何となれば、監獄に永く拘禁し置かば社会に害毒を流すこと能わざればなり。

過ちを認めず、悔い改めもせずに、脱獄を繰り返す死刑囚などは、死刑はやむを得ないと考えた。

しかし、犯罪のほとんどは、一時の衝動に突き動かされて起こるもので、脱走をするような死刑囚でも。時間をかけて丁寧に教誨すれば、やがては悔い改め、反省し、規則に従うようになり、必ず生き直せるという人間への信頼が、田中一雄の死刑は無益の刑だという確信を生んだ。

田中一雄が死刑に反対するのは、死刑囚と直接会って、生育歴を知り、話をしていく中で、どうしようもない人間はいない、誰もが必ず生き直すことができると実感したということがあると思います。


響野湾子

2022年09月19日 | 死刑

「年報・死刑廃止2013年 極限の表現 死刑囚が描く」を知人から借りました。
特集は死刑囚が死刑囚表現展に応募した文芸作品や絵画についてです。
池田浩士選「響野湾子詩歌句作品集」には心惹かれる歌がたくさんありました。
以下、無断引用です。

2006年
土壇場の明日あるかも知れぬ夜に命いとひて風邪薬飲む

2007年
刑死まで一度は見たし区切り無い月に太陽満天の星空

2009年
あの青き空を切り取り独房の暗きに貼りて置きたしと思ふ
神様・神様・神様僕はなぜ殺人者なぞになったんだろう
刑死者の住まひし部屋を半年余空房にしてまた人の住みをり
我が刑死待ちて望みし人ありて慎める事慎みて生く
定年の看守は死囚の我れの手を狭き食器孔より握りて去れり
死囚の我に規制設けて来し手紙出所時交付と告げられにけり
贖罪てふ都合のいと良き言葉あり馴々しげな甘き言葉よ
最後かも知れない夜に抱かれて「人」に逢ひたし「人」に逢ひたし
この星の裏側にある大地には違ふわたしが居そうな気がする
あれ程に忌嫌しが恋しがり満員電車の人・人・人波
一条の煙りとなりて去る時はわずかばかりの雨降ればよし
獄中に三千余人住みしてふ我れに一人の話し相手無けれど

2010年
獄中に内職を得て折る紙袋(ふくろ)世の買物に使われるは嬉し
独房に月の駱駝を隠しいて旅する時を静かに待ちをり
硝子より脆き心を隠し持ち生きねばならぬ処殺来るまで
ゆくあての無き鬼もゐて鬼は外
天の川漕ぎ去る人の背の淋し

2011年
万余もの亡くなりし震災を天罰とのたまふ知事は死刑存置者
忘却を望み生きれと染み付きし殺人者の血身に流れけむ
交流のとぼしき我を気づかひて「巨人負けたぞ」と語り来る看守
綺麗事の精神論で刑を説く看守は我の瞳(め)を見ずに説く
若き日の我れの夢なぞ聞きに来る看守も居りてなごむ日のあり
我が帰り疑ひ持たず母はまだ古き背広を取りてあるらし
山川が幾重にあれど赦されば歩きても帰らむ古里という地に
「殺される」事の無き日の元旦に初湯をもらふすみずみまで洗ふ
ほぼ歩くことの無き日の牢獄に足裏の皮はうすくなりけり

2012年
看守の瞳(め)盗みて独房(へや)に持ち込みぬ鉢の土塊ひと日嗅ぎをり
思ひ切り放れるボール一つ欲し夢書きつらぬ獄外(そと)に放らぬ
我が刑を忘すれし母の認知症神の救くひと思ひて会ひをり
生きし事の全て厭わし時ありて遺書なぐり書く独房(へや)の暗きに
覚悟らしき思ひはあれど刑のあれば夕食の手の箸の震へり
「穀潰し」「人非人」よと罵りぬ定年で去りし刑吏も懐つかし
我に来る死の訪ずれ取り置きぬ肌の通さぬ下着一式
悟り得し顔して受けむ教誨の時こそ湧けり雑念と未練

