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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

統一協会と既成教団との関係 1

2013年01月18日 | 問題のある考え

某氏に「テンプル」という寺院向け情報誌のコピーをもらった。
いやはや、驚くべき内容でした。
「宗教新聞」という統一協会が出している新聞があり、既成仏教教団と無関係ではない。

「テンプル」No.101(2012年3月5日号)に「カルトと宗教 『宗教新聞』の取材を許している全日仏理事会・曹洞宗宗議会のカルト認識について」という記事が掲載されている。
「統一協会が、昭和54年10月に創刊したのが「宗教新聞」である。「宗教新聞」の題字は教祖・文鮮明の揮毫と見られるもので、創刊直後の紙面には文鮮明自身が度々登場していた。同紙の社是のひとつ「地上天国」は文鮮明王国の事であるといわれている」

この「宗教新聞」に寄稿したり、名刺広告を出している教団、寺社、僧侶が少なからずあるのである。
2009年1月5日号の一面には、福山諦法・永平寺貫首「ごあいさつ」、大道晃仙・総持寺貫首「念頭に思う」、そして「曹洞宗大本山永平寺」の名刺広告が載っている。
曹洞宗だけではない。

2012年元旦号の一面には、前田外治・宗教新聞代表「唯物思想との決別を」と並んで、田中恒清・神社本庁総長「年頭のご挨拶」、加藤円住・時宗法主「ブータン国王に学ぶ」が掲載されている。


名刺広告 伝統仏教34、神道27、新宗教16

新年祝辞 伝統仏教15、神道10、新宗教8
(数字は協力聖職者、もしくは協力寺社の数)

伝統仏教を宗派別で見ると、浄土宗(8)、曹洞宗(8)、真言宗三派(7)、臨済宗(2)、日蓮系(4)、日蓮宗(2)、浄土真宗本願寺派(2)、天台宗(2)、時宗(1)、法相宗(1)、北法相宗(1)


名刺広告の中には、靖国神社宮司、石清水八幡宮宮司、鶴岡八幡宮宮司、高野山東京別院、黒住教、出雲大社教、世界救世教、国柱会、全日本仏教婦人連盟などの名前が見える。


伝統仏教教団の宗議会で宗教新聞の取材を認めているのは、「曹洞宗宗議会」「日蓮宗宗会」「真言宗豊山派宗議会」の三つ。

憂慮すべきなのが、全日本仏教会理事会である。
「事務総長が矢萩信顕師(曹洞宗)であった昭和59年2月に、全日仏は宗教新聞に理事会の取材を許可し現在に至っている。
このため、全日仏幹部の何気ない会話が統一協会に筒抜けになり、統一協会の宣教戦略に自信を与えてきた」

なぜ宗教新聞が問題となるのか。
「宗教新聞の問題点は、名刺広告が統一協会への迂回献金になる事、寄稿文やインタビュー記事が信者の勧誘に悪用される事、宗務庁舎への自由な出入りが中枢情報の漏洩をもたらす事、などである」


こうした問題があるために、全日本仏教会に全国霊感商法対策弁護士連絡会が申入書(宗教新聞を通じての統一協会への協力について)を平成24年5月29日付けで送っている。
申入書の一部です。

「宗教新聞記者(統一協会幹部)に全日仏の理事会等の重要な会議の取材に関しては、(略)今後宗教新聞記者の取材や報道は認められることをなさらないよう申し入れます」
このもっともな申し入れに対して返事はないそうだ。

「テンプル」No.113(2012年9月5日号)には、日本脱カルト協会は「統一協会の機関紙である「宗教新聞」に名刺広告を出している僧侶に対して、統一協会に弔意表明をしないよう依頼する文書を送付した」とある。

「文鮮明教祖の葬儀に日本から現職の僧侶が参列すれば、「日本の仏教界が文鮮明教祖に弔意を表している」と統一協会の宣伝に利用されるだけでなく、日本の仏教界が統一協会を認めているという「誤解」を生みかねない。
統一協会はこうした手法を信者獲得に利用し、霊感商法等の被害者を生み出してきた。日本の僧侶が統一協会に関わりをもつことは、結果として同会による霊感商法等の被害拡大に手を貸すことになるのだ」
日本脱カルト協会からの申し入れにも全日本仏教会は答えていないという。

「JCBLニュースレター」No.62によると、クラスター爆弾を製造した企業は世界で8社が確認されている。
「クラスター爆弾を製造する企業にプレッシャーを与えるために始まった動きが、クラスター爆弾を製造する企業への投融資を問題視し、金融機関に対してクラスター爆弾製造企業への投融資の引き上げを求める活動である」

統一協会による被害をなくそうと全日本仏教会や各宗派が考えるなら、クラスター爆弾製造企業に対する取り組みは参考になるはず。
ところが、全日本仏教会のある理事は「日本脱カルト協会・日弁連・家族の会は統一協会を一方的に批判しているが、宗教新聞は諸教団の動きを公平に報道しているので、理事会の取材を認めている」と言っているそうで、何を考えているのやら。

統一協会が関わっている企業はたくさんあり、私にしても知らないうちに統一協会を利することをしかねない。


森岡正博『生命観を問いなおす』3

2013年01月10日 | 問題のある考え

 生命主義のつづき
森岡正博氏はこう言っている。
「八〇年代の生命主義が展開したもうひとつの方向は、人間の「いのち」を、「癒し」の文脈のなかでとらえようというものでした。
〈社会がゆたかになっても、モノはあふれてきたけれど、人間のこころはちっともゆたかにならない。我々のこころは、この物質文明のなかで、疲れきっている。だから、疲れてズタズタになった我々の「こころ」と「いのち」を癒すことが、まず必要なんだ〉。
こういう訴えが、多くの人々、とくに都会に住む若者のこころをとらえました。
こころとからだの癒しを掲げるワークショップがたくさん開かれるようになります。
多種多様なグループ・セラピーや、気功法や、新々宗教のグループや、自己開発セミナーなどが街にあふれるようになります」

