『映画で学ぶ現代宗教』に、ドリュー・エリオット『ザ・シークレット』(2006年)という「引き寄せの法則」についてのドキュメンタリー映画が取り上げられている。
古代バビロニアから「引き寄せの法則」は秘密にされていたが、プラトン、シェークスピア、ニュートン、アインシュタインたち、歴史上の偉人はこのシークレットを知っていた。
では、「引き寄せの法則」とは何か。
前向きで明るい思考は、前向きで明るい現実を引き寄せるということである。
なんだ、アホらしいという秘密なのだが、『ザ・シークレット』のDVDと同名の書は大ヒットしたんだそうだ。
ポジティブ・シンキング(プラス思考)とは楽観的な考え方という意味にとどまらず、楽観的、積極的な考えをしたら物事がいいようになるという信仰で、「心が世界を変える」というニューエイジの中心教義の一つ。
ポジティブ・シンキングは、「思考は現実化する」という19世紀以降アメリカで広まったニューソート(新思潮)、そしてニューエイジの流れにあるそうだ。
『ザ・シークレット』の解説を書いた小池靖氏はニューソートについて、このように説明している。
「1980年代にはチャネリングや自己啓発セミナーによってニューエイジ運動が起こり、そうした運動は現在のスピリチュアル・ブームを形作っていったが、ニューソートは、思想的にもそうした運動の先駆けであった。(略)
精神的安定、健康、そして物質的成功までもが、人間と宇宙との調和によってもたらされると説いた。聖書に基づく病の癒しを説いたクリスチャン・サイエンスは、ニューソート系の団体である。日本の新宗教では、生長の家がニューソートの影響を受けている」
谷口雅春氏は、日本がアメリカに負けたのは日本人が勝てると思わなかったからだと言ってたそうだ。
戦争に勝つという強い信念を持てば必ず勝つというのは精神論だと思ってたが、ニューソートだったんですね。
小池靖「良いことを思えば良いことが起こり、自分自身を強く信じていれば夢はかなうといった発想は、今やアメリカ大衆文化に広く浸透している」
なるほど、アメリカ映画は「なせばなる」「やればできる」というメッセージを発信しつづけている。
ニューソートとキリスト教福音派とは関係があるのか、そこらも興味深そうである。
小池靖「ポジティブな思考がポジティブな結果を生むという考え方は、自己啓発書ではもっともありふれた発想である」
たとえば、五日市剛「ツキを呼ぶ魔法の言葉」という冊子。
ツキを呼ぶためには「ありがとう」「感謝します」と声に出し、汚い言葉は使わない、人の悪口を言わない。
そして、「自分は運が良い」「ツイているんだ」と信じ、それを言葉にしていれば、ツキがやってくる。
こんなお説教がなぜか評判がいいようで、真に受ける人がそれだけ多いのかと、日本の先行きが不安になる。
櫻井義秀『霊と金』によると、神世界の魅力は「ポジティブ・シンキング」と「カウンセリングの需要」(肯定的に話を聞いてもらいたい)ということだそうだ。
神世界の被害者のAさん(女性)のこんな経験。
「サロンに通う間に不思議な体験もした。通りを歩いていて信号機にさしかかると全て青信号になり立ち止まらずに済んだ。レジに並ぶと、自分の所だけ早く進む」
それをスタッフに語ると、「効果が出ましたね」と言われる。
ささやかではあるが、これも「物事をいいほうに考えるといいことがある」という一例である。
もっとも種明かしすると、「人は都合の良いことだけを記憶するものであり、そうした記憶は他人からの肯定で強化される」というだけのことなのだが。
ポジティブ・シンキングは一種のご利益信仰なのである。
小池靖「この映画(『ザ・シークレット』)の考え方は、中産階級の物質主義をあまりにも率直に肯定しているとも言える。実際、24人の証言者たちのうちの1人が、映像の中で「いわゆるスピリチュアルな人々は病気か貧乏な人たちが多い」という本音を漏らしている」
櫻井義秀氏によると、「ポジティブ・シンキングは、自立・自律するためではなく、勝ち残る・生き残るための短絡的な処世術として日本に浸透」したそうだ。
ヒーリング・サロンに通う女性は専門職やゆとりのある生活をしている主婦が少なくない。
「ミドルクラスの人達は時代の雰囲気に影響されやすい。競争社会でキャリアアップする、自分を磨く、子供にいい教育を与える、健康に気を遣う、こうした事柄に敏感な人ほど日常生活にストレスも抱えている」
小池靖氏もこう書いている。
「こうしたメッセージが受け入れられる背景としては、個人個人の自己実現が叫ばれる社会でありながら、現実にはなかなか思うようには成功できない人々が多くいるということや、競争社会の中での個人の不安の拡大が挙げられるだろう」
で、ヒーリング・サロンにはまってだまされると。
櫻井義秀氏はポジティブ・シンキングについて、「「前向きに生きれば人生は向上する」という考え方は一見、正しい。しかし、少しでも人生経験があるならば、ことはそう単純ではないことも知っているはずだ。そもそも、それでは現在恵まれない生活をしている人は、「考えが後ろ向きだから」そうなっているとまで言えるのだろうか」と指摘する。
もっともな指摘だと思うが、ポジティブ・シンキング信者は聞く耳を持たないと思う。
五日市剛氏の講演を聞いて感動した知人に問題点の指摘をしたら、「感謝の気持ちを持つのがどうしていけないのか」とか「嘘は言っていない」という返事でした。
櫻井義秀『霊と金』は、まず神世界について書かれてある。
神世界が運営するヒーリングサロンで多額の金銭をだまし取られた被害が全国各地で発生した。
「ヒーリング・サロンというのは、一見したところスピリチュアリティ・ブームにのった現代的な霊感商法なのだが、日本の新宗教に固有の特徴をいくつか備えている」
神世界は大本から分かれた世界救世教(浄霊・手かざし)の分派である。
なぜ神世界のヒーリング・サロンが短期間に実績を上げられたのか。
櫻井義秀「答えは案外単純だ。「宗教をやめたこと」が成功の元である」
なるほどね、オウム真理教は「ヨガ教室に来ませんか」と勧誘していたし。