響野湾子こと庄子幸一死刑囚は2019年8月2日に執行されました。
64歳でした。
今年、『響野湾子俳句集: 千年の鯨の泪櫻貝』が出版されています。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784434304088


裁判員と死刑(4)

2022年03月20日 | 死刑

平野啓一郎『ある男』は犯罪の社会的要因に触れています。
ある死刑囚は生育環境が悲惨であることは事実であり、彼の人生の破綻が、大いにその出自に由来していることは明白だった。

国家は、この一人の国民の人生の不幸に対して、不作為だった。にも拘わらず、国家が、その法秩序からの逸脱を理由に、彼を死刑によって排除し、宛らに、現実があるべき姿をしているかのように取り澄ます態度を、城戸は間違っていると思っていた。立法と行政の失敗を、司法が、逸脱者の存在自体をなかったことにすることで帳消しにする、というのは、欺瞞以外の何ものでもなかった。もしそれが罷り通るなら、国家が堕落すればするほど、荒廃した国民は、ますます死刑によって排除されねばならないという悪循環に陥ってしまう。


土井隆義『人間失格?』に「少年法の理念(保護主義)は、適切な生育環境が与えられていたら非行などしなかった、社会の責任である、だから更生のために援助をしなければならない、ということだった」とあります。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/c418f73cdd6e2577ff0d4b2bb2ef8959

井田良「いま死刑制度とそのあり方を考える」(井田良、太田達也編『いま死刑制度を考える』)によると、1970年代から1980年代においては、犯罪について社会的環境の所産とみる理論が主流でした。
しかし、最近では、「社会の側にも犯罪への責任がある」という考え方を持ちだせば、犯人を甘やかし、その責任を不当に低く見積もることであり、被害者への配慮を欠くという反応を受けることになりかねない。
個人の自己決定や自己責任が強調される時代となり、自己の判断と責任において生きることを強いられる。
犯罪は社会から切り離され、個人が100%の責任を負うべきと理解されるようになった。

少年事件は減っているのに、少年法が改正されて厳罰化しました。
原田國男「わが国の死刑適用基準について」によると、裁判員裁判では、生い立ちの不遇については、それでも立派に生きている人がいるとして、これを重視しない考え方が見受けられるそうです。

永山則夫も悲惨な子供時代を過ごしています。
第一次上告審では、控訴審判決を破棄し、高裁への差し戻しを命じた判決理由の中で「同じ条件下で育った他の兄たちは、概ね普通の市民生活を送っている。環境的負因を特に重視することには疑問がある」と判示しています。
はたして環境を無視していいものでしょうか。

精神科医の夏苅郁子さんはお母さんの統合失調症について書いた『もうひとつの「心病む母が遺してくれたもの」』の中で、永山則夫に触れています。

当時の永山(則夫)は、いわゆる心的外傷後ストレス障害と、精神病様状態にあったと思われます。にもかかわらず、彼は治療対象として認められませんでした。
彼を死刑とした最高裁の判決の是非が今も議論されているのは、未成年の、しかも病的状態にあった人間への裁きを、四人という殺人の「数」で判断してもよいのかが問われているのだと思います。(略)「根っからの悪にはいない。彼が人を殺すに至るまでに、何とかできなかったのか」という、やるせない思いだけは残ります。


犯罪者・非行少年は生育歴が悪い人が多いそうです。
貧困や暴力、育児放棄、そして依存症や障害などが事件の背景にある場合が少なくありません。
親がアルコール依存症だったり、虐待を受けていたりといった、機能不全家庭で育ったアダルトチルドレンの特徴の一つが生きづらさです。
http://www.yamanashi.med.or.jp/tsuru/onepoint/onepoint17.htm

高田章子「罪を犯した少年は、更生できないのか?」(『年報・死刑廃止2012 少年事件と死刑』)にこう書かれています。

死刑廃止運動にたいする抗議の電話には、「自分が強かったから、つらい環境も乗り越えて今まで立派に生きてきたのに、つらい境遇だったから人を殺してしまったなどという言い訳は許さない」という人がいるし、「自分は絶対に人など殺さないから、そんな野蛮な奴は危険だから厳罰に処して社会から隔離すべきだ」と言う人もいるが、私にはどれも傲慢な言い分に聞こえてならない。罪を犯さずに生きて来られたことは、自分を褒めるのではなく、そう生きさせてくれた、今まで出会った周りの多くの人たちに、感謝すべきことなのではないかと思っている。