「こころ」論がアレレの展開。
やっぱり「いのち」や「こころ」をわざわざ平仮名にして乱用する人は要注意です。

 ディープエコロジーと生命主義との違い

「ディープエコロジーの基本イメージは、やはり原生自然のなかで、野生動物たちと暮らす「森の生活」です。
これに対して、生命主義の中核にあるのは、「医」「食」「農」であり、人間の生と死です」

ヒッピーのコミューンはディープエコロジー的なのか。
沖縄に引っ越して、という映画が多いが、それもこの傾向があるのかもしれない。
生命主義は、現在の生活をまるっきり変えるのは大変だけど、有機栽培の野菜を買うとか、西洋医学ではなく民間療法で病気を治すとか、そういうことならやってみようという人には入りやすいと思う。

 ディープエコロジーと生命主義の問題点

これらの思想が生み出す、甘く耳ざわりのよいスローガンを森岡正博氏は紹介している。
・自然と宇宙のリズムにあわせたコズミックなダンスをみんなが生き生きと踊るとき、世界は癒され、自然と人間は一体となる。
・ひとりひとりが真のからだとこころに目覚めるとき、我々は地球の声を聞き、大自然のささやきを全身でとらえることができるようになる。そこは、大調和とやすらぎの世界。
・いのちの声に耳をすまそう。私たちが見過ごしていたちいさな生命のひとつひとつが、大きな地球の生命のいぶきによって生き生きと生かされていることに気付くだろう。
つい「そうそう」とうなずいてしまいそう。

そういえば、宮沢賢治「農民芸術概論」の中に「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という言葉があって、ここだけなら菩薩の誓願とも言えるのだが、このあとに続く文章がちょっとなというものなんですね。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

あやしいでしょ。
宮沢賢治はニューエイジ的スローガンの元祖なのかもしれない。

森岡正博氏は、欲望と執着、闘争と排除の本能という生命の醜い面に関する思索が、ほとんどのディープエコロジーや生命主義の思想には貧弱だと指摘し、思考をストップさせた受け狙いの浅薄な思想を否定すべきだと訴える。
「ロマン主義を捨て去り、それが生み出す甘いスローガンの数々を否定し去り、そしてそのうえでなお「生命」や「自然」に立脚した思想を展開できるとき、ディープエコロジーや生命主義は、真の思想へと脱皮できるのです」

森岡正博氏が現在どのように考えているかは知らないが、ディープエコロジーや生命主義が「真の思想」になるかどうか、私は疑問である。
世界、自然、他人とのつながり(縁)に気づくことは大切ではあるが、それがどうしてニューエイジ・スピリチュアルや神秘主義や疑似科学と結びつくのかが問題で、そこらを考えないといけないと思う。


森岡正博『生命観を問いなおす』2

2013年01月07日 | 問題のある考え

 生命主義
「生命主義とは、「生命」をキーワードにして、人間社会や世界や宇宙を見てゆこうとする考え方です」

生命主義を考えるときに避けて通れないのがニューサイエンスの流行だと、森岡正博氏は言う。
80年代前半に、ニューエイジ運動のベストセラーがまとめて翻訳された。
「ニューエイジという名前は、「ニューサイエンス」と翻訳され、定着してゆきます」と森岡正博氏は言うが、ニューエイジとニューサイエンスは重なる部分はあってもイコールではないはず。

ニューサイエンスとは何だったのか、森岡正博氏はこのようにまとめている。
〈近代科学の機械論、還元論、主客二元論を捨てて、ものごとの関係性を重視した、ホーリスティックな世界観へとパラダイムシフトし、東洋の知恵に従って意識を変革し、地球と調和してエコロジカルな生を送ることで、我々は新しい次元へと至ることができる〉

日本のニューサイエンスは気とエコロジーという二つの流れへと分派したそうだ。

たとえば、「地球は生きている」というガイア・イメージを経由して、ニューサイエンス的な言説が、エコロジー思想へと流れ込んだ。

「東洋(日本)古来の知恵を生かし、西洋近代の生みだした自然破壊を食い止めることで、我々は地球を救うことができる」という言い回しがあります。これは、ニューサイエンスとエコロジーが、いかに近いものであるかを示しています。
八〇年代後半のエコロジー運動のひとつの特徴は、反原発運動と一緒になって語られた点にあります。(略)
主に主婦を中心とした反原発運動が八〇年代後半から盛んになります。
彼女たちは、言いました。「放射能は、我々のいのちへの危害であり、我々の子供たちのいのちへの危害である。さらに大自然と母なる地球への危害である」。
近代批判や科学批判と、生命主義が一体となるのです」

「いのち」という言葉を多用する反原発を訴える人がいたり、健康を守るためにと疑似科学っぽい健康法を勧める人がいて、ちょっとなあと思うことがあるのだが、こういうことかと納得。

森岡正博氏は、野上ふさ子氏が書いた文章を紹介しているが、その一部を引用。
「私たちの内なる宇宙は、外なる宇宙の姿を映し、それゆえに、私たちの生命は宇宙の生命と結びついており、私たちの生存は万物の生存と交流しあっています。今生きている私たちは、自然が生きており、宇宙が生きていることをひしひしと感じます」(『生命宇宙』創刊号1984年)