ヒーリング・サロンは「何より、敷居が低い」
「ヒーリング・サロンにおいては、本来の神霊治療に付加されていた修養・修行や教会生活を円滑にするための倫理規範が取り払われた」
ヒーラーたちの癒しの技法の特徴
①世界の諸現象を統一的に説明する論理を有している。
世界・宇宙には調和が求められるが、現在は人間の心身を含めて不調和な状態にある。これが身体・精神の病の原因とされる。
②癒しは病の元を除去することにつきる。
西洋医学は対症療法的であるために症状を生じさせる真の病因に迫ることができないと考えられている。
癒しの技法は、人間の力を利用したもの(ハンド・パワー、自然治癒力等)、器械や薬剤を用いるもの(オーラ、波動、パワーストーン、各種健康食品)、超自然的存在の活用(祈り、チャネリング、宇宙エネルギーの活用等々)の類型がある。
③ヒーリングは呪術や妖術に近い。
原因不明の病気や大けがをしたり、自然災害等に遭ったりしたときは、彼らの精神状態をケアすることも癒しである。
病の原因は祖霊の祟りや精霊の仕業、怨みを抱いた人の邪視などだから、霊を慰め、供物を献げ、呪術で相手を懲らしめる。
なぜ現代にヒーリングがはやるのか。
「それに対する一つの解答は、現代人が不可抗力である事態にたじろいだ際に、それを受け止める度量も世界観も失っているからではないか」
「宗教をやめたこと」が神世界の成功につながったということは、宗教の衰退ということだと思う。
病気が治ってあたりまえ、子どもが親の思うように育ってあたりまえ、幸せになってあたりまえ。
人生山あり谷ありと言いながらも、心の中にどこかそういう思いを持っている人は少なくないと思う。
ところが、現実はままならない。
うまくいかないのは何かが邪魔しているからだ、だったら邪魔しているものを取り除けばいい。
邪魔しているものとは霊とか業(カルマ)とかになるのだろうけど。
宗教がちゃんと根づいているなら、世の中そんなものだという、いい意味でのあきらめ(事実認識)があった。
ところが、宗教の影響が衰えるとともに、そうした受けとめ方を忘れてしまい、あやしげなセラピーやヒーリングにはまる人が増えたのではないかと思う。
ヒーリングとか癒しという言葉に好印象を持つ人は少なくないと思うが、櫻井義秀『霊と金』を読むと、どうもあやしい。
スピリチュアルな癒しの実践者と顧客の特徴
①技法を教授したがる。
特異な能力であることを示しながら、誰もが理解でき、実践することもできるという発想を実践者は有している。
②顧客が実践者を目指す。
学習者は学ぶ意思さえあれば、一週間と20万円ほどでセラピストになれる。
③は略。
ヒーリングの専門家には金とヒマさえあれば、誰でもが、しかも簡単になることができるらしい。
これは浄霊についても同じことが言える。
浄霊系新宗教が持つ世界観や儀礼の特徴
①霊界と現実世界の二元的世界観を持ち、霊界の表れが現実世界に反映すると考える。
②人間界では神から霊や生命をいただいた恩を忘れて身勝手な人間が増えた結果、世は乱れ、ありとあらゆる不幸が人間を襲う。
③神はこの世を立て直すために神の世のひな形を示され、神と再びつながる方法を示すミロクを遣わす。教団の創始者こそ現代のミロクである。
④神のひかり、神霊力を取り次ぐものが教主、幹部であり、この神霊治療の技法(浄霊)を信者に教え、広めることができるとされる。
普通、専門職には簡単になれない。
だから、病気を治してもらったからといって、医師になろうと考える人は少ない。
ところが、ヒーリングや浄霊は何日かの研修でその技術を身につけることができる。
つまり、すごく簡単でお手軽だということ。
だからこそ、スピリチュアルのサービス受益者にはリスクがある。
①効能は社会的にも同業者集団によっても保証されていない。
癒しを求めたのに、心理的外傷や身体の不調をまねくことになるかもしれない。
②サービスが妥当かどうかの見極めが難しい。
自分で商品や対価の評価をしないといけない。
つまり、だまされる可能性が高い。
「私たちはリスクがゼロになるという文句に非常に弱い」
たとえば、アトピー。
「医学ではアトピーは治らない」「ステロイドを使うのは身体によくない」というので、健康食品や代替療法の信奉者が少なくない。
現状の問題点を強調し、不安を煽り、解決法を与えるわけである。
「この種のアトピービジネスでは根治療法を勧める。これをやれば絶対治ると。しかし、いつ治るかは明言を避ける」
スピリチュアル・ビジネスが「売っているのは「不安」そのものだ」
私が考えたスピリチュアル・ビジネスのあやしさの見分け方
1,正体を隠しての勧誘
2,すぐに決断を迫る
3,こうなれば必ずこうなる、という単純化した説明
4,科学の否定
5,今の状態を否定し、本当は素晴らしいはずだという夢を与える
インチキ宗教も同じです。
スピリチュアルの問題点を指摘するのは厄介である。
スピリチュアリティとは、櫻井義秀『霊と金』によると、「自分を超えたもの、自分とそうした存在とのつながりを求める気持ち、自分がそうしたものにふれて変えられていく感覚を近年はスピリチュアリティと呼ぶ」ということである。
「科学ではわからないことがある」「物質文明は人間を幸せにしない」といった一見もっともなスローガンでスピリチュアルを正当化し、スピリチュアリティのネガティブな面を隠している。
櫻井義秀「スピリチュアル・ビジネスという概念により、現代のスピリチュアリティを批判的に見る視点を提供しようと考えた」
スピリチュアル・ビジネスの一例として、櫻井義秀氏は「すぴこん」(スピリチュアリティを提供する見本市)を取り上げている。
すぴこんは現在はスピマ(スピリチュアル・マーケット)と名前を変えている。
どうやら仲間割れしたためらしい。
全国の約60会場で年間延べ11万人が利用しているそうだ。
第2回札幌すぴこんは入場料1800円、それぞれのブースでもお金がかかる。
「全カルマ解除」は3つの店舗でしている。
癒しマッサージ部分20分1500円
オーラ写真撮影2000円、プラス1000円で解説