そのとおりだと思います。
私たちが今のところ罪を犯していないのはたまたまです。

『ある男』に、主人公の城戸が息子を迎えにこども園に行き、息子が友達と話しているのを見て、こんなことを思う場面があります。

城戸は、この無邪気な子供たちの誰かが、いつかは人を殺すかもしれないのだと、ふと思った。たとえここにはいないとしても、今この瞬間に五歳という年齢で、同じように友達とはしゃいでいるどこかの子供が、やがては殺人という罪を犯してしまう。追い詰められてか、或いは、心得違いによってか。――それは一体、誰の責任なのだろうか。

自分・自分の家族がいつ犯罪に関わるかもしれません。

「FORUM90」に小川秀世弁護士の話が載っていました。
日弁連の人権擁護大会で、死刑廃止に反対する立場の人たちは、死刑の問題は価値観の問題だから、日弁連が多数決で決めるのはおかしい、価値観を強要するのは思想信条の自由に反すると言っているが、死刑の問題は憲法の問題であり、法律の問題だから、憲法の価値に基づいて考えたらどうなるのか、人権の理論だったらどうなるのかと考えなければいけない。

死刑問題はさまざまな人権問題と関係していると思います。


裁判員と死刑(2)

2022年03月02日 | 死刑

原田國男『裁判の非情と人情』に、死刑事件での裁判員の判断について、こんな感想が書かれています。

ときどき、あれ、ということもある。たとえば、報道によれば、仙台の少年の死刑事件の裁判員は、その記者会見で、「私個人は14歳だろうが、15歳だろうが、人の命を奪ったという重い罪には、大人と同じ刑で判断すべきだと思い、そう心がけた」と言ったという(2010年11月)。これは、一般の国民のスタンダードな考えなのかもしれない。国民の目線をここに感じる。
司法研修所の司法研究で実施したアンケート調査の結果でも、国民側の回答では、約25パーセントの人が、犯行時少年であることを、刑を重くする要素に考えている。ところが、裁判官側の回答では、そのように考える人は、0パーセントであった。
何故かというと、おそらく、裁判官は、少年事件をやっていて、少年の大半は更生しているという現実を知っているからだろう。見た目がとんでもなく悪い奴でも、結局は更生して立派な社会人になっている。国民とはここでの経験の共有ができない。少年による重大な事件の報道を見て、読んで、そういう少年というのは悪い奴だ、だから刑を重くしないと効き目がないという発想になりがちだ。少年の更生改善を謳う少年法の理念をあっさり否定してしまうのである。

少年が更生する可能性の高さを知らない人が多いということよりも、応報感情や被害者感情が少年の更生より重んじられている、そして少年に死刑を科すハードルが下がったからではないでしょうか。

今まで永山基準があるため少年への死刑判決は慎重でした。
ところが、岩瀬達哉『裁判官も人間である』によると、光市事件裁判が永山基準を緩和し、死刑は「選択も許される」刑罰から、「選択するほかない」刑罰へと変わりました。

原田國男「わが国の死刑適用基準について」(井田良、太田達也編『いま死刑制度を考える』)からです。
永山事件の第1次上告審判決で判示された永山基準に「極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない」とある。
ところが、光市事件第1次上告審判決は、「特に酌量すべき事情がない限り、死刑の選択をするほかない」と判示し、原則死刑、例外無期という判断枠組みを示した。

原田國男さんはこの判示に疑問を呈しています。

永山判決は、原則死刑、例外無期などとは言っていない。永山事件のほうが、はるかに責任刑としては死刑しかないという評価が可能な事案である。そうすると、この判示は、破棄するためとはいえ、妥当ではないのであって、総合評価の姿勢を崩すべきではなかったというべきである。(略)やはり、特段の事情がなければ死刑という判断手法はとるべきではないと考える。

