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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

倉塚平『ユートピアと性』(1)

2015年05月23日 | 問題のある考え

倉塚平『ユートピアと性 オナイダ・コミュニティの複合婚実験』はフリーセックスのユートピアについて書かれているとどこかで読み、図書館で借りました。
『ユートピアと性』によると、オナイダ・コミュニティはいわゆるフリーセックス、自由恋愛が認められていたわけではなく、セックスのコミュニティ管理を実行していたとのことです。
まとめてみましょう。

ジョン・ハンフリー・ノイズは1811年生まれ。
1848年にニューヨーク州北部のオナイダ湖の近くの農場で、信奉者である数百人のキリスト教的完全主義者たちと共同生活を営み、コミュニティは1879年に崩壊するまでの31年間存続した。

ジョン・ハンフリー・ノイズは次のような考えを説いています。

キリストの説く隣人愛の教えとは、万人を区別することなく愛することである。特定対象に愛を集中することは独占的所有欲から発するものであり、差別と不和と分裂を生む悪魔の業に等しい。さらにこの無差別的隣人愛は、たんに精神的レベルに止まるべきではなく、肉体的レベルにまで及ばなければならない。なぜなら神は性の交わりに二種類の機能をお与えになったからである。すなわち生殖という劣った機能と人を愛するという優れた社会的機能である。留保的性交によって受胎を避け、後者の機能のみを発揮しつつ、コミュニティの各人はその異性のすべてと愛の交わりをしなければならない。それは無私の精神から発するものであり、罪から解放された完全主義者がまさしく地上に天国をもたらさんとする行為なのであると。


言葉の説明をしますと、「完全主義者」とは、罪を犯すことのない信仰者になったと称する人。

完全主義者は完全な社会を求め、地上における天国を求め、社会改良運動に乗り出し、悲惨な境遇にある人たちが罪を犯すことのないように社会を改善しようとした。
中には、ユートピア建設によって黄金時代の到来を目指す人たちもいた。
完全主義者は罪から解放されているので、何をしてもいいということになる。

「留保性交」とは、妊娠することを防ぐために、性交はするが射精しないという、ノイズの大発見。

そもそも男は霊的にも女の上に立つ存在であるが、その理由の一つとして自制心があることである。女をなんどもオルガスムに達しさせてやり、しかも自分はそれに達するのを我慢してこそ、神がその似姿として作り給うた者にふさわしい。

接して漏らさずということらしいです。

性交それ自体は自然な行為で飲食と同様恥ずべきものではない。いやそれどころか、愛という崇高な目的に奉仕する。神はそのためにこそ男女の性器を作られたのだから、それを使用しなければならない。

ほほ~という教えですが、オナイダ・コミュニティではフリーセックスや乱交を認めていたわけではありません。

ノイズの複合婚は厳しいルールと規律に基づくコミュニティ管理下のセックスであった。

央委員会の管理下に置かれ、淫乱な行為は厳しく排除されたし、ある特定パートナーと継続的に交わることはスペシャル・ラブとして許可されなかった。彼らはこの性的関係を複合結婚と呼んだ。


複合婚を成り立たせた前提を倉塚平氏は3つあげています。
1 留保性交の厳格な実施
のちに妊娠、出産が認められますが、男女の組み合わせも管理しています。

2 スペシャル・ラブの禁止

母性愛、夫婦愛、家族愛を否定し、一夫一妻制は奴隷化の制度と見なした。
夫婦関係は加入と同時に解消され、男女二人だけの排他的な恋愛はスペシャル・ラブの名のもとにエゴイズムとして糾弾され、引き裂かれた。
親が自分の子をとくに可愛がることもスペシャル・ラブとして批判された。
男女の愛、親子の愛、友情といった、特定個人に対する愛はコミュニティを崩壊させる最も強力な力として働くからである。

3 組み合わせの上長者優位

男の子は13歳~17歳で複合婚にイニシエートされるが、20歳ぐらいまでは更年期後の女性としか交わることを許されなかった。
ある調査では、コミュニティで育った女性がイニシエートされた年齢は、10歳1名、12歳7名、13歳8名、14歳4名、15歳2名、18歳1名で、初潮年齢と同じ。
初潮が始まるとイニシエートされた。
イニシエートしたのは、ノイズがコミュニティにいるときはいつも、ノイズが外に行っているときは側近の2、3の者が行なった。

ノイズは性交に神の生命の霊を媒介伝達する機能を認めた。

神の霊に捉われる二度目の回心体験を得るために「霊の人」との性交を通じてその霊を伝達してもらわなければならない。


1869年から優性主義思想による出産が認められた。
カップルはノイズを中心とする中央メンバーが決めたが、カップルの関係は永続的なものではない。
ノイズはというと、8~10人の子供の父親になった。

1879年8月、複合婚を廃止。

1881年1月、有限会社に組織替えした。
ノイズはナイアガラの滝の近くにある豪邸で優雅な余生を送り、1886年、この世を去った。
何ともうらやましい人生です。

オナイダ・コミュニティは巨大な株式会社に成長し、1987年の売り上げは2億6800万ドルとのことです。


「心のノート」

2014年10月24日 | 問題のある考え

ずっと以前に書いたものです。

西鉄バスジャック事件で重傷を負った山口由美子さんの講演を聞いた。
その中で山口さんは、以前は河合隼雄が好きだったが、「心のノート」なんかを作ったりするので嫌いになった、ということを話され、思わず笑う。
私も河合隼雄が嫌いになった一人だから。