オーラ診断2000円
ワンネス、各種ディクシャ(脳にエネルギーを与える)2000円
ダウジングによるチャクラ測定20分2000円
リンパセラピーによる小顔マッサージ1000円
霊気による血液交換法15分1500円
チャネリング15分1000円
過去世リーディング15分2000円
これらはどういうものかをネットで調べたが、いかにもインチキ臭いというか、しょうもないシロモノとしか私には思えない。
でも、これで商売が成り立って生計が立つということは、まともに信じている人がそれだけ大勢いるということである。
私もこの手のものは嫌いではないが、どうしてそこまでのめり込めるのか不思議である。
前世の霊視については、高橋秀実『ご先祖様はどちら様』に体験談があるので、それをご紹介しましょう。
我が家の家系を調べる高橋秀実氏は「半年先まで予約がいっぱい」という人気の前世カウンセラー平池来耶氏を訪れる。
ちなみに平池来耶氏は「これまで何百回も生まれ変わっている」そうだ。
「『なぜか惹かれる』というモノや場所はありませんか?」と高橋秀実氏は聞かれる。
これは占い師や霊能者が相手の情報を知るために行うリーディングという初歩的テクニックである。
だが、ほにゃららな高橋秀実氏は返答をためらうので、平池来耶氏は困ったと思う。
平池来耶氏は霊視によって前世が見えるらしい。
「エボシが見えます」
「おそらく平安時代の学者さんか何かですね。そこそこの身分の人でしょう」
高橋秀実氏は「誰なんでしょう」と尋ねると、「あくまで心象イメージです。もともと名前や言語は記録に残らないんです」と、まことに頼りないというか、突っ込まれないような返事が返ってくる。
「彼女によると、人の魂はもともと「大いなる源」という所にあり、何かを学ぶために現世に旅立つらしい。そして学びの途中で肉体が滅びるとまた「大いなる源」に帰り、再び現世へ。この繰り返しがすなわち「転生」。私たちは毎回、学ぶべきテーマを持って生まれてくるそうだ」
ニューエイジ・スピリチュアルでおなじみのお話ではないか。(ニューエイジ系の宗教はこの手の教えを説いている)
二人の対話から。
――私は誰の生まれ変わりなんでしょうか?
「ですから、誰なのかはわかりません」
――しかし、それでは……。
「ここにいらっしゃる方たちは、本音では『自分が誰の生まれ変わりなのか』ということに、実はあまり興味がないんです」
――じゃあ、何に興味があるんですか?
「自分の人生が、ゼロからのスタートではないと確認したいんです」
――ゼロから?
「ゼロからだと不安でつらいんです。前世があることを知れば、自分のスタート地点をあらためて確かめられる。そして、なんとなく感じていた予感も確認できる。人生を味気ないと感じていた人も、前向きに生きられるようになるんです」
そんなものかと思うが、『霊と金』にはこんなアドバイス例が載ってる。
「あなたが恋愛に臆病なのはね、あんたの前世のせい。あなたは中世ドイツの貴婦人で騎士から愛を告白されたけど返事をしなかった。その騎士は戦場で亡くなってしまい、あなたは罪滅ぼしのために愛を封印した人生を送ってきた。だから、あなたは自分の感情を表に出さない性格の人なの。でも、もう十分、幸せになっていい時期よ」
こういうやりとりなら平池来耶氏もお手のものなんでしょうね。
平池来耶氏に前世を霊視してもらうのにどれくらいかかるのか。
ネットで調べたら、個人リーディング料:40分2万円(前世セラピーを含むと3万円)でした。
すぴこんでの料金はお試し価格で安めに設定してあるそうで、『霊と金』によると、セッション価格は、「オーラを見る教室」の2時間3150円、チャクラヒーリング1時間1万円、波動調整1時間2万5000円など。
研修講座は、光の言葉セラピーヒーラー1日3万円、直伝レイキセミナー6日間9万5000円、エナジーセラピスト総合講座(色エネルギーによる癒し)受講70時間390,600円など。
こんなのを受講して資格を取り、じゃあ、どうするのでしょうか。
これからは、セラピーという言葉を見たらあやしいと考えることにしましょう。
オウム真理教の事件は救済であり、慈悲の行為とされた。
広瀬健一氏によると、オウム真理教における救済とは「その対象について、まず三悪趣への転生を防ぎ、最終的には解脱させること」である。
ところが、「オウムの教義の見地からは、現代人は悪業を積んでいるために、三悪趣に転生するのは必至でした。さらに、悪業を積み過ぎているので、真理(精神を高める教え=オウムの教義)を受容できる因も尽きており、通常の布教方法では救済されないとされていました」
そこで、「かかる現代人を救済するには、武力を用いて地球上にオウムの国家を樹立し、真理の実践をさせる以外の道はない。あるいは、「ポア」しかない」というヴァジラヤーナの教義に基づく救済が説かれた。
「ポアとは、麻原が救済の対象について、その生命を絶つことによってカルマを背負い、より幸福な世界に転生させる手段でした。また麻原は、武力を用いて地球上にオウムの国家を建設し、人々にオウムの教義を実践させるとも説きました」
麻原彰晃は「数百人の商人を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいた。釈迦牟尼の前生はどう対処したか」という質問を何人かの弟子にし、こういう説法をしている。
「例えば、ここに悪業をなしている人がいたとしよう。そうするとこの人は生き続けることによって、どうだ善業をなすと思うか、悪業をなすと思うか。そして、この人がもし悪業をなし続けるとしたら、この人の転生はいい転生をすると思うか悪い転生をすると思うか。だとしたらここで、彼の生命をトランスフォームさせてあげること、それによって彼はいったん苦しみの世界に生まれ変わるかもしれないけど、その苦しみの世界が彼にとってはプラスになるかマイナスになるか。プラスになるよね、当然。これがタントラの教えなんだよ」(『ヴァジラヤーナコース教学システム教本』)
カルマの法則と輪廻転生を信じるなら、この考えは否定できないと思う。