原則は無期で、死刑は例外だという永山基準を変えるべきではないという意見です。

高橋則夫「死刑存廃論における一つの視点」(井田良、太田達也編『いま死刑制度を考える』)には、光市事件で最高裁は、犯罪が悪質な場合には原則として死刑という判断を行い、控訴審判決もそれに従ったのは、永山基準のうち「被害者遺族の感情」を重視したのではないかという推測が働く、とあります。

世論に押されての政治的判断や政策によって裁かれていいものなのかと岩瀬達哉さんは危惧します。
光市事件は死刑の選択基準を緩和し、少年であっても死刑を言い渡すという厳罰化への流れを生み出した。
しかし、更生の可能性を切り捨てることを憂慮する刑事裁判官は少なくない。

元東京高裁裁判長「僕はね、個人的には光市の母子殺害事件は、本当に死刑が相当だったのかって疑問に思っている。少年犯罪についての世論調査は、少年はけしからん、もっと罪を重くすべきだという意見が4割近くにのぼるけど、裁判官でそう考える人はいないと言っていい。少年というのは精神的にもろいところがあって壊れやすいけれど、ほんの少し手を差しのべてあげると驚くほどに立ち直るものなんです。僕の裁判官時代の経験でも、ひどい罪を犯した少年が更生教育によって立派な社会人、家庭人となって、目立った活躍はなくても社会に貢献できている人が多い。だからこそ少年法の精神として、いま一度、チャンスを与えようというのがあるわけです。これを厳罰化で奪うことは間違っていると思いますね」


宮地ゆう、山口進『最高裁の暗闘』に、光市事件を担当した第三小法廷の濱田邦夫裁判長は「死刑と無期、2通りの判決文案を調査官室に作らせ」、「死刑派は無期派に迫った。「どちらが社会に対して説得力があるだろうか」その結果、無期派が折れたのだった」とあるそうです。

原田國男さんは、

実際に、刑事裁判官は、一定の客観的な事情があれば、原則死刑で、特別の事情があれば、無期とは考えていないと思う。総合してやむをえないといえなければ、死刑にしない。また、そういう意味でも、裁判官の死刑意見が全員一致でなければ、死刑にしないのが慣行だと思う。

と書き、注に「光市母子殺害事件の第2次上告審において破棄差し戻しの反対意見があったことからすると、死刑の執行は難しいと思われる」と記しています。

裁判員裁判では、死刑事件に限らず、すべての事件で多数決はやめるべきだと思います。


裁判員と死刑(1)

2022年02月23日 | 死刑

佐藤舞「世論という神話」は、2014年の内閣府世論調査に内容を対応させて行なった調査について書かれています。
https://www.deathpenaltyproject.org/wp-content/uploads/2015/10/Public-Opinion-Myth-Japanese.pdf

死刑の存廃について、2択ではなく5段階で尋ねた。
「絶対にあった方が良い」27%
「どちらかといえばあった方が良い」46%
「どちらともいえない」20%
「どちらかといえば廃止すべきだ」6%
「絶対に廃止すべきだ」2%

全存置派のうちの71%が、政府主導の死刑廃止であれば政治政策として受け入れる(「政府の決めたことなら、不満だが仕方ない」)と回答している。
死刑制度の将来を誰が決定するべきかという問いに、内閣府世論調査世論にの結果によるべきだとする人が40%、決定権を専門家と国家機関に委任すべきだと考える人が40%だった。

では、裁判員として死刑判決を出すことになっても仕方ないと考えるのでしょうか。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』に、死刑判決を起案する裁判官は、人が人を裁くことのいい知れない重責を背負い続けなければならないとあります。
死刑判決を起案する過程で精神に変調をきたす裁判官もいる。