河合隼雄文化庁長官が中心となって作った「心のノート」は、文部科学省が全国の小中学校に配布している副読本である。
「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す」(西村真悟衆議院議員)ために教育基本法を改正しようという動きとつながっている。

私が河合隼雄を嫌いになったのはそういうことからではなくて、ニューエイジかぶれだからである。
「心のノート」にもニューエイジの影響があって、「心のノート」5,6年生用に、

わたしたちを生かす自然は不思議な摂理につつまれている。
目に見えない神秘の世界がある。
人間の力を超えたものがある。

という文章があるんですね。
袴谷憲昭『仏教入門』(入門書とは思えない高度な内容だが、一読三嘆のオススメ)には、

「心のノート」の「心」とはおそらく仏教が否定したアニミスティックな「霊魂」とは無縁のものではないだろう。

と書かれている。
すなわち、ニューエイジと保守反動が手をつないでできたのが「心のノート」ということでなのか。
そういえば船井幸雄もニューエイジと保守反動のごった煮です。

河合隼雄の『宗教と科学の接点』という本も、れれれと思うおかしいところが多々あり、しかしあの河合隼雄先生が書いているんだから私の思い過ごしかと思いました。
「心のノート」は極めてうまくできた本で、予備知識がなしに読んだなら、これまた一読三嘆したかもしれない。
お恥ずかしいことです。


児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(4)

2014年04月24日 | 問題のある考え

「安楽死」「尊厳死」「平穏死」、いずれもこれこそが人間らしい死に方だというような、いいイメージを与える言葉である。
でも、なぜこういう死に方を選ぶのかというと、「まわりに迷惑をかけてはいけない」などと洗脳され、自ら命を絶つことを選ばざるを得ないように仕向けられているからではないか。

尊厳死は終末期ということに今のところはなっているが、認知症、植物状態、障害者、さらには死にたい人にまで対象が広がっているのが実情だということが、児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』にで紹介されている。
尊厳死の法制化を進める側の狙いは、福祉・医療費の削減(つまりは切り捨て)と移植用の臓器の確保だと思う。
法制化はその後の社会のあり方を方向づけると児玉真美氏は言う。

たとえば、臓器移植法によって、運転免許証と健康保険証の裏面でも臓器提供の意思を表示でき、普及啓発、記入促進のためにパンフレットやポスターが作られ、運転免許センターや薬局なども協力している。
で、結構なことだというので、「移植のために臓器を提供します」に○をつけるようになる。

児玉真美氏は、終末期医療の問題を批判するなら、医療のあり方を変えようと医療の側に提案すべきなのに、なぜか患者や家族に尊厳死・平穏死という死に方を選べと、まわりから圧力がかかると言う。
出生前遺伝子診断によって中絶する人が増えているのも、有形無形の圧力と無関係ではないと思う。

今後さらに遺伝子診断で分かる病気の数が増えていけば、そうした病気や障害に対する支援を社会がこれまでどおりに行うだろうか、遺伝子診断を受けることを選択しなかった親が、無責任だと道徳性を疑われたり非難を受けるようなことは起こらないだろうか。(アーサー・カプラン『障害者がいなくなった世界はベターな場所ではないかもしれない』)。

そこには強者の論理があると児玉真美氏は言う。
管理する側とされる側、科学技術の恩恵にあずかる側と犠牲に供される側。

「死にたい」と望む人に、「死にたいと言うなら死なせてやればいい」「だから安楽死は合法化すべきだ」と結論を急ぐのは安易すぎる。
どんな人であろうとも、死んでいい人などいないのだから。
苦しみや絶望の中にある人に社会で支え、適切な支援の提供をすべきである。

日本弁護士会の会長声明でも、尊厳死法制化の検討の前に、適切な医療を受ける患者の権利やインフォームド・コンセント原則など患者の権利の法制化と、緩和ケア、在宅医療・介護、救急医療などの充実が必要だと訴えている。

児玉真美氏は、議論されるべき問題はいかにすれば終末期を苦しくないものにできるかということであるはずだと言う。
延命治療か尊厳死かの二者択一ではない。
「死にたい」と望む人に安楽死や自殺幇助で応じ、長期の介護者に「これ以上どうにもできないというなら、死なせても殺しても大目に見てあげよう」と目をつぶる社会になろうとするのか、それとも「苦しければ助けを求めてほしい」と呼びかけ、支援する力を蓄えた社会であり続けようとするのか。

もしも「どんな状態になっても、最後まで痛くなく苦しくなく怖くなくする」、「たとえ訴える言葉を失っても、あなたの声なき声を聞こうと耳を傾け続ける」、「あなたに背を向けて無関心へと立ち去ることは絶対にしない」と約束してもらえるなら、その人たちは「生きられるだけ生きてみようか」と思えるのではないだろうか。