釈迦牟尼は前生で悪党を殺したのだが、それは「悪党がより厳しい苦界により長い期間にわたって転生するのを防ぐため」だと麻原彰晃は説明した。
「悪党は、悪業を犯し続けるのを放置されれば、地獄転生は必定です。地獄に転生する塗炭の苦しみは、殺される苦痛の比ではない。これがオウムの教義であり、信徒の感覚でした。常識とは相反するこの見地に立脚すると、教団においては、殺人も救済になり得たのです」
麻原彰晃の説法。
「ここに、このままいくと地獄に落ちる人がいたと。そしてそのカルマを見極めた者が、そこで少し痛めつけてあげて、そしてポワさせることによって人間界へ生まれ変わるとしようと。その人は、それを知って痛めつけ、そしてポワさしたと。つまり殺したわけだな。人間界へ生まれ変わったと。これは善業だと思うか、悪業だと思うか。――ところがね、観念的な、法無我の理論を知らない者は、それをそれとして見つけることができないんだね。観念的な善にとらわれてしまう。そうすると、そこで心は止まってしまうんだ。いいかな」(1989年4月28日 富士山総本部道場)
「ヴァジラヤーナの救済におけるポアとは、麻原が救済の対象について、その生命を絶つことによってカルマを背負い、より幸福な世界に転生させる方法でした。ですから信徒が日頃なじんでいたヴァジラヤーナの指導法も、ヴァジラヤーナの救済におけるポアも、考え方そのものは変わらなかったのです。
異なるのは後者の場合、エネルギー交換を起こすための〝働きかけ〟が生命を絶つことだった点です。〝働きかけ〟が何であるべきかは、最終解脱者である麻原が、対象のカルマを見極めて決定することでした。現代人の場合、あまりにも悪業を蓄積しているために、その〝働きかけ〟が生命を絶つこととされたのです」
ヴァジラヤーナはカルマを浄化し、三悪趣に堕ちることを防ぎ、解脱へと導くためである。
いくらポアが三悪趣への転生を防ぐ慈悲の行為だとしても、殺人には違いないから、実際に手を下す弟子はカルマ(悪業)を作ることになる。
そのカルマも麻原彰晃が背負う。
「麻原は信徒について、「苦しみ」を与えることによってカルマを背負い、解脱・悟りに導きました。
つまり、麻原が信徒に「苦しみ」を与えることによって、両者の間に〝関係〟が生じ、「エネルギー交換」が起こるわけです。そのとき、麻原の持つ最終解脱状態の情報が信徒に移り、また同時に、信徒のカルマが麻原に移ります。その結果、信徒はカルマが浄化され、解脱・悟りに導かれるのです。これがそもそものヴァジラヤーナでした。また麻原がこの〝神秘的な力〟によって、信徒の精神を高める(煩悩・カルマを減じる)ことが、そもそものポアでした。
また、ヴァジラヤーナの指導法において麻原が信徒に「苦しみ」を与えたのは、カルマを清算させる意味もありました。教義では、自身のカルマに応じた苦しみが身の上に起こると、そのカルマが消滅するとされていたからです。
実際に麻原は、竹刀で信徒を叩くことがありました。竹刀が折れるほど強く。また、様ざまな〝働きかけ〟をして、信徒を精神的に苦しめることもありました。よく聞いたのは、信徒の苦手とする課業を故意に指示し、信徒が強いストレスにさらされる状況を形成することです。このような方法で対象のカルマを浄化することを、「カルマ落とし」といいました。
ヴァジラヤーナの救済において対象の生命を絶つのは、この「カルマ落とし」の意味もあったのです。
以上のようなヴァジラヤーナの指導法、つまり麻原との「エネルギー交換」や麻原による「カルマ落とし」によってカルマが浄化され、修行が進んだり、さらに解脱・悟りに誘われたりした(と感じた)信徒が多数存在しました。ですから信徒にとっては、ヴァジラヤーナの指導法ひいてはヴァジラヤーナの救済は、幻覚的ではありましたが、その効力が五感によって知覚され、身体に刻み込まれた実際的な教えだったのです。
以上のように信徒の日常に溶け込んでいた「エネルギー交換」と「カルマ落とし」の教義を基礎として、麻原はヴァジラヤーナの救済の説法を展開しました」
というように、オウム真理教の一連の事件は救済だと、理論的にも、体験的にも正当化されたわけである。
オウム真理教の信徒にとって、カルマの交換やカルマの浄化、三悪趣への転生などは単なる理論ではなく、実体験(宗教的経験)によって実感する事実である。
たとえば、カルマは病原菌のように人に移る。
「信徒のその認識は、非信徒の方との「エネルギー交換」の体験に基づいていました」
その実体験を広瀬健一氏は手記に書いている。
「当時私は、会話をするなどして非信徒の方と接したり、街中を歩いたりすると、カルマ(悪業)が自身に移ってくるのを感じました。これは、気体のようなものが振動(ヴァイブレーション)を伴いながら身体に入ってくるような感覚でした。また同時に、表現し難い不快な感覚も誘起されました。まるで、自身の生命活動を維持している源が、蝕まれるような。そして、この感覚の後に私は、自分が気味悪い暗い世界にいるヴィジョンや、奇妙な生物になったヴィジョン――カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある――などを見ました。
このビジョンは、カルマが移り、自身が三悪趣に転生する状態になったことを示すとされていました。(ですから私は、この経験によって、人々が三悪趣に転生することを実感していました)さらに、その感覚(エネルギー交換)の後に私は、心身の状態も悪化しました。エネルギーの通る管が詰まり、身体に違和感を覚えたのです。あたかもカルマが管を詰まらせたかのように。同時に私は、エネルギーの流れが阻害されてそれが身体に充満しなくなり、消沈した精神状態になりました。
この理由で私は、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化する修行をせざるを得ませんでした。自身が三悪趣に転生するのを防ぐために。そして心身の不調から脱するために。
また私は広告を始めとして情報によっては、接すると頭痛などの心身の変調が起きたのです。一般社会の情報は煩悩を増大させて、人々を三悪趣に転生させるという教えの影響でした」