元裁判官「死刑を宣告する日は朝から極度に神経が張り詰め、法廷に入るドアノブに手をかけた時は、できることなら逃げ出しもしたかった」

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54426

原田國男さんも死刑判決を出す苦悩を『裁判の非情と人情』に書いています。

死刑の言渡しは、正当な刑罰の適用であって、国家による殺人などではないということはよくわかるが、やはり、心情としては、殺人そのものであり、法律上許されるとはいっても、殺害行為に違いはない。
目の前にいる被告人の、首に脈打つ血管を絞めることになるのかと思うと、気持ちが重くなるのも事実である。言渡しの前の晩は、よく眠れないことがある。(略)
裁判官でもこれほどプレッシャーを感じる重大な判断に、裁判員がかかわるのであるから、その精神的負担は大変なものである。


裁判員裁判では、全員一致が得られなかった場合、評決は多数決です。
無期刑にすべきだと思っても、死刑に賛成の人が多数を占めることもあるでしょう。
まして、冤罪かもしれない事件で死刑判決を下すことになった裁判員はどう思うのでしょうか。

そもそも裁判員制度が導入されたのはどうしてでしょうか。
岩瀬達哉『裁判官も人間である』によるとこういう理由からです。
矢口洪一が最高裁長官に就任する2年前の1983年に免田事件が、1984年には財田川事件、松山事件、在任中の1989年には島田事件が再審無罪になっている。

泉徳治元最高裁判事「陪審制度導入は矢口(洪一)さんが言い出したことなのです。これは独特の政治感覚ですね。死刑判決が再審で無罪になった事件が四件もあり、職業裁判官は何をやっているんだという話になりましたね。これが陪審裁判だと、国民が判断したことになるので、仮に再審で無罪となっても、批判の矛先が裁判官ではなく陪審員になる、裁判官は批判をかわすことができる、という政治感覚です」

誤判による非難を回避する仕組みとして陪審制を構想したのである。
つまり、無実の被告に死刑判決を下すことがあると、最高裁長官が認めているのです。

東京高裁の判事を退職して弁護士をしている原田國男さんは、裁判官時代には気づかなかった感覚を書いています。

その証拠や法廷での被告人の態度から、裁判官が無実を実感することは、少ないかまれである。これに対して、弁護人になり、無罪ないし冤罪を主張する被告人に何度も接見していると、この人は本当に無実なのだという確信がもてる。(略)この感覚は、裁判官時代には、得られないものであった。(略)著名な冤罪事件で再審無罪を勝ち取った弁護人も、やはり同じような感想を述べている。最初の接見で無実を確信したという例も少なくない。だからこそ、手弁当で膨大な時間をかけても、再審開始に至るまで打ち込むことができるのである。単なる売名のためにこれほどの負担を背負い込む人はいまい。無実なのに牢につながれている被告人を何とか救い出したいという気持ちがなせる業である。


では、裁判員は正しい判断を下せるのでしょうか。
原田國男さんによると、そうでもないようです。
嘘の見抜かなければ、とか、被告人に騙されてはならないという思いが強い裁判官は、素直に証拠を見ることができない。
無実方向の証拠でも、有罪という観点から何とか説明しようとする。

裁判官としての仕事に対する、にがい反省も生じた。それは、身柄に対する感覚である。現在、人質司法が問題になっている。犯人として逮捕され、否認をすると、勾留され、起訴され、保釈がなされず、長期にわたり拘束された挙げ句、実刑になるという悪い連鎖が起こっている。被告人が無実であっても、この負担に耐えられず、自白をしてしまうこともある。無実なら自白などするはずはないという見方がいかに誤っているかは、足利事件や氷見事件からも明らかである。
しかし、裁判官時代は、罪証隠滅や逃亡のおそれがあると考えがちであった。経験上、そうした例も知っているので消極的に考えやすい。だが、被告人と接見を繰り返していると、この不当に長い身柄拘束が本当に許されないものだと実感する。まさに、刑の先取りなのである。この実感は、裁判官はもとより、身柄を直接扱う検察官にも薄いのではないか? 書類上の出来事としか感じていないのではあるまいか?
この二つの実感(無実と身柄)をもつことは、良い刑事裁判官になるために必要である。こうして考えると、ゆくゆくは、法曹一元(裁判官はすべて弁護士経験者から選ぶ制度)が望ましいということになろう。