西洋近代文明を批判し、生きとし生けるものの交流に基礎をおいた、新しい文明が必要だとの野上ふさ子氏の主張は、ニューサイエンスの影響を強く受けた生命主義思想だと、森岡正博氏は言う。
野上ふさ子氏は現代の科学文明を批判し、克服する道としてアニミズムの世界に行き着く。

森岡「いのち論の特色は、いまここで生きている「私」や「あなた」のいのちの姿をもう一度見つめなおすことで、生き方が変わり、世界の見方が変わり、価値観が変わり、ひいては現代文明の矛盾の解決にも寄与することができるようになる、と考える点です」
御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」に感じるうさん臭さはこのあたりにもありそうです。

いのち論は、医療問題、エコロジー、反原発、教育問題、精神世界などをテーマにする本などに多く見られると、森岡正博氏は言う。

そういえば私もかつてはこうした考えに共感していました。
恥の記憶です。


森岡正博『生命観を問いなおす』1

2013年01月04日 | 問題のある考え

エコロジーについて書かれたものを読むと、何やらニューエイジや疑似科学と同じたぐいのあやしさを感じるものがある。
いささか古い本だが、森岡正博『生命観を問いなおす』(1994年刊)を読み、エコロジーに対する違和感はこういうことだったのかと納得しました。

 エコ・ナショナリズム
「エコ・ナショナリズムとは、自国や自民族の文化や伝統や価値観などを世界に広めてゆくことで、環境問題が解決するというふうに考える思想のことです」

『生命観を問いなおす』は、まず辰野和男編集局顧問の「地球サミットを前に」という記事(朝日新聞「座標」1992年5月29日)を取り上げている。
森岡正博氏はこの記事の要旨を次のように要約している。
〈西欧の技術文明が、環境問題を生んだ。これに対して、東洋や先住民には、「森との共生」の思想がある。それにもとづいた新しい環境哲学が必要だ〉
〈日本は自然中心主義の文化で、共生原理だった。日本は、森の思想がわかる立場にある。日本は、壮大な環境哲学を説きうるのだ〉
西洋文明は「怒りの文明・力の文明」で破壊的、東洋文明は「安らぎの文明・慈悲の文明」で自然的。
自然征服型の文化は人間中心主義で競争原理、自然一体型の文化は自然中心主義で共生原理。

森岡正博氏が教える学生のこの記事についての感想には、するどい指摘(批判です)がたくさんあるが、省略。
「日本人には独特の環境哲学がある。それを世界に向かって説いてゆくべきだ」という辰野和男の論は、アイヌや沖縄の文化をやたら持ち上げたり、アニミズムや縄文文化を絶賛し、こうした文化に学ぶことによって現在の諸問題を解決する糸口を見出すことができるように言う人がいるが、似たようなもの。

 ディープエコロジー

80年代にディープエコロジーの思想と生命主義とでも呼ぶべき思想が展開したと、森岡正博氏は言う。
アメリカを中心として、ディープエコロジーは80年代に盛り上がる。

ディープエコロジーは、我々自身のことを、有機的な全体の一部として考えます。そして、我々自身の意識の探求と、意識の変容を重視します。それは、積極的で、深い真理探求と、深い瞑想のプロセスと、深く考えぬかれた生活様式によって達成されます。そういう探求をつむことによって、我々は哲学的・宗教的な知恵を獲得することができるのです。

つまり、まず自己の探求や瞑想などを行ない、誤った近代的な世界観を捨て去ること。そのかわりに、有機的な生命世界のなかに織り込まれて存在している真の自己のあり方に目覚めること。そして、生活をエコロジカルなものに改め、調和のとれた世界を実現してゆくための直接行動に立ち上がろう。
これが、ディープエコロジーの考え方の基本です」

なるほど、シーシェパードの理論的根拠はディープエコロジーなわけか。
『12モンキーズ』に出てくる、地球環境を守るために人類を滅ぼそうとする人たちもディープエコロジストなのかもしれない。

「ディープエコロジーの思想家たちは、地球と私とを連続的なものとして考えます。
ですから、地球の危機を救うためには、まず私たち自身が変わらなければなりません。
「私が変わるとき、地球も変わる」。
こういう発想をするわけですね。(略)
私たちのものの考え方や行動パターンが変わるためには、まず、私たちがなじんできた「世界観」や「価値観」や「自然観」が変わらなければなりません。人間と自然とを分断し、自然や人間の道具としか見ない、誤った世界観を捨てなければなりません。
〈自然は、征服すべき対象ではない。人間と自然とは、そもそも一体である。人間は自然のなかで、自然にささえられてはじめて、生きてゆけるのである〉
こういう正しい世界観をいま再発見するべきなのだ、と訴えるのです。
そのためには、まず、私たちが見失ってきた「自然の声」「地球の声」を聞くことのできる感受性を取り戻し、それらと呼び合うような人間へと、意識を変革してゆき、自分たちが住む身近な地域の自然にもっと真剣なまなざしを向け、自然破壊や動物の虐待をする人に対しては、すぐに直接行動をとってゆくことが必要です」