麻原彰晃によるエネルギー交換ついてはこういう体験をしている。
「私は修行をしていないときでも、麻原の心地よいエネルギーが頭頂から注がれて心が澄みわたり、自身のカルマが浄化されるのを感じることがありました。このような状態は、奉仕行(布施と布教)によってもたらされました。
これが当時の日常でしたから私は、一般社会の影響によって人々がカルマを増大して三悪趣に転生するのに対して、麻原だけが人々のカルマを浄化できることを肌で感じました」
「私は様ざまな状況・様態で、麻原のエネルギーを体感しました。その感覚は、麻原が強く意識される状況では必ず生起しました。たとえば、私が麻原の近傍にいるとき、あるいは麻原と(電話で)話しているとき、瞑想において麻原を観想しているときなどです。なお、麻原と距離を隔てた状況において、突然生起することもありました。
またそのエネルギーは、あるときは気体、あるときは液体のような感覚を伴って、私の身体に流入してきました。熱く感じることもあれば、冷たく感じることも、温度を感じないこともありました。
そして、このエネルギーこそが私にとって、麻原が神格を有することの証明でした。それが私の身体に注がれると、私の心が〝聖なる〟状態になったからです。心の汚濁は浄化され、意識はどこまでも透明になり、冴えわたりました。それは、人の五感が奏で得る、至上の感覚でした」
「また私は、麻原のエネルギーが注がれると、自身のカルマが浄化されるのを実感しました。その経験も、「潔められる」という感覚が誘起されるこの型の宗教的経験の性質に起因するものでしょう。さらに「カルマが浄化される」という感覚のみならず、カルマの浄化によって起こるとされる〝現象〟が相伴って、私の身の上に現れるのでした」
こういう体験をしていたら、麻原彰晃の言うことに疑問を持つことは不可能だと思う。
おそらく武装化やサリンを撒くなどに何のためらいも持たなかっただろう。
麻原彰晃がオウム真理教で絶対的な存在になったのも無理もない。
こうしたことを防ぐためには体験を絶対化しないことが大切である。
宮城先生は、智慧がないというのは光がない状態、手探りで動くしかないことだ、と話されている。
「手探りというのはなにかというと、自分の手に触れたもの、体にふれたものしか信じないということです。つまり自分の体験、自分の考えそういうものが絶対的になる。これはおれが体験したことだ、だから絶対まちがいがない」
この体験とは神秘体験だけに限らない。
たとえば、自分が苦労したことを握りしめるとか。
手かざしによる浄霊とカルマの浄化とは理屈としては似ていると思う。
櫻井義秀『霊と金』によると、浄霊とはこういうことである。
「(世界救世教教祖)岡田(茂吉)によれば、人間は日々の生活で心身に汚れたものを蓄積するため、霊が曇り、身体には毒素が溜まる。人間には自己治癒力があるので、毒素を排出しようとして病になったり、不幸や災難といった出来事に遭遇したりする。これが自然の浄化作用と考えられ、岡田は神から授かった力により、霊の曇りを取り除き、浄化を促進して病や災厄をなくすことができると語った。この浄霊の力と技法は岡田の高弟達に伝授されたが、教団が拡大する際に、治療の講習会に出席したものにおひかり(元々は治病観音力)と呼ばれる御守りが与えられ、おひかりを身につけたものには神の力を取り次ぐことができるとされたのである。今風にいえば、誰でもヒーラーになれる道が開かれた」
つまり、「心身に汚れたもの」がカルマ(悪業)であり、「不幸や災難といった出来事」はカルマ落とし、「霊の曇りを取り除く」ことがカルマの浄化になる。
しかし、オウム真理教のカルマの浄化と浄霊とは大きく違う点がある。
浄霊は研修会に参加することで誰もが習得できるが、オウム真理教ではカルマの浄化のためには麻原彰晃の存在が不可欠だということである。
広瀬健一氏はこう書いている。
「ここで、麻原について説明させていただく必要があります。麻原は教義上、カルマの浄化に不可欠な存在だったからです。
輪廻の原理とカルマの法則が支配するオウムの宗教的世界において、麻原は「神=救済者」といえる存在でした。カルマを滅尽した最終解脱者であり、苦界に転生する運命にある私たちのカルマを浄化し、私たちを幸福な世界への転生、ひいては解脱に導くことのできる「神通力」を具有するとされていたからです。(略)
麻原は人のカルマの状態を見極め、これを効率的に浄化する指導ができるとされていました。
さらに麻原は、私たちに「エネルギー」を注入して最終解脱状態の情報を与え、また私たちが蓄積してきたカルマを背負う――つまり、カルマを引き受ける――とも主張していました。このようなカルマの移転は、「エネルギー交換」あるいは「カルマの交換」と呼ばれていました。このエネルギー交換は、接触でも、会話・思念でも――私たちまたは麻原の一方が相手を思念した場合でも――、さては麻原に対する布施でも、私たちと麻原の間に何らかの〝関係〟が生じれば、程度の差はあれ起こるとされていました」
カルマを金と考えたらわかりやすいと思う。
悪いことをすると借金(悪業のカルマ)が増える。
麻原は借金を肩代わり(エネルギー交換)したり、金を与える(イニシエーション)ことによって借金をなくしてくれる。
「また信徒は、麻原のエネルギーを得るために、「イニシエーション(秘儀伝授)」を熱心に受けていました。イニシエーションとは、麻原が信徒にエネルギーを注いで最終解脱状態の情報を与え、また信徒のカルマを背負う〝儀式〟です。加えて、イニシエーションを受けると、麻原との縁や絆が強まり、解脱に至る因が培われるとされていました。
イニシエーションは種々ありましたが、最も代表的なのが「シャクティー・パット」でした。シャクティー・パットにおいて、麻原は信徒の額に親指を当て、一〇分間にわたってエネルギーを直接注入しました。このとき多くの信徒が宗教的経験を得、麻原に対する帰依を深めたのです」