裁判員には「二つの実感」を持つことは難しいと思いました。


死刑と独裁国家

2022年02月01日 | 死刑

「FORUM90」Vol.179に、ミッテラン大統領の下で死刑を廃止したロベール・バダンテールのインタビューが載っています。

バダンテールは死刑を執行している国の多くは独裁国だと語っています。
ヨーロッパで死刑制度があるのはベラルーシだけ。
アメリカで死刑制度のある州の多くは南部連合だった。
サウジアラビアやイランなどイスラム原理主義の国では女性や子供も処刑される。
中国や北朝鮮は何人執行したか、その人数すら公表しない。
人権と死刑制度はつながっていると思いました。

では、死刑制度を存続し、執行もしている日本はどうなのでしょうか。
2018年3月、国連人権委員会のからの217件の勧告のうち、日本政府は死刑制度の廃止や一時停止を求める勧告、核兵器禁止条約への署名を求める勧告などの受け入れを拒否しています。
https://www.asahi.com/articles/ASL357WL1L35UHBI05D.html

なぜ日本は死刑を廃止しないのでしょうか。
岩瀬達哉『裁判官も人である』にこうあります。

元刑事裁判官のひとりは、法務省が頑なに反対する理由を明かした。
「死刑を廃止すると米国のように終身刑を作らないといけない。・・・だから法務省は死刑廃止には反対なのです」
犯罪への防止効果というのは単なる理由づけであって、本当のところは財務省の予算折衝が面倒なうえ、看守の負担増だけでなく、さまざまな仕事が増えるのが嫌だからだというのが、死刑制度廃止の妨げになっていたのである。


イギリスでは、エヴァンス事件という無実の人が死刑執行されたことがきっかけとなり、1965年に死刑が廃止されました。
1992年にアメリカでイノセンス・プロジェクトが開始されました。
無実を主張する受刑者や死刑囚が真犯人であるかどうかをDNA鑑定によって調べたところ、2011年までに292人が無実であることが明らかになっており、そのうち17人は死刑囚でした。

日本でも、福岡事件や菊池事件など冤罪と思われる事件で処刑されています。
飯塚事件ではDNA鑑定が有罪の決め手となりましたが、当時のDNA鑑定は精度が低く、誤審ではないかと言われています。
しかし、さほど話題にはなりません。

足利事件、布川事件、東電OL殺害事件など再審無罪になった事件では、いずれも自供しています。
それほど取調べが厳しく、冤罪が今も作り出されているのです。

そもそも、検察は証拠の開示をしないし、裁判所も証拠を開示するよう命令しません。
被告に有利な証拠があっても握りつぶされるので、再審請求が認められることはほとんどありません。

また、日本では著名人や政治家で死刑に反対だと訴える人は少ないように思います。
大谷洋子「バイデン政権で米国は死刑廃止へ」(「FORUM90」VOL.176)によると、アメリカでは選挙で死刑廃止を訴える候補が少なくありません。

2020年のアメリカ大統領選挙の民主党候補20人は、死刑問題を聞かれ、1人を除いた全員が死刑に反対だと明確に答えた。
その1人は「不公平に適用されるので停止」と言っている。

カマラ・ハリス副大統領は、2004年のサンフランシスコ地区検事の選挙戦で、死刑は求刑しないと公約を掲げて当選した。
その翌年ぐらいに警察官が射殺された事件が起きたが、カマラ・ハリスは死刑を求刑しなかった。
被害者家族はもちろん、警察官の団体や州の上院議員からも批判を浴びた。
しかし、70%がカマラ・ハリスを支持するという調査もあった。
その後、カマラ・ハリスは2010年にカリフォルニア州司法長官に、2016年に上院議員になった。

カリフォルニア州で死刑を求刑してきた郡は7つある。
それ以外の小さい郡はお金がないので、死刑を求刑することができない。
ロサンゼルス郡はアメリカにおいて最も死刑を求刑する郡の一つ。