「自分が変われば世界は変わる」はニューエイジのキャッチフレーズである。
もっともなようだけど、よく話を聞いてみるとおかしいことがあるが、これもその一つ。


石川幹人『超心理学』

2012年10月21日 | 問題のある考え

石川幹人『超心理学 封印された超常現象の科学』に、皆神龍太郎氏との対談本『トンデモ超能力入門』が紹介され、「対談の最初のほうで、皆神がより否定論者のようにふるまい、私がより肯定論者のようにふるまっただけで、後半のほうはほとんど本心に近い」と石川幹人氏は書いている。

私の読んだ感じだと、石川幹人氏は『トンデモ超能力入門』では、超能力が実在することを自信なさそうに話していたが、『超心理学』では間違いない事実だと自信たっぷりで、否定論者のネガティブ・キャンペーンで超心理学の研究が妨げられると訴えている。

米国科学振興協会メンバーへの調査では、工学者の40%、生物学者の34%、医学者の28%、物理学者の18%、心理学者の5%がESPを信じている。

アメリカの一般の人は、49%がESPを信じ、25%が幽霊を信じている。
奇術師がインチキ能力者をあばいているので、奇術師は超能力の実在を信じていないのかと思ったら、カリフォルニアの奇術師の82%が、ドイツの奇術師の72%がESPを信じているそうだ。

石川幹人氏は中学生の時から奇術の魅力のとりことなった。

高校のころ、「(ユリ・)ゲラーに触発されて超能力が芽生えたという、ゲラーチルドレンと呼ばれる日本の子どもたちには会うことができた。幸運なことに、そうした子どもたちに対する実験に立ち会い、研究者の補助をさせてもらう多くの機会を得た。(略)
ほとんどが中学生だった素朴な彼らが、私の知らない奇術のトリックを弄しているとはとても思えなかった」

石川幹人氏はNHKドラマ「七瀬ふたたび」の科学監修を担当している。
能力者へのインタビューをTBSの本間修二プロデューサーに依頼し、佐藤くんと田中さん(仮名)を紹介してもらっている。
本間修二氏と親しいということは、密閉した瓶の中に木の葉が実在化した云々の話を疑っていないということなのだろうか。
佐藤くんと田中さんは、本間修二氏がプロデュースした「ギミアぶれいく」に出ていたのかもしれない。

佐藤くんは介護の仕事をしていて、「お年寄りの体の痛みや要望が手にとるようにわかる」と言う。
佐藤くんは「ふだんは心の声が聞こえないようにスイッチをオフにしておき、能力を発揮するときだけオンに切り替える」
オフにしないまま新幹線に乗ってしまったら、「座席に座っていた人々の想念が騒音のように心に反響してきたと言う。耳をふさいでも効果がなく、しばらく辛抱するしかなかったそうだ」
田中さんは心理カウンセラーである。
「ふつうの人の心は複雑でわかりにくいけど、来談する人々の心はわかりやすいのです」
佐藤くんと田中さんに協力してもらってテレパシー(透視?)の実験をしたら、さぞかし高い正答率をえられたと思うのですが。

むむむと思ったのが、「第10章 霊魂仮説について考える」である。
イアン・スティーヴンソンは世界中の生まれ変わり事例を調査し、信憑性の高い225例の調査報告書が出版されている。

スティーヴンソンが退けた超常的解釈
1,超心理発揮説
「子どもたちが超心理的能力を発揮し、「前世」に当たる死者の状況を透視したという解釈」
2,人格憑依説
「「肉体をもたない人格」という実体を認めて、それが肉体にとり憑いて支配する」

石川幹人氏は超心理発揮説の可能性を検討したいと言う。
ポルターガイスト現象は霊魂などの仕業ではなく、八歳ぐらいの心理的に不安な少女によるPKだという考えがある。
「超心理学では、該当の少女が「自分はこのような人間だ」という観念の成立に失敗し、PK発揮によって繰り返し不適当な自己主張をしていることが、現象の源だとみている」

生まれ変わりもポルターガイストと似ていると石川幹人氏は言う。

「子どもたちが「前世」を語りはじめるのは、二歳から五歳であり、ほとんど喋れるようになるのと同時に開始される。そして、五歳から八歳まで続くと、通常、ぱたりと語るのをやめてしまう」
八歳は自我を確立する時期であり、「自我確立の過程に超心理的能力の発揮が伴う」と仮説する。
「子どもはみな、さまざまな手がかりをもとに「自分らしい自我」を創造しようとする。しかし、より簡便な方法は、模範となる他者の人格を模倣することだ。
ここで私が提示する超心理発揮仮説は、この他者模倣を、ESPを駆使して過去の生者に対して行なっていると考える。つまり、自分にはこのような母斑がある、同位置に傷を負って死亡した過去の人がいる、その人の生活や人格を自分のものと考える、といった過程が無意識に、それも超心理的能力を伴って起こる。その結果、人格が生まれ変わったかのようにふるまうという解釈だ」

しかし、2~5歳の子どもが、自分には母斑があり、過去に死んだある人も同じ母斑があったのではと、無意識にせよ推測するものだろうか。
それと、臨死状態になった人が臨死体験することはさほど珍しくない。
臨死体験が死後の世界をかいま見た現象であり、生まれ変わりの証拠だとするなら、前世の記憶を持って生まれてくる人がそこそこいてもおかしくはないと思う。

菊池誠大阪大学教授と石川幹人氏が対談した際、石川氏は予感実験について解説をした。
菊池誠氏は「未来から情報がきているようですから、やはり相対性理論に抵触しますね」と発言したそうだ。
超能力が実在したら、物理学は根底から変わらざるを得なくなると思う。

(追記)
『トンデモ超能力入門』についてもお読み下さい。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%B3%A7%BF%C0%CE%B6%C2%C0%CF%BA%BB%E1%A4%CF


『職業欄はエスパー』と『トンデモ超能力入門』4

2012年10月18日 | 問題のある考え

『トンデモ超能力入門』は超心理学についての鼎談である。
超心理学は超能力の実在を明らかにしたのか?
まえがきで皆神龍太郎氏は「超心理学の研究成果からは、人の超能力はもし存在するとしても、普段の生活で気付くこともできないほど小さな効果しかないことが判明しているのです」と書いている。

皆神「石川先生はテレパシー系の超能力現象をはじめとするESPの実在ははっきりしたけれど、PK(念力、物体移動、金属曲げ、念写、空中浮遊など)系統の実在はまだよく分からないという、そういうご認識ですよね?」

ESP系(透視、テレパシー、予知など)の実験では、確率的に有意な結果が出ているそうだ。
たとえば、数字が書かれたカードが5枚あって、裏返しにして数字を当てるとして、適当な数字を言っても、当たる確率は20%。
それよりも何%か多いと、何かあるのでは、ということになる(今はカードを使った実験はしていない)
ガンツフェルト実験といって、4枚の写真や絵のうち送り手が選んだものは何かを、感覚遮断されている受け手が当てる実験があり、偶然に当たる確率は25%だが、成功率は約32%である。

もっとも皆神龍太郎氏によると「確かな結果をつかんだんだと思うと、その効果がやがて煙のように消えてしまうというのが超心理学のお約束のパターンなのね」ということらしい。
石川幹人氏もあとがきに「かなり厳密な状況下で行った実験でわずかながらも奇妙な現象が確認されています。しかし、それは安定した現象ではなく、「超能力」と呼べるようなものかどうかはっきりしていません」と書いている。

超心理学ではどういう研究がなされているのか。
ディーン・ラディンという超心理学者のやっている実験。
石川「クモの絵とかヘビの絵とか見るとギョッとしますよね。そのギョッとする3秒くらい前から生理的な変化が出ていると。ウサギの絵だとギョッとしないんで、ヘビが出るかウサギが出るか分からない状態にして、画面を見ている。その間の皮膚電位とか生理状態とかを測定するんですよ。そうすると、ずっと調べるとヘビが出る3秒くらい前から信号の変化が出るんです」
つまり予知である。

小久保秀之氏のキュウリを使ったヒーリング効果の実験。
「キュウリに手をかざしてしばらく放置し、かざしていないものと比較するとしなびる速度が遅くなるというもの」
超能力といっても、せいぜいそういうささやかなものらしい。

皆神「テレパシーで世の中のことが何でも分かっちゃったり、サイキック能力で物を宙に自在に飛ばせちゃったりとか、そういうことが可能だと思いこんだ人がたくさんいたんでしょう。本当にそんな派手な超能力現象が存在してくれていれば、今さら「超心理のあるない論争」なんてやっているわけがないと思うんですよね」

超心理学の知見だと、高橋つくしちゃんが密閉した瓶の中に木の葉を実体化したような「派手な超能力」という現象はないらしい。

皆神「そもそも、何で「超心理現象を調べよう」って最初に思いついたのかというと、「超能力は実在する」という強い思い込みが先にあったからだと思うんです。でも今、超心理学の結果によれば、万が一、超能力が実在するとしても、それは人が気づけないほど小さい効果にすぎない、ということなわけですから」
石川「実験してでるのはそうですね」

それにしても、森達也『職業欄はエスパー』に登場する人たちが嘘をついているとは思えない。
真実は何なんでしょう。


『職業欄はエスパー』と『トンデモ超能力入門』3

2012年10月14日 | 問題のある考え

森達也『職業欄はエスパー』にこんなことが書いてある。
森達也氏は、清田益章氏が切断したスプーンの折れ口(切り口のはず)に柄の部分を近づけると、スプーンの先端が微かに動いたような気がした。
清田益章氏は「ああ、磁力を持つみたいだよ」「折れた後はしばらく引き合うんだよ」と言う。
磁力が発生しているとしたら、調べたらわかるはず。

ところが、清田益章氏によると科学者は研究してくれないらしい。
「前々から大槻先生には、俺を実験材料にしてくれてかまわないから、ちゃんと測定してくれって言ってるんだよ。大槻さんの望む場所で望む実験方法で、とにかく徹底的にやりましょうって。何ヵ月かかってもかまわないよ。ギャラもいらないよ。脳波でも何でも好きなように測定してもらっていいですよって何度も言ってるんだよ。そのうえでやっぱりこれはトリックだって確証が持てるのならメディアにそう言ってもらってかまわないからってさ。だけど俺がそう提案するたびに、あの人はテレビカメラがないと意味がないとか、また今度ねとか、いつもちゃんとした返事くれないんだよな。本当にきちんと実験ができるのならいい機会だよな」
頭から否定するだけで、ちゃんと調べないのだとしたら、これは科学者のほうに問題があるのではないか、と誰しもが感じる。

でも、皆神龍太郎・石川幹人『トンデモ超能力入門』を読むと、ちょっと違ってくる。
この本は皆神、石川両氏と編集者の鼎談。
超能力のトンデモさをあげつらった本ではなく、題名を『超心理学入門』とでもすべき内容である。
石川幹人氏は明治大学教授、超心理学の研究者で、超能力肯定派である。
皆神龍太郎氏は懐疑派。