シャクティー・パットなんてアホらしいと、私はバカにしていたが、手かざしと同じ理屈だとは知らなかった。
「カルマを浄化しないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「神=救済者」でした。その神の力を、信徒はイニシエーションによって体感していたのです」
では、麻原彰晃の力によらずに、自分が善業を作ることによってカルマを浄化することはできるのか。
功徳となる行為(善業)は麻原彰晃や教団に対する奉仕行である。
在家信徒の代表的な奉仕行は布施と布教(入信勧誘・チラシ配りなど)である。
しかし、自分の努力(善業を積む)だけで借金(カルマ)を減らせるわけではないらしい。
「布施を含む奉仕行は教義上、さらに重要な意味がありました。麻原が意思する善行の実践によって、彼との〝絆〟が強まるとされていたのです。その結果、麻原の「エネルギー」を得ることができ、それによって自身のカルマが浄化されると説かれていました」
いくら善行を積んでも、麻原彰晃がいなければカルマの浄化には結びつかないのである。
広瀬健一氏によると、オウム真理教の教義は次のとおり。
「教義では、修行の究極の目的は「最終解脱」でした。オウムでは七段階の解脱のステージが定められており、最終解脱はその最高峰でした。
最終解脱は、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜といわれる境地でした。
ここで絶対自由とは、カルマ(業(ごう)。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味です。(略)
なぜ解脱しなければならないのか――それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、善業(幸福になる原因)が尽きてしまえば悪業(苦しみが生じる原因)が優位になり、必ず苦界に転生する運命にあるということです。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は「三悪趣」と呼ばれ、信徒が最も恐れる苦界でした。(略)
私たちは、自己が存在するだけで完全な状態にあったのにもかかわらず、外界の存在に対して欲望を抱きました。その結果、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地から離脱し、輪廻転生を始めたのです。それ以来、私たちは欲望を充足するために、様ざまな行為(思念することも含む)をするようになりました。
その行為は情報として、私たちの内部に蓄積されていきました。この蓄積された情報を「カルマ(業)」といいます。カルマのうち、苦しみが生じる原因が「悪業」です(カルマは善業も含みますが、教団では通常、悪業の意味で使われていました)。教義では、世俗的な欲望を満たすための行為は悪業になるとされていました」
カルマの法則とはバチが当たるということである。
自業自得は仏教の基本的な考えだが、自業自得とバチが当たるとは意味が違う。
バチが当たったということは、
先祖を粗末にしたから(因)→病気になる(果)
自業自得は
酒を飲み過ぎて(因)→二日酔いになる(果)
カルマとは行為という意味だが、それだけではない。
何か行為をすれば、それが実体となって残る。
その実体がカルマである。
カルマは自分自身の来世だけではなく、他者にも影響を与える。
「たとえば、嫌悪の念や殺生は地獄に、貪りの心や盗みは餓鬼に、真理を知らないことや快楽を味わうことは動物に、それぞれ転生する因になるとされていました。このように自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これは中心的な教義でした」
悪業(カルマ)を作れば、来世では地獄、餓鬼、畜生(動物)に墜ちるというわけである。
カルマの法則はオウム真理教独自の考えではない。
中村元『仏教語大辞典』の「業」の項には、
「3 行為の残す潜在的な余力(業力)。身・口・意によってなす善悪の行為が、後になんらかの報いをまねくことをいう。身・口・意の行ない、およびその行ないの結果をもたらす潜在的能力。特に前世の善悪の所業によって現世に受ける報い。ある結果を生ずる原因としての行為。業因。過去から未来へ存続してはたらく一種の力とみなされた。
4 悪業または惑業の意で、罪をいう」
とある。
悪業による報い(三悪趣に堕ちること)を防ぎ、輪廻から解脱するためにはカルマを浄化しなければいけない。
「カルマの法則に基づいて考えると、解脱、つまり輪廻からの解放に必要なのは、転生の原因である煩悩・カルマを減少・消滅すること――オウムではカルマの浄化といいました――です。煩悩・カルマを滅尽すると、最終解脱に至るとされていました。ですからオウムにおいては、カルマの(特に悪業の)浄化が至上命令でした」
カルマの法則やカルマの浄化を説く人は珍しくない。
その一人である江原啓之氏の本『日本のオーラ――天国からの視点』の視点を、櫻井義秀『霊と金』は次のようにまとめてある。
①同性愛者には人を差別してきたカルマが見える。だから差別を受けることでカルマの法則を学ぶのではないか。
②アメリカの9・11テロも広島の原爆もカルマの法則で捉えられる。奪ってきたものがあるから、奪われる。戦争という形で魂の浄化が果たされる悲劇がある。
③社会貢献や慈善事業はカルマ落としになる。国税も稼いだ人に国がカルマ落としをさせるようなもの。
江原啓之氏は差別や戦争をカルマの浄化のために意義あるものと肯定しているのである。
しかし、現在の苦(災難、障害、貧困、差別など)は前世の業の結果だとするカルマの法則はおかしい。
というのも、前世で五戒を保つなどの善業を積んだ功徳で人間として生まれたのだから、前世で悪業を作ったら人間に生まれては来ないはずである。
人を殺したら三悪道に堕ちると脅し、その一方で、前世で悪業を作ったからこんな苦しい目に遭ってるんだと非難するのは矛盾である。
オウム真理教の事件はどうして起きたのか?