昨年11月に行われたロサンゼルス地区検事の選挙に当選したジョージ・ギャスコンは選挙中から死刑は求刑しないと言っている。
ジョージ・ギャスコンの当選後は、現在係争中の死刑事件でも死刑求刑を取り下げる予定にしている。
そのため、検事局では辞職する人も出ている。
ジョージ・ギャスコンは自分の方針に従わない人はやめてもらっても結構だという方針をとっている。
カリフォルニア州の検事が集まる組織から激しい非難がされたが、ロサンゼルス検事局はこの団体からの脱退を決めた。

ロサンゼルス郡の隣のオレンジ郡の地区検事はものすごく保守的で、ロサンゼルスで起こった殺人事件をオレンジ郡に渡すよう、裁判所に申し出た。
ロサンゼルス郡では死刑を求刑しないので、オレンジ郡で死刑を求刑すると言っている。

もちろん、こうしたことは認められない。
これは、死刑がいかに地理的要件と地区検事の死刑へのスタンスで恣意的に求刑されるかが顕著に表れている例である。

ちなみに、アメリカでは法律は上下院で決められるため、大統領令でできることは司法省と司法長官に死刑の執行停止を指示することまでで、大統領の一存で死刑廃止はできないそうです。

州によって、州議会で死刑廃止を決めることができる州と、住民投票でしか死刑廃止できない州がある。
連邦レベルで死刑が廃止されると、州レベルでの死刑廃止の動きが出てくる。

日本はアメリカの圧力に弱いですから、アメリカに期待しましょう。


ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』

2022年01月23日 | 死刑

『死刑囚最後の日』は1829年にユゴーが27歳になる直前に書いた小説。
ユゴーが死刑廃止論者だとは知りませんでした。
訳者である小倉孝誠さんの解説から。

当時、死刑の正当性の根拠は3つあった。
①社会に害をなす成員を排除すべきだから。
②社会は犯罪者に復讐すべきだし、罰するべきだから。
③死刑という見せしめによって、模倣する者に脅威を与えなければならないから。

ユゴーの立場。
①犯罪者を排除するなら、終身刑で十分である。
②復讐は個人がすべきことだし、罰するのは神意の領域であり、社会は改善するために矯正すべきである。
③死刑は見せしめとして機能しない。

1832年に加えられた序文でこう反論しています。
当時、ギロチン刑は公開されており、役人が町中で触れ回った。

私たちはまず、見せしめは機能しないと主張する。人々が死刑を目撃したからといって、期待されている効果が生じるわけではない。それは民衆を教化するどころか、不道徳にし、民衆の心に宿るあらゆる思いやりの情を、したがってあらゆる美徳を破壊してしまう。証拠には事欠かないし、それをすべて列挙しようとしたら、議論の妨げになるだろう。(略)
こうした経験にもかかわらず、あなた方が見せしめという旧態依然とした理論に固執するのなら、私たちを十六世紀に連れ戻してほしい。ほんとうに恐ろしい人間になってほしい。多様な刑罰や、ファリナッチや、正式な拷問執行人を復活させたらいい。絞首台、車裂きの刑、火刑台、吊り落としの刑、耳そぎの刑、八つ裂きの刑、生き埋めの刑、釜茹での刑を復活させたらいい。


イタリアの法学者ベッカリーア(1738~1794)は拷問と死刑の廃止を唱えた。
死刑の非人間性を強調し、刑罰として無用である、終身刑を死刑と置きかえるべきだと説いている。
ユゴーが死刑に反対する論拠は、基本的にベッカリーアと同じである。

ユゴーだけでなく、ラマルティーヌも1830年に『死刑に反対する』という詩を発表している。
トスカーナ公国、オーストリア、プロイセン、スウェーデンは18世紀後半から19世紀初頭にかけて、一時的に死刑制度を廃止した。

主人公が監獄の中庭で徒刑囚たちが首枷を装着される光景を目撃する場面があります。
徒刑とは、監獄に収監するのではなく、主に港湾都市で、ドックの掘削、波止場の基礎工事、軍艦の艤装作業といった過酷な強制労働に長時間就かせる刑罰である。
囚人たちはふたり一組となって鉄鎖で繋がれ、身体的な自由を奪われた。
徒刑は一般の懲役刑以上に恐れられた。