母親がスイスで自殺幇助によって死のうとするという話のステファヌ・ブリゼ『母の身終い』のHPを見たら、樹木希林氏が

私はもっとジタバタするし、ジタバタして逝くのを見せることも私の役割だと思ってます。

というコメントを寄せている。
私は断然こちらを選択したい。

元気なときだったら、家族で話し合うと「延命治療はやめよう」という話になる。
しかし、医者から「どうされますか」と聞かれる事態になったとき、「何もしません」と言えるかどうか。
簡単に割り切る人間より、どうしたらいいのかと葛藤する人に私はなりたい。


児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(3)

2014年04月19日 | 問題のある考え

ジョディ・ピコー『私の中のあなた』は、白血病の姉のドナーになるために生まれてきた女の子が主人公の映画。
マーク・ロマネク『わたしは離さないで』は、ドナーになるためにクローン人間として生まれてきた子供たちの映画。
どちらも臓器を提供する道具として人間を見ているので、後味がすごく悪かった。

児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』によると、『私の中のあなた』はSFではなく、「救済者兄弟」といって、臓器移植を必要とする子供のために遺伝子診断技術と体外受精で生まれてきた子供がいて、世界で初めて「救済者兄弟」が生まれたのは2000年だという。

『死の自己決定権のゆくえ』の冒頭に、ニューヨークの葬儀屋が遺体から使用可能な皮膚、骨、腱、心臓の弁などを採っては、元口腔外科医が経営するバイオ企業に流していたり、2006年のパキスタン大地震の際、臓器泥棒が逮捕されているということが紹介されている。
尊厳死(自殺幇助も含む)は臓器移植と関係がある。

一定の条件下で医師による積極的安楽死または自殺幇助を認める法律があるのは、3カ国とアメリカの3つの州である。
スイスには国内に1年以上在住した人を対象とするエグジットなどの自殺幇助機関や、外国人も受け入れるディグニスタスという施設がある。
エグジットなどの自殺幇助機関を利用して自殺したスイス在住者は2009年では300人近く、ディグニスタスで1998年から2011年の間に幇助を受けて自殺した人は1298人。
ラグビーの試合中の事故で四肢マヒになった選手(23歳)、本人は健康でありながら末期がんの妻と一緒に自殺した指揮者(85歳)、「老いて衰えるのがつらいから」という理由で自殺した人(84歳)など、終末期ではない人も含まれている。
実際に自殺幇助を受けるまでの費用の合計は6300ポンド(約100万円)。
チューリッヒ州は自殺ツーリズムを規制しようと住民投票をしたが、4分の3以上が規制に反対した。

オランダでは安楽死が合法化されており、2011年のオランダの安楽死者数は3695人、前年から559人も増加している。
認知症にも積極的安楽死が行われている。
また、安楽死に特化したクリニックが活動を始め、開始10カ月で約600の要請があり、81人が安楽死した。
希望者は主として終末期の病状の人、慢性的な精神障害のある人、初期の認知症の人になると予測されている。
さらには、70歳以上の人は、生きるのが嫌になったから死にたいと自己決定できることを認めるよう、運動が行われている。

日本も見習うべきだと言う人がいそうだが、当然のことだが問題がある。
オランダには25歳以上の重症脳損傷患者専門の治療機関が存在しないし、安楽死合法化によって専門医が国外に去って、緩和ケアが崩壊している。
希望する治療を受けることができず、緩和ケアも存在せず、残された選択肢の中に自殺幇助や安楽死があるのだから、自ら死を選ぶしかない事態になる。

尊厳死法案では、尊厳死の可否には2人以上の医師の判断が必要である。
しかし、高度に専門的で複雑な判断を下すには、どのような専門知識と経験のある医師であればよいのか。
また、医師の世界の上下関係の中で、2人目の医師の判断に独立性が担保できるのか。
自分と同じ考え方の医師を見つけてくればいいだけということにならないか。

アメリカのオレゴン州とワシントン州には「尊厳死法」があるが、ここでいう「尊厳死」とは医師による自殺幇助である。
精神障害のある人に十分なアセスメントなしに致死薬が処方されている、致死薬を飲む場に医療職が同席していない、かぎられた医師が多数の処方箋を書いている、自殺幇助合法化ロビーが関与しているケースが多いなどの問題が明らかになっている。
うつ病など精神障害によって自殺を希望している懸念がある場合、精神科に紹介することが求められているが、オレゴン州の自殺希望者の4人に1人はうつ病や不安症だったとのデータがあるにもかかわらず、精神科に紹介されたケースはほとんどない。
あるいは、致死薬を飲む際に医者が同席しないと、患者が自分の意思で飲んだのか、金銭問題など利害関係にある家族に飲まされたり、飲むようにそそのかされたとしてもわからない。
オレゴン州で活躍中の医師は約1万人で、そのうち致死薬を処方したのは1%の医師。
しかも、2001年から2007年に書かれた処方箋271件のうち、61%は20人の医師が書き、23%は3人の医師によって書かれていた。

『死の自己決定権のゆくえ』を読んで、こういう状況だということを知ると、日本では国が自死対策を行なっているのに、尊厳死という名の自殺・殺人を認めようというのはあまりにもおかしいと思ってしまう。

安楽死について重要な問題が2つ指摘されている。
1、意識のない成人重症者や新生児や子どものケースで、患者本人の意思表示なしに「必要性のケース」というカテゴリーを持ち出して安楽死が正当化され始めている。
2、安楽死が臓器提供とつながる。