二つの説があるように思う。
1,事件は麻原彰晃が指示したものではなく、弟子たちが麻原の考えを推測し、麻原に気に入られるために勝手に起こした。(弟子の暴走説)
2,麻原と弟子たちの相互作用。(麻原=弟子の相互作用論)
私もそのように考えていたが、オウム真理教の元信徒広瀬健一氏は「学生の皆さまへ」という手記と、新たに書かれた「オウム真理教元信徒広瀬健一の手記」を読み、それは間違いだと知った。
5月26日、27日に放映されたNHKスペシャル「オウム真理教」を見ても、すべては麻原彰晃の指示だったことが明らかである。
衆院選落選後に武装化したと考えている人がいるが、そうではない。
麻原彰晃は教団を設立した当初から、教団の武装化によって社会を支配しようと意図していた。
そして、弟子たちにそうせざるを得ないと信じ込ませている。
NHKスペシャルでは「暴走」という言葉を使っているが、麻原彰晃は最初から計画していたわけだから、暴走したわけではない。
なぜ麻原彰晃は事件を起こしたのか。
広瀬健一氏は手記の冒頭にこのように書いている。
「「アビラケツノミコトになれ――」
突如、麻原彰晃に訪れた啓示が、オウム真理教による破壊的活動の原点になりました。
1985年5月、神奈川県三浦海岸。
麻原は解脱・悟りの成就を発願し、頭陀(ずだ)を行じていました。頭陀とは、この世に対する執着を、禁欲的生活によって絶つ仏道です。恐らくは粗衣をまとい、野宿をしながら、修行に勤(いそ)しむ毎日だったことでしょう。
そのようなある日、麻原は神を礼拝していました。立位の姿勢から五体を大地に投げ出しての礼拝を繰り返す、仏教の伝統的な修行です。そのとき麻原は、天から降りてきた神の声を聞いたのです。
言葉の意味を調べたところ、「アビラケツ」はサンスクリット語であり、アビラケツノミコトは「神軍を率いる光の命(みこと)――戦いの中心となる者」のことでした。神は麻原に、西暦2100年から2200年頃にシャンバラが地上に興ることを告げ、その実現のためにアビラケツノミコトとして戦うように命じたのです。
そのときでした。シャンバラ建国の意志が、麻原の脳裏に刻印されたのは。そして、その意志の実現こそが、麻原が信徒に対して破壊的活動を指示した目的だったのです。
この破壊的活動について麻原は、ヴァジラヤーナの教義に基づく現代人の救済、すなわち「ヴァジラヤーナの救済」として説きました。現代人は悪業をなしているために必ず、来世は三悪趣に転生する。かかる現代人を救済するには、武力を用いて地球上にオウムの国家を樹立し、真理の実践をさせる以外の道はない。あるいは、「ポア」しかないと。
そして、麻原は1994年6月頃、自動小銃の製造に関する指示の際、私どもに述懐しました。
ヴァジラヤーナは、「アビラケツノミコトになれ」という啓示が始まりだった――」
神の啓示を聞くという神秘体験がオウム真理教事件の発端だというのである。
1990年4月10日ごろ、麻原彰晃は幹部たちにこんな説法をしている。
「現代人が悪業を積んでいるために、地球が三悪趣化し、宇宙の秩序が乱れている。それを我々が正さなければならない。
これから上九で培養するのは、ボツリヌス菌である。この菌が生産するボツリヌス・トキシンは、少量でも吸い込むと呼吸中枢に作用し、呼吸が停止する。そしてサマディーに至り、ポアされる。
このボツリヌス・トキシンを気球に載せ、世界中に撒く。これは、第二次世界大戦中に日本軍が行った「風船爆弾」の方法である。中世ヨーロッパでペストが流行したときは黒死病といわれたが、今回の病は白死病といわれるだろう」
広瀬健一氏は「ここで麻原は、ボツリヌス・トキシンを世界中に散布することによって、「アビラケツノミコトになれ――シャンバラの実現のために戦え――」との啓示を行動に移そうと意思したといえるでしょう」と書いている。
麻原彰晃はシヴァ神の啓示も受けている。
「「『ヨハネの黙示録』の封印を解いてしまいなさい――」
麻原は1988年秋、シヴァ神から示唆を受けたといいます。そして側近の出家者と共に、『ヨハネの黙示録』の解読作業に取りかかりました。その作業の様子が、『滅亡の日』に描写されています。
オウムはヴァジラヤーナの救済によって、世界を統治する――。
そのように、麻原は『ヨハネの黙示録』を解釈したのです。「彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう」という記述は、麻原が武力をもって諸国民を支配することを示すと」
弟子が麻原彰晃の考えを忖度して勝手に行動したわけではない。
「後に麻原は、ノストラダムスの予言書も解読し、その内容に従って教団の武装化を試みました。たとえば一九九三年、予言書の「剣」・「鮭」との記述をそれぞれレーザー兵器・大陸間弾道弾と解釈し、私ども広報技術(当時の科学班の名称)にその製造を指示しました。