徒刑囚が移動の身支度を終えると、二、三十人ごとの集団に分かれて中庭の反対側の片隅に連れて行かれた。そこで彼らを待っていたのが、地面に長く伸びた綱である。この綱というのは長くて頑丈な鉄鎖で、そこに二ピエごとにより短い他の鉄鎖が横についていた。その端には四角い首枷が結びつけられ、それがひとつの角につけられた蝶番によって開き、反対側の角で鉄のボルトで閉められているのだ。首枷は移動の間中、徒刑囚の首に固定される、(略)
ひとたびあの鉄鎖に繋がれてしまうと、徒刑囚の集団と呼ばれ、人はもはや、ひとりの人間のように動くあの醜悪な塊の一部にすぎないのだ。知性は放棄され、徒刑の首枷によって死を宣告される。動物的な側面について言えば、定まった時間にしか用便をすますことができないし、食欲を満たすことができない。こうして身動きもせず、大部分は裸同然で、帽子はかぶらず、足は荷台からぶらさげたまま、同じ荷馬車に積み込まれた徒刑囚は25日間の移動の旅を始めるのだ。


徒刑囚たちを見た主人公はこう思います。

徒刑だって! ああ、死刑のほうがずっとましだ! 徒刑場よりは死刑台、地獄よりは無のほうがいい。徒刑囚の首枷よりギロチンに自分の首を差しだすほうがいい!

ジャン・ヴァルジャンは南仏のトゥーロンで徒刑に処せられていました。

解説に、18世紀、ヨーロッパ諸国に監獄は存在したが、拘禁をほとんど刑罰として見なさず、監獄によって犯罪者は自由を奪われて身体を拘束されるが、処罰されてはいないと考えられていたが、18世紀末から19世紀初頭にかけて、犯罪者を監禁すること、つまり監獄や矯正施設に入れることが懲罰の主要な形態になる、とあります。

ジョン・ハワード(1726~1790)は1773年に州執行官に任命され、囚人が置かれている状況を知ります。
裁判で無罪になっても、看守や巡回裁判の書記などに種々の手数料を支払わないかぎり、拘禁されつづける。
看守に手数料をとらせるのではなく、給料を支払うべきだと州治安判事に上申したが、先例がないために認められなかった。

そこでハワードは、イギリス国内はもとより11カ国を歴訪して監獄や懲治院の視察をし、監獄の改善のために運動した。
そして、『十八世紀ヨーロッパ監獄事情』を書いています。
1777年が初版ですが、本書は1784年の3版の抄訳です。

監獄熱などの病気で多くの囚人が死ぬ。
水がたまっている地下牢に囚人を閉じ込める。
拷問が行われているところもあり、拷問のために手足が脱臼している囚人がいた。
囚人に食物が与えられていない、囚人が裸でいる、床に直接寝ている監獄や懲治院がある。
債務囚と重罪犯、男性囚と女性囚、初犯の若者と常習犯が一緒に収監されている。

ジョン・ハワードは1783年にパリの監獄を訪問しています。
中庭で鉄枷をしている囚人はいないし、イギリスの監獄のような悪臭はしない。

死刑囚がしばしば自暴自棄なるのを避けるために、下級審で死刑の判決を受けた者は、高等法院がこの判決を逆転させるか、あるいは確認してしまうまでは、死刑をまぬがれる希望を失わせないように、高等法院の判決は、死刑執行の当日まで知らされない。(略)私がいちばん最近見たのは、松明による火刑であったが、罪人は処刑前の拷問で、すでにほとんど瀕死の状態であった。


ユゴーはこう書いています。

拷問はなくなった。車裂きの刑はなくなった。絞首台はなくなった。ところが奇妙なことに、ギロチンそのものはひとつの進歩であるという。


現在、多くの国では鞭打ちや手足の切断などの身体に危害を加える刑罰は残酷だとして行われず、教育刑に変わっています。
なのに、なぜかアメリカと日本では死刑の執行が行われているという不思議。