否定派と懐疑派はどこが違うのか。
懐疑論者「本当のことを知りたいから、理解できるまで、できる限り真摯に対話をしていきたいという人種」
否定論者「相手の主張もまともに研究せずに「そういうことはあり得ないんだ」みたいなことを主張する人々」
私は否定派です。

で、清田益章氏のことである。
生徒(編集者)「清田君とかはどうなんですか?」
石川「ああ、清田君は友達ですよ」
皆神「そうなんですか!(笑) 石川先生は清田君がスプーンを曲げるところを見たんですか?」
石川「見ましたけどねぇ。個人的体験を述べてもいけませんから」
ん? この微妙な発言はどういう意味でしょう。

清田益章氏をめぐるこんな会話もある。
石川「また研究フィールドに戻って来て下さいって研究者みんなでいっているんですけど……」
皆神「清田君はもう研究協力みたいなのは全然しないんですよ?」
石川「「脱・超能力者宣言」してました。(略)なんとか引き戻したいんですけどねぇ」
皆神「(小声で)もしかしたら、帰れない大人の事情があるのかもしれませんよ」
石川「(小声で)インチキだから?」
皆神「いやいや、そこまで僕はいわない」
れれれ、研究者は清田益章氏を「実験材料」にしたけど、実は「インチキ」だった、ということですか。

超心理学ではスプーン曲げをどのように考えているのか。
皆神「超心理学者の中でスプーン曲げをまともに認めている人なんて、ほとんどいないんじゃないですか?」
石川「スプーン曲げはそうですね。超心理学の実験では通常行われません」
石川幹人氏は「超心理学者の中でも、念力はないんじゃないかと考えている人も結構います」と語っている。
『職業欄はエスパー』とはずいぶん話が違っている。

ついでに書くと、『職業欄はエスパー』に綾小路鶴太郎という、奇術師もどうやってスプーンを曲げたのかわからない腕前の持ち主が人物が出てくるが、皆神龍太郎氏はこう言っている。
「スプーン曲げっていうのは、ユリ・ゲラーの頃は親指と人差し指で首をちょっと触るだけで落とすっていうのが暗黙の了解だったはずなの。ところが、今はスプーンの端と端を持ってしまってもいいことになっていて。それじゃもはや超能力じゃないだろうって(笑)。「長野曲げ」って呼ばれているんだけど、長野にいた綾小路鶴太郎っていうスナック店主のオジサンが最初にそういう技を始めてから、そうしてもいいことになちゃった」

清田益章氏の念写については、皆神龍太郎氏はこんな話を紹介している。
『デジャーヴュ』という雑誌で念写の特集が組まれたとき、荒俣宏氏が超能力があるかどうかを調べるのではなく、超能力による念写をアートとして扱いたいので、アート的な光をフィルムに映し込んでくれるように清田益章氏に依頼した。
皆神「でもね、そのときにさすがと思ったのは、荒俣宏は、持って行ったポラロイドカメラのフィルムの番号を事前にちゃんと控えておいたんだ。清田君は何度も失敗した後に、念写に成功するわけなんだけど、その成功したときのフィルム番号を見てみると、事前に用意したものじゃない。誰も気がつかないうちに、フィルムが入れ替わっていたというわけ。最後に清田君が「ちぇっ、俺も持ってきたフィルムじゃ、信用されないよね」とかつぶやいて、その記事は終わってましたね」
『職業欄はエスパー』を読んで感じた清田益章氏のイメージが壊れてしまった。

ちなみに石川幹人『超心理学』では、能力者に密着して取材し、能力が現れる現場を記録することにある程度成功したのが「職業欄はエスパー」(本ではなく、テレビ・ドキュメンタリーのほう)だと評価している。

「各人(秋山眞人、清田益章、堤裕司)の映像に現れる、超能力発揮に対する冷めた態度、あきらめにもとれる達観した姿勢から、彼らと社会を隔てる「見えない壁」の存在が感じとれる」
「ドキュメンタリー「職業欄はエスパー」は、能力者を自称する人々の孤独と苦悩を浮き彫りにすると同時に、彼らの特異な視点から社会を見ることで、逆に私たちは社会の特異性に気づかされる」

本当のところ、石川幹人氏は清田益章氏を能力者だと思っているのだろうか。


『職業欄はエスパー』と『トンデモ超能力入門』2

2012年10月11日 | 問題のある考え

森達也『職業欄はエスパー』は三人の超能力者に取材している。
ダウジングの堤裕司氏は「自分は超能力者ではない」と言う。
堤裕治氏によると、ダウジングとは地下の水脈や鉱脈を樹の枝で見つけるというだけのものではなく、ダウジングは技術なんだそうだ。
「すべての物質が持つ波動や固有のエネルギーなどの情報を潜在意識が感知して、それが腕の筋肉に伝わり、振り子の動きに増幅されるという理論だ。
つまり、地面の下の水脈や鉱脈が発散する波動を、自身の精神と肉体を媒介にして表出するわけだ」

「〝万物には固有の波動があり、人間の潜在意識はその波動を感知している〟という法則を前提とするダウジングの基本理念は、確かに感覚的にはある程度の説得性はある。しかしダウジングで的中できることは水脈や鉱脈の所在だけではない。人の感情や未来のことまで、基本的には答えられない質問はないと堤は断言する」

森達也氏がタバコの箱を隠したら、堤裕司氏は振り子でタバコがどこにあるかを当てた。

「巷に言い伝えられる霊現象というのも、僕は場に残された一種の意識エネルギーの現象であると考えます」
森達也氏はこう書く。
「ある程度の説得性はある。そして視点を少しずらせばこれ以上ないほどにオカルトだ」
そして、幽霊の出るというスポットをテレビ取材している途中に、森達也氏は体調を突然崩す。

びっくりしたのが、TBSのプロデューサー本間修二氏の話。
本間修二氏は1990年代前半、普通の子供たちが練習によってスプーン曲げや透視などの超能力を獲得する経緯を記録した番組をプロデュースした人。
中国の超能力者を取材した時、超能力の授業がある長春の小学校に行く。
「小さな紙に字を書いて、それを丸めて子供たちに握らせるのだけど、ほとんどの子供たちが握り拳を開かずにその字を当ててしまうんです」
それで、日本から6人の子供を中国に連れていって、その授業に参加させた。
「で、結果は?」
本間「驚きました。中国に行く前にも日本で実験したのだけど、まあ当然というかまったく的中しなかった。それが長春の小学校で、中国の子供たちがどんどん当てている状況に放りこんだら、まるでスイッチが入ってしまったみたいな感じで、みんなどんどん当たりだしたんだよね」

小学校4年生の高橋つくしちゃんの能力は群を抜いていた。
本間「途中から秋山さんも子供たちの合宿に参加してもらって、いろいろ実験をやったんです。密閉した瓶の中に何かを実在化してみようみたいな実験をやっていたら、秋山さんが手にしていた瓶の中に木の葉が現れましてね。間近で見ていたからあれは衝撃でしたね。
そのときはね、それを見ていたつくしちゃんがやっぱり同じように瓶の中に葉っぱを実在化してね。それもしっかり撮れたしね」

ところが、番組では放送しなかった。
本間「……どう言えばいいのかなあ、怖くなったんですよね」
以前、視聴者からのクレームがものすごくあった。
本間「その瓶の中の葉っぱが現れるというものすごい映像をオンエアしたとき、いったい何が起きるのだろうと考えた……怖くなったという感覚かなあ。うまく表現できないのだけど」
超能力のあるなし論争はこれで決着するはずなのに、と思うのは甘いのだろうか。


『職業欄はエスパー』と『トンデモ超能力入門』1

2012年10月08日 | 問題のある考え

私は超常現象否定派である。
認めたくないという気持ちが強いが、それは地動説を否定した異端審問官と似ているかもしれない。
自分の信じていた世界が根底から覆されることを恐れるといった気持ち。

スプーン曲げの清田益章、UFOなどの秋山眞人、ダウジングの堤裕治の三人の超能力者を被写体にしたドキュメンタリーを、森達也が1993年に企画し、1998年に番組が放送された。

そして、番組を基にした『職業欄はエスパー』が出版されたのは2001年。

『職業欄はエスパー』を読むと、この三人のエスパーや関係者が嘘をついているとは思えない。
ひょっとしたら本当なのかと、否定派の私は動揺してしまった。

超能力を「信じる」「信じない」という二者択一を迫られる。
しかし、ある・なし論争は不毛だ、と森達也氏は言う。
森達也氏は死刑問題やオウム真理教についても同じことを言っている。
だけど、読み進むにつれ、森達也氏が超能力者に心を寄せて肩入れしていることが明らかになり、超能力に懐疑的な人たちに批判的だということがわかる。

清田益章氏の両親は清田氏が子供のころ、カウンターに置いたスプーンがひとりでに曲がったり、隣の部屋の玩具が壁をすり抜けて来たり、清田氏がテレポーテーションらしきことをしたと語っている。
両親は嘘をついているようにも、また目立ちたいから言ってるとは思えない。

1976年、アメリカの火星無人探査機バイキング一号が火星に着陸して、火星の写真を地球に電送したのだが、その時に清田益章氏は火星に行ったという。
清田益章氏は地表探査機のカメラの前で手を振り、砂に「2B」という文字を書いた。
本人は「夢の可能性もあるからな」とは言うけれども。
森達也氏はこう書いている。
「率直に書く。僕にはお手上げだ。仮に嘘だとしたら、常に神経質なほどにリスクと他者の視線を自覚している清田が、こんな割の合わないフィクションを捏造するはずはない。ならば真実なのか? 僕にはわからない」
こういう書き方をされると、ひょっとしたら本当なのかという気がしてくる。

秋山眞人氏は、一円玉を何枚か額にのせて、4枚がひっついたまま落ちない超能力を見せる。
これはともかく、今まで宇宙人には400回ぐらい会っているそうだ。
秋山眞人「地球に今来ている宇宙人は三種類なんです。ひとつはグレイといいますけど、爬虫類が進化したタイプです。よくSF映画なんかにも出てくる、眼の大きな皮膚に光沢のあるあの感じですね」
「もうひとつはヒューマノイド・タイプ。今地球上ではいちばん数が多いし、僕に頻繁に接触してくるのもこのタイプです。(略)
僕が頻繁に会うヒューマノイド・タイプは、外見は地球人とまったく変わりません。骨格や筋肉を多少は変えられるようですね。名刺も持っているし家族もいるし保険証も持ってます」
もうひとつは巨人族。
「大きいんです。身長は四メーターから五メーターぐらい。これは地球で言えば犬が進化して二足歩行になったタイプです」
秋山眞人氏は静岡駅地下街の「草苑」という喫茶店で何人もの宇宙人と会った。
「彼らは僕自身が『会いたい』と望まなければ絶対会いに来ません。つまり、こちら側の怖れが助長されるというか大きくなることを非常にいやがるんですね」

こんな話を聞かされたら、たいていの人は一歩引いてしまうと思うが、森達也氏はどう思ったのか。
「草苑」という喫茶店は宇宙人の溜まり場になっていたという。
ところが1980年、静岡駅地下街でガス爆発事故があり、「草苑」も吹っ飛んでしまった。
「じゃあこれは、グレイの陰謀?」
秋山「わかりません。可能性はあると思うけど」
『職業欄はエスパー』には、静岡駅地下街ガス爆発事故のことを細かく紹介されており、陰謀説に説得力があるように思わせている。

秋山眞人氏は、宇宙人と会いたいと言う現代グループの会長と食事していたときに、宇宙人に念を送ると目の前に石が落ちてきた。
調べるとイエローダイヤだったという。
秋山眞人氏はいろんな会社のコンサルタントとして相談に乗っているそうだ。

でも、集合無意識の例として、百匹目の猿やグリセリンの結晶化を秋山眞人氏はあげているのはどうか。
「かつてはかなりの低温でも決して結晶化しなかったグリセリンが、欧米のある実験室で突然結晶化を始めたその瞬間、世界中でグリセリンの結晶化が始まったのです。有名な実話です。これは最早、モノにも集合無意識が存在しているとでも仮定しなければ説明できない現象です……」
しかし、百匹目の猿もグリセリンの結晶化もライアル・ワトソンが広めた与太話である。
ちょっと調べたら間違いだとすぐにわかることなのに、相手の言い分だけを紹介する森達也氏のやり方こそ問題があるのではないかと思う。


櫻井義秀『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』5

2012年09月09日 | 問題のある考え

インチキ宗教にだまされているとしても、本人がそれでいいと思っているのなら、はたの者があれこれ言うべきじゃないという意見がある。
たとえば、サラ金から借金をして某宗教に何百万円かの寄付をした人がいて、本人が「某宗教に救われた」と言っているのだからそれでいいのか。
北朝鮮でもそうで、国民が苦しい生活を強いられていても、幸せと思っているのならそれでいいのか。
だまされていることを教えてやるべきか、本人の好きにさせるべきか。

櫻井義秀『霊と金』にそのことについて書かれてあった。
「このような問題点に対して、「ヒーリング・サロンで効用があったと納得している顧客もいる以上、神世界を違法なヒーリング商法をなす団体とみなすことはできないのではないか」という現在の顧客や、一般読者の方もおられるかもしれない。(略)「当事者が納得しているのならばいいではないか」という論法は根強い。(略)
副作用を訴える患者が続出する薬を使い続ける医師や製薬会社、或いは中毒症状を訴える市民が出るような食品を販売し続ける会社が社会的に許容されるだろうか。「治った」という人がいれば、治らずに症状を悪化させた人がいてもそれで良しとされるだろうか」

客観的に見て明らかに問題があるのに、マインド・コントロールによっておかしいとは思わなくなることがある。
マインド・コントロールとは、相手のビリーフ・システム(信念体系)を変容させることで、相手を自分の意のままに動かすことである。
本人がだまされているという自覚がなく、それで満足しているのは信念体系がマインド・コントロールによって十分に変容しているからである。

マインド・コントロールが解けて、それでも「かまわない」というのであれば、本人の自由かもしれない。
だけど、そういう人はいないんじゃないか。
統一教会の被害者が「青春を返せ裁判」を提訴したように、普通は腹が立つし、だまされる人がいなくなるよう行動すると思う。

マインド・コントロールとは違うかもしれないが、『霊と金』に、強烈な心理的圧力をかけずにソフトなお願いだけで、どのようにして献金させることができるのか、ということについて書かれてある。

統一教会の信者たちは統一教会特有の用語と論理を共有しており、一つの言語に一つの感情、一つの言い回しに一つの論理が自動的に連結するようになる。

だから、救済のキーになる言葉を語ることで献金させることができるそうだ。
「統一教会の論理だけで回る生活が長期に及んだ一般信者や、祝福家庭を形成した家族は、統一教会の思考の枠から抜け出すことをおそれ、自縄自縛の状態が継続するのである」

山本直樹『ビリーバーズ』というマンガはオウム真理教などをモデルにしているが、ある団体の3人の会話は他では通用しない、内輪だけの言葉の羅列である。
連合赤軍に山本直樹氏は触れているが、連合赤軍事件の手記を見ても、「共産主義化」とか意味不明の言葉を大切にしている。

すぴこん(スピマ)でのスピリチュアル・ビジネスを信じる人がいるのは不思議だが、これも統一教会やオウム真理教、連合赤軍などと同じことで、スピリチュアル業界でしか通用しない言葉、論理にずっぽりとはまっているために、おかしいとは思えなくなっている。

そのことがスピリチュアルに批判的な意見に耳をふさがせ、スピリチュアルの仲間から離れることができなくさせているのではないかと思う。

櫻井義秀氏は20人以上の元統一教会信者に聞き取り調査を行っている。

「彼らが比較的明確に回想できるのは、入信前後から統一教会員として自覚を深めるまでの期間と、宗教活動に疑問を抱き脱会して、その後社会復帰するまでの期間である」
統一教会にはまり込んでいる時は、自分で考える余地もなければ、その必要もないから、その間の記憶が曖昧になるらしい。
「もっと言えば、被害を受けた人達の記憶ですらこのように曖昧になっているのだから、加害の側にあって霊能師の役割を演じて何十人、何百人相手に因縁の話を説いてきた統一教会信徒の記憶も実に曖昧なものである」
加害者もマインドコントロールされているわけで、被害者だと思う。
となると、誰の責任になるのでしょう。