『死の自己決定権のゆくえ』によると、ベルギーでは安楽死の要望書には臓器提供承諾書が一緒についており、すでに未成年への積極的安楽死が日常的に行われている。

OPO(臓器獲得組織)職員は、重症脳損傷の患者をどうせ助からない患者とみなし、患者が集中治療を受けている段階からOPO職員が家族に接触し、臓器提供に向けた働きかけ(ハゲタカのような振る舞い)が行われている。

「デッド・ドナー・ルール」といって、ドナーに死亡宣告が行われた後でなければ臓器を摘出してはならないという鉄則がある。
そのため、脳死に至っておらず、治療を続ければ生き続ける人から人工呼吸器を取り外すなどして人為的に心臓死を引き起こし、数分間待ってから臓器を摘出することが行われている。
脳死でなくても、甚大な脳損傷からも臓器摘出を認めるべきだという意見もある。

安楽死・尊厳死による臓器の提供は法律に触れないし、救済者兄弟やクローン人間のように手間がかかるわけでもない。
ただし、それは人間のモノ化につながってくる。

尊厳死をめぐる問題を知れば知るほど、おかしいことをおかしいと感じる感性が欠けつつあるのではないかと思う。


児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(2)

2014年04月15日 | 問題のある考え

アレハンドロ・アメナーバル『海を飛ぶ夢』は、25歳の時に頸椎を損傷し、首から下を動かせないまま30年近く生き、自殺幇助によって死んだ実在の人物をモデルにした映画。

ジュリアン・シュナーベル『潜水服は蝶の夢を見る』は、脳溢血のためにロックトイン症候群(意識はあるが全身麻痺で体はほとんど動かせない状態)になったジャン=ドミニック・ボービーが左目のまぶたを動かして書いた本が原作。

まぶたしか動かせないわけだから、肉体という牢獄に閉じ込められたようなもので、そんなんだったら死んだほうがましだと思ってしまう。
『海を飛ぶ夢』の主人公のように、尊厳を保つために自分で死を決定する権利が人間にはあるという「死の自己決定権」は当然の主張だという気がする。

しかし、本当に自分で決定しているのかどうか、児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』を読むと疑問に思う。
というのが、医療側や行政の意向、圧力がある。
「無益な治療」論といって、患者や家族などが求める治療を、医療サイドが無益と考える場合には、一方的な治療の停止と差し控えができる権限を認められるべきだという主張である。
高齢化で医療や福祉が財政を圧迫しており、納税者の負担が増えているから、「無益な治療」はやめるべきだというのが「コスト論」である。

ただ生きさせるだめの延命措置は患者本人の利益にならず、無駄なのか。

では、何をもって「無益な治療」と判断するのか。

『死の自己決定権のゆくえ』によると、QOL(生命、生活の質)ということが言われているが、フランスの調査では、ロックトイン症候群の患者の72%は幸福だと答えており、死にたいと考えたことはないと答えた人が68%もいた。
カナダの調査では、子供が染色体異常のトリソミー13、18だと医師から聞かされた親は、その時の見通しと、その後の生活での親の実感とに大きなギャップがある。

そういえば、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の折笠美秋氏はまぶたを動かすことで奥さんとやりとりをすることで『君なら蝶に』を書いていて、死にたいという言葉がなかったように思う。
認知症の私の父にしても、父は認知症であることを苦にしていないようだし、家族も慣れるものである。
ジャン=ドミニック・ボービーや折笠美秋氏は「無益な治療」だったのか。

「無益な医療」論の対象者が終末期の患者から植物状態の患者へ、さらには自立生活はできず他者による介護や施設介護を常時必要とするようになる人(障害者、認知症、難病など)へと拡大していく。

脳死や植物状態で「意識がない」ことを生命維持や救命を「無益」として中止したり差し控える正当化の根拠としてきた人たちが、今度は「意識があったとしても、どうせ植物状態のような状態であることに変わりはないのだから」と言い始めているように私には聞こえる。

「自分はそんな姿になってまで生きていたくない」という思いがあり、その気持ちは「この人だって生きていたいとは思わないはずだ」とか「そんなになってまで生きているべきではない」と他者にも向けられる。
そして、「どうせ○○な人だから」と無意識の選別がなされ、意図的に線引きをじわじわと動かしていくことも可能になる。

母親が重症障害者の子どもを殺したという事件がイギリスであった。

終末期で耐え難い苦痛がある人の死の自己決定権が議論されているはずの国で、障害のない人に行われれば違法行為になることが、障害のある人だというだけで親の愛の名のもとに許容され、そればかりか賛美されてしまったのだ。
その背景にあるのは、障害のある人を障害のない人よりも価値の低い存在とみなす価値意識、障害のある生は生きるに値しないほど不幸だと考える価値意識ではないだろうか。


日本でも1970年、横浜で母親が脳性麻痺者の2歳の子供を絞殺した事件があり、減刑や無罪放免運動が起こった。
起訴まで1年半かかり、執行猶予付きの判決だった。
その理由は、重症児を育てる親への「過酷な負担に対する情状酌量」だった。

長い間介護してきたからというので、障害者を殺すことが愛情の表現として許容され、美化されるわけである。
それに対して抗議したのが青い芝の会(日本脳性マヒ者協会)である。

児玉真美氏には重い障害のある娘さんがいる。
娘さんは中学生時代に腸ねん転の手術を受けたのだが、いくら頼み込んでも、手術後の痛み止めはもらえず、点滴もされないので、娘さんは苦痛にあえいだという。

これは特殊例ではなく、多くの障害児者や家族が体験していることなんだそうで、イギリスでは、知的障害者の死亡件数のうち、37%は死を避けることができたものと考えられている。
適切な治療を受けられなかったために死んでいる障害者が少なくないのである。

障害さえなければ当たり前の治療を、障害者であるためにしてもらえないと初めて知りました。
障害のある人は人間扱いしなくてもいい存在だと、医療の現場では思われているわけです。

治療が「無益」かどうかの判断は医療職に全面的にゆだねられているので、医療の側が強い立場にあるから、患者や家族は治療を続けてくれとは言いにくい。
間違った情報が与えられ、患者や家族の選択肢が限られている中で、「死なせてほしい」と考えることが自己決定と言えるのか。
たくさんの選択肢があるべきなのに、患者には「生きる」という自己決定は封じられ、死ぬ権利だけ認めることにならないか。

尊厳死の法制化とは結局のところ、国が社会保障費を削減するために、高齢者、障害者、貧乏な人たちに、自らの意思で医療をあきらめてさっさと死んでください、という意図のものなのだろうか。

児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(1)

2014年04月11日 | 問題のある考え

マルコ・ベロッキオ『眠れる美女』は、2009年のエルアーナ・エングラーロ事件をめぐる映画。
17年前、21歳で交通事故に遭い、植物状態となったエルアーナ・エングラーロの両親は延命措置の停止を求め、2008年10月に最高裁判所が訴えを認めた。
しかし、カトリックの影響が強いイタリアでは尊厳死反対運動が起きる。

ステファヌ・ブリゼ『母の身終い』は、脳腫瘍の母親が“自分らしい人生の終え方”を望み、スイスにある自殺を幇助する協会と契約するという映画。

こうした映画が作られるのは、延命至上主義、金儲け主義の医者によって胃瘻や人工呼吸器をつけられ、ただ生きているだけの寝たきりでは人間としての尊厳はない、そして対して尊厳死・平穏死は人間的な死だ、というイメージが我々にすり込まれているからだと思う。

かつては私自身も、17年間も植物状態だったら安楽死・尊厳死もやむを得ないと思っていたし、尊厳を持って自分らしく死ぬことを選ぶことに共感していた。
しかし、私は今は尊厳死や脳死臓器移植には賛成できない。
児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』を読み、安楽死や尊厳死をめぐる現在の状況をいかに知らないかを教えられた。

『死の自己決定権のゆくえ』は内容が盛りだくさんなので、どのように紹介したらいいのかわからないが、まずは「尊厳死」とは何かの定義が曖昧なまま議論されているという問題について。
安楽死・尊厳死には次の三種類がある。
・消極的安楽死 治療を差し控えたり中止することによって結果的に患者の死を早めたり招く行為
・積極的安楽死 致死薬を注射するなど積極的な行為を行うことによって患者を死に至らしめる行為
・医師による自殺幇助(PAS) 自殺希望のある人が自分で飲んで死に至ることができるよう医師が致死薬を処方するなどの行為

児玉真美氏によると、日本尊厳死協会の理事長である岩尾總一郎は「自殺幇助」を「消極的安楽死」と定義しているが、それは一般的な定義とは異なっている。
本来なら「消極的安楽死」であるはずのものを「尊厳死」という名のもとで法制化しようと活動する日本尊厳死協会の理事長が「消極的安楽死」とは「自殺幇助」だと定義することはおかしい。

2012年、日本で尊厳死を法制化するための法律案が作られた。
終末期を「回復の可能性がなく、かつ、死期が間近」と定義されている。
第1案は許容範囲を延命措置の不開始に限定し、第2案は中止も含めている。
ところが、「終末期」の定義も曖昧だそうだ。

医師は患者の死が「間近」であることを正確に予測できないし、高齢者の場合、医師が何もせず見限ってしまうと、それは「老衰による死の過程」に見えてしまう。
また、「回復の見込みがない」とは、どういう状態までの「回復」を指すのか。

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』によると、末期がん患者2337人を対象に長期の追跡調査を行なったところ、平均して5か月後に亡くなったが、約1%は5年後にもまだ生きていた。
「奇跡」とは日常的に起きるのである。

脳死や植物状態と診断され、医師からは回復の見込みはないと言われながら、意識があることが発見された人の例を児玉真美氏は紹介している。

・ザック・ダンラップは19歳の時、交通事故に遭い、脳死を宣告され、家族は臓器移植に同意、お別れにベッドサイドに集まった。
看護師をしている従兄がポケットナイフで足の裏を切ってみたら、ザックは激しい反応を見せた。
ザックは48日後に退院、テレビ番組に出演している。
・ごく一般的な睡眠薬の成分であるゾルピデムによって永続的植物状態と診断された人たちが目覚めるという現象が世界各地で起こっている。
2006年の段階で、150人にゾルピデムを使用し、約6割の患者で改善が見られた。
・fMRIという技術を使い、遷延性植物状態と診断された患者の約17%で意識があることが発見された。
障害は「回復」しなくても、医療措置を受けることによって生存できている障害者もたくさんいる。

ザックは自分の身の回りで臓器摘出の準備が着々と進んでいく状況を克明に察知し、事態を理解しただろう。それでいて彼は助けを求めるすべはない。

ぞっとするじゃありませんか。

児玉真美氏はエゼキエル・エマニュエルの言葉を引用している。

安楽死がいったん合法化されるや、医師による自殺幇助も安楽死もルーティンとなる。時間が経つにつれ、医師は生命を終わらせるために注射をすることに抵抗を感じなくなり、アメリカ国民は安楽死という選択肢があることに抵抗を感じなくなる。抵抗を感じなくなれば、私たちはその選択肢を、社会から見て苦しんで無目的な人生を送っているように見える人たちにも広げたくなるだろう。

尊厳死法案は対象を終末期に限定しているが、実際の議論では尊厳死の対象が拡大している。
長尾和宏 『「平穏死」10の条件 胃ろう、抗がん剤、延命治療いつやめますか?』には「不治かつ末期状態に陥り、食べられなくなっても人工的な栄養補給をせずに、自然な死を迎えるのが、平穏死、自然死、尊厳死」と定義されているが、「不治かつ末期」ではなく、「意識があるかどうか」や「意思表示ができるかどうか」にシフトしているそうだ。

尊厳死・平穏死の対象者の範囲がどんどん広がっていく。

「あんなになるくらいなら」と口にするとき、私たち自身もまた「不治かつ末期の人」と言いながら、その「あんな」の中に知らず知らずのうちに「植物状態のようになった人」(それは「植物状態の人」ではない)や「認知症の人」、「意識はしっかりしていても寝たきりで全介護状態の人」をふくめてしまっているのではないだろうか。

「どうせ」の共鳴。
「どうせ植物状態のような人」「どうせ終末期のような人」、さらには「どうせ障害者」「どうせ高齢者」「どうせ生活保護受給者」「どうせ無保険の人」「どうせ医療費を払えない人」「どうせ不法移民」などへ広がっていく可能性はないのか。
「尊厳死」とか「平穏死」というと聞こえがいいが、こんなになったら死んだほうがいいと、本人ではなく、まわりの者が勝手に考えているだけのことだと思う。

(追記)
児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』について書きました。
合わせてお読み下さい。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%BB%F9%B6%CC%BF%BF%C8%FE


ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』(2)

2014年03月18日 | 問題のある考え

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』は製薬会社やメディアを批判している。
たとえば化粧品。

化粧品産業は宝くじと同じで人々の夢につけ込んでいる。

化粧品には、いかにも効能がありそうな、しかし実は意味のない成分が何種類も添加されている。

やり方はインチキ健康商品と変わらない。
なのに高級化粧品が売れるのはなぜか。

こういう商品はぜいたく品であり、その人の地位を示す品物であり、ありとあらゆる興味深い理由で買われるものなのだ。


たしかにブランドは品質がいいからというよりも、見栄で買うような気がするわけで、我々にも問題はあるのですが。

アメリカ最大手の製薬会社数社は、売り上げ2000億ドルのうち14%しか研究開発に回しておらず、販促費と管理費に31%もふり向けている。

マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』によると、パトカーの車体を利用した広告や、刑務所で逮捕直後の被告に向けたテレビ広告(保釈金を貸す業者や弁護士の)があるし、高校の名称の命名権を売り出したりされているというすさまじい状況にいつの間にかなっている。

額に入れ墨で広告を入れる人がいるそうだが、ブランドのロゴ入りの服を着るのも、歩く広告塔という意味では同じかもしれない。
企業とメディアとの関わりという問題もあるわけです。

ベン・ゴールドエイカーはメディア批判に多くのページを割いている。

いかにメディアが科学に対する誤解を広めているかだ。メディアは重要でもなんでもない話を熱心に追いかけ、統計や根拠の意味を根本からとり違えている。


その中からイギリスでの新三種混合ワクチン(MMR)をめぐる騒ぎをご紹介しましょう。

1998年、新三種混合ワクチンの接種と自閉症は因果関係があるという論文が発表され、予防接種反対運動が起き、製薬会社を相手取って訴訟を起こした自閉症患者もいる。
新三種混合ワクチンの接種率は1996年までは92%だったのに、73%に下がった。
ロンドンのウェストミンスター地区では5歳までに二度の接種を終えた子供は38%だった。
接種率が下がったため麻疹とおたふく風邪が増えている。

この責任は論文を発表した学者だけでなく、メディアが足並みをそろえ、科学的な根拠に対抗してヒステリックな感情論をぶつけることで、MMR反対運動を成功させたことが大きい。

責められるべきは大勢の記者やコラムニスト、編集者やメディアの幹部である。(略)ひとつの研究をもとに想像をふくらませ、ばかげた話をつくり上げた。その間、ワクチンの安全性を再確認するデータも危険性を否定する研究結果もいろいろあったのに、ぜんぶことさら無視をして、科学的な内容を説明するかわりに「専門家」の言葉を引いて振りかざし、過去の事例から学ばず、無能な記者に記事を書かせ、「怒れる親」対「冷淡な学者」という図式をこしらえて研究者を叩く。何より呆れるのは、ところどころで話をでっちあげていることだ。


テレンス・ハインズ『「超科学」をきるPartⅡ』もマスコミ報道の問題を取り上げていて、アメリカ政府がUFOの隠蔽工作をしているという陰謀論者の説をマスコミはニュースにするが、冷静で否定的な見解はニュース価値がないとみなしていると批判している。

UFOや擬似科学あるいは超常現象の話題になると、ほかの点では申し分のない新聞やテレビ番組でさえ、扇情的な低いレベルに陥ってしまうようだ。

メディアは受けるかどうかが問題で、世間の不安をあおる内容なら大げさに報じる。

私はこうしたマスメディアの問題を読むたびに、弁護団への異様なバッシングが起き、弁護団を擁護するブログも炎上し、逆に弁護団を懲戒請求するよう煽った橋下徹氏が人気政治家にのし上がってしまった光市事件をいつも思い出す。

医師たちが説明しようとしても、その声が怒号にかき消されることもままあった。(略)
医師たちの発言を情報価値のないものにおとしめ、親たちの叫びと対立させる図式をつくって読者の感情をあおった。

これは新三種混合ワクチン(MMR)の接種と自閉症とは関係がないと説明する医師へのメディアの反応だが、「医師」を「弁護人」に置き換えたら光市事件での状況になる。

メディアは物事を見抜く力がないし、責任を取ろうともしないからきっとまた同じ過ちをくり返す。

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』(1)

2014年03月14日 | 問題のある考え

私の知り合いに、病気になってもなるべく医者にはかからず、食事療法によって治すという人がいる。
その食事療法というのが代替療法というか、疑似科学っぽくて、そのことを言ったら、「疑似科学という言葉で何でも否定するのは間違いだ。現代科学が全てを解明しているわけではない」という返事。

たしかにそのとおりで、どんな馬鹿げたこと、たとえば宇宙人に誘拐され、宇宙人と性交して妊娠したといった話にしたって、100%あり得ないとは言えない。
実は私も疑似科学が好きなので気になってしまう。
だもんで、はまってしまいそうだから、私は批判的な本しか読まない。

ベン・ゴールドエイカー『デタラメ健康科学』は副題が「代替療法・製薬産業・メディアのウソ」とあるように、デトックス、ホメオパシー、サプリメント、コラーゲンなどのあやしさ、製薬会社、メディアの実態を暴いている。

代替療法には漢方、鍼灸、指圧といった東洋医学から、カイロプラクティック、ホメオパシー、気功など有効性が実証されていないものまで含まれる。
『デタラメ健康科学』によると、腰痛のための鍼治療は統計的に有意ではないし、漢方医学の研究論文を調べたところ、ただのひとつも否定的な結果は公表されていないそうだ。

なぜ代替療法みたいな怪しい医療法が私たちを惹きつけるのか。
医療への不信、代替療法は自然で身体にいいという誤解、知的な感じの専門用語で飾りたてたわかりやすい説明(正しいわけではないが)、手っ取り早くてお手軽、といったことがあると思う。
代替療法を提供する側がウソをついているかというと、ベン・ゴールドエイカーによれば、ウソつき呼ばわりされるほどの悪意もなければ知力もない。

デトックス(体内毒素)を排出するというインチキ商品がある。
病気を治すには体内の毒素を排出しないといけないと昔から信じられていて、ヨーロッパでは瀉血が唯一の治療法と言っていいぐらいだったし、断食や沐浴も体の浄化が目的である。
現代でも、体内の毒素を排出して健康になりますというデトックス商品が各種販売されている。
では毒素とは何かとなると、説明できないし、科学的根拠があるわけではない。

ベン・ゴールドエイカーによると、デトックスが好きな人は日常生活で儀式を行なうのが好きな人である。

浄化と贖罪のテーマが儀式にくり返し現れるのは、人間がいろいろな事情のせいで悪いことをしてしまうからだ。そういう事情が新たに増えるたびに新しい儀式が考えだされる。(略)
先進国の人間は極端なまでに物欲にふけっているため、その罪を清めて購いたいと思っている。薬物や酒、体に悪い食べ物や、いろいろなぜいたく品を私たちは口に詰めこむ。いけないことだとはわかっているので、そのつけが回ってこないように何かの儀式で逃れさせてほしい。


病気になるのは悪いことをしたからであり、悪業によって作られた毒素を排出することで健康になるという考えは、苦行によるカルマの浄化と同じ理屈だと思う。
酢を飲んだら花粉症が治ったと聞き、私も一年間、酢を飲んだことがある。
酢は飲みやすくはないが、でもこんなに苦しい思いをするんだから効果があるかもと思って、我慢して酢を飲み込んだものです。(花粉症は相変わらずです)

ホメオパシーのレメディという薬(砂糖と水を混ぜたもの)を作るために水でただ薄めるだけでなく、容器を強く振り、台に叩きつける。
これも儀式の一種で、こんなことで治療効果が生じるはずはないが、何となくありがたく感じるものである。

では、なぜ代替療法で治るか?
「プラセボ効果」か「平均への回帰」だというのがベン・ゴールドエイカーの説明。
「プラセボ効果」とは偽薬効果で、水なのに「薬だ」と言って飲ませたら病気が治るということ。
医者が何を言い、患者が何を信じるかが治療に影響するし、医者が何らかの診断を与えるだけで(たとえウソの診断であっても)患者の状態が良くなることがあるそうだ。
信仰することでご利益(健康、仕事、人間関係などの改善)があるとしたら、これもプラセボ効果なのかもしれない。

「プラセボ効果」には患者へのメリットがありそうだ。ただし裏目に出る場合もあるので注意が必要である。何かといえば、自信と信頼感にあふれる説明で人に病人の役割を与えてしまい、その人の考えかたや行動に悪影響を及ぼすおそれがある。

下手にご利益があると「考えかたや行動に悪影響を及ぼす」のは宗教でも言えることです。

もちろん代替療法の信奉者はプラセボ効果だとは認めない。

患者との信頼関係や儀式ではなく、具体的なメカニズムによって測定可能な作用が現れて患者は治るのだと主張する。
でも、本当に測定されているのだったら、代替療法とは言わない。

「平均への回帰」とは、病気にはよい状態の時があれば悪い状態もあり、治ったら、最悪のときに試したあれのおかげだと考えること。
ホメオパシーにしても症状が最悪のときに試みるから、放っておいてもいずれ元気になるが、よくなったのはホメオパシーのおかげだと信じこむ。
悪くなれば「好転反応」という都合のよい理論がある。

ホメオパス(レメディーを処方する人)は「適切なレメディを摂取すると、体内の毒素が排出されて、症状が一時的に悪化することがある」と説明し、デトックスを勧める人も「毒素が出ているあいだはかえって気分が悪くなるかもしれない」と答える。

病気というのはよくなるか悪くなるかのどちらかで、時間が経てば自然に治ることもある。
「好転反応」というヘリクツ、政治家が「今の苦難は」と言うのもそうですね。

(追記)
ホメオパシーについては以前にも書いています。
「いのち」と「場の力」(2)
『ホメオパシー セルフケアBOOK』


統一協会と既成教団との関係 3

2013年01月30日 | 問題のある考え

文鮮明は1998年にニューヨークで「霊界祝福結婚式」を挙行し、釈尊と崔元福(某氏によると文鮮明の法規外妻)を結婚させている。
その時、釈尊は
「私の地上での生活は、罪人としての姿でしかありませんでした。私の悟った内容よりも、統一原理の方が次元が高いことを認めます。 釈迦 拝」
と語ったそうだ。

統一協会の考えだと、「人間は死後「霊人体」となって霊界に行く。原罪を持ったまま霊人体となった先祖は地獄で永遠の苦しみを受けている」(櫻井義秀『統一教会』)
釈尊だけでなく、イエスやマホメットなど五大宗教の教祖もおそらく霊界で苦しんでいるのだろう。

地獄で苦しむ人を救う方法は祝福(合同結婚式)である。
「統一教会の教えを受けずに亡くなった先祖達は、死後において統一教会の研修と祝福を受けて真の家庭を築かなければならない。どちらの場合も、信者が統一教会にしかるべき金額の献金を納入しなければことは進まないとされる」
というわけで、霊界で苦しんでいた釈尊も合同結婚式をすることで、自分の考えの間違いに目覚めたというわけである。

仮にマホメットも合同結婚式で善き伴侶を娶ったと統一協会が主張してるとしたら、サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』どころの話ではないと思う。
でもまあ、統一協会の信者以外は一笑に付す話ではあります。

問題は死んだ教祖ではなく、生存している協力聖職者である。
某氏からもらった「グラフ新天地」のコピーを見ると、2001年ニューヨークで行われた超教派聖職者祝福式に、スターリング大司教は神元小夜美さんと参加している。
エマニュエル・ミリンゴ大司教は「文総裁はイエスのみ言を成就」と力強く説教している。

日本の僧侶も負けていません。
「グラフ新天地」には西山廣宣・大満寺住職、美原道輝・帝釈寺前住職、武藤宗英・報恩閣住職という三人の曹洞宗僧侶が写真入りで載っている。(何号かは不明)

美原道輝・帝釈寺前住職

世界平和超宗教超国家連合(IIFWP)の壮大なる主旨に賛同して、「平和大使」に任命された仏教徒である私は、現代のますます混濁せる人心社会が純粋なる神の意思により、またその神の聖旨を真実の心で理解して、世界人類の平和のため、「神様の絶対平和理想モデルである絶対性家庭と王国」を主題とした文総裁の天のみ言を拝読させて戴きました。
文総裁はまことに驚くべき能力を発揮されて今日まで全世界的活動をされており、数多くの天のみ言を世界の人々に伝道されております。私共はひたすらそのみ教えをきいて、種々の感じ方をなし、また、自らの会得しえた文言の真意を互いに交換し合い、あるいは家庭の平和に活用し、小さい領域からでも平和な意義深い生活を体験し、かつ感動しております。
この人は娘が統一協会に入信し、自分も統一原理の支持者になったそうです。

武藤宗英・報恩閣住職
新世紀の出航には、それにあった新