このように預・予言書に従って実際に行動するほど、麻原はその内容に現実感を抱いていたのです。ですから、麻原は預・予言書の解読によって、ヴァジラヤーナの救済についての現実感を深め、そして鼓舞され、教団の武装化を推進していったのでしょう。言い換えると麻原において、実現不可能といえるこの救済のモチベーションが、預・予言書の解読によって強化されたのかもしれません」
神の啓示を聞いた教祖は、モーセ、イエス、パウロ、ムハンマド、そして中山みき、出口なおなど大勢いる。
ネットで検索すると、「神の啓示を聞いた」というので旅客機をハイジャックした牧師や連続殺人犯もいる。
神の啓示が暴力的行為をうながすこともあるわけだ。
ある意味、麻原彰晃も神秘体験の犠牲者と言える。
だけど、「アビラケツノミコトになれ」という神の啓示は、武装化による社会の支配という麻原の主張を正当化するための作り話という可能性もあるように思うが、どうなんでしょう。
「神の言葉を聞くなどという夢のような体験が、麻原のあの途轍もない行動の動機となり得るのか?」と広瀬健一氏は手記の中で問題提起をしている。
広瀬健一氏は自分の体験から、「宗教的経験は、その経験者にとってはあくまでも現実として知覚され、場合によっては、経験者の人生をも一変させるほどの影響力を秘めているのです」と説明する。
宗教的経験とは「宗教的な意味合いを包含する幻覚的な経験」、つまり神秘体験や超越体験のことである。
麻原彰晃の命令に信徒がためらうことなく従ったのは、「信徒もまた、幻覚的な宗教的経験が豊富だったから」である。
「現代人が三悪趣に転生することも、それを救済する能力を麻原が具有することも、麻原の説く教えは一切が現実でした」
だからこそ信徒たちは麻原彰晃の指示に従って「破壊的活動」を行なったのである。
植島啓司氏は『宗教と現代がわかる本2010』での野町和嘉氏との対談で、こういう話をしている。
「二、三日前、広島の厳島神社に入りました。厳島神社そのものは別にどうってことないけれど、あの裏の弥山はやはり特別な場所だなっていう印象を受けました。宇佐八幡宮の場合も、奥宮の御許神社に行くと、ああ、ここに神様が降りたんだなあって感じが残っている」
私は不感症のせいか、宮島に行ってもそういう感じはしない。
しかし、野町和嘉氏は「神道のほうはもっと、そういうミステリアスな、スピリチュアルな要素のが強いのかもしれませんね」と応じる。
そして、野町和嘉氏の「どの聖地も、1000年、2000という時間の中で、何かある種の「気」に近いものが受け継がれていったんじゃないかと思います」という話でこの対談は終わる。
こういう神秘主義的な考えは好きではない。
野町和嘉の写真集『地球巡礼』を見た。
サハラ、チベット、インド、エチオピア、メッカ、ナイル、アンデスなどの写真には圧倒された。
しかし、文句たれの私にはひっかかることがある。
それは「カルマの法則」「罪の浄化」という言葉が出てくることである。
「人っ子ひとりいない東チベットの極限高地に延びた一直線の道を、聖地ラサをめざし、五体投地で巡礼する2人の女性にはじめて出会ったとき、この人たちにとっては、信仰こそが生涯をかけた仕事であることを思い知らされた。生命から生命へと輪廻してゆく魂が解脱の境地に到達するには、苦行を重ね、何代にもわたって人間として生まれ変わって徳を積むことでしか達成されないと信じられている。悪行を重ねて餓鬼やけだものに転生してしまえば、徳を積むことは出来なくなるのだ。苦行を重ねれば重ねるほど、心はより浄化されてゆくものとチベットの人たちは信じている」
これは苦行によるカルマの浄化である。
チベット人はカイラス山の一周52キロの巡礼路を何度もまわる。
「こうして苦行を重ねることで現世で犯した罪を清め、来世でも再び人間として生まれ変わり、解脱を目標に功徳を積んでゆくことを願っているのだ」
「彼ら(チベット人)の心を深く捉えているのは、カルマの法則である。永遠の輪廻転生を繰り返しているあらゆる生きものは、前世の因果によって様々な姿に生まれ変わると信じられている」
チベットには千人以上の活仏がいる。
「儀式を主催した高位の活仏が退席したあとの椅子に殺到する信者たち。活仏の痕跡に触れることで御利益が得られると信じられている」
ベナレスで。
「人生を、前世の因果を背負った輪廻の宿業と捉えたインド人にとって、この苦痛からの解脱を明快に説いたヒンズーの教えはもっともわかりやすい道筋であった。
それは、
――ガンガーの聖なる水で沐浴すればあらゆる罪は清められ、バナーラスで死んで遺灰を流せば、輪廻の苦海から解脱できる――
というものだった」
業(カルマ)思想、六道思想、輪廻思想はインド思想の中心思想である。
これらを実体視するのは神秘体験(宗教的経験)によってである。
「オウム真理教元信徒広瀬健一の手記」を読むと、こうした考えの危険性を感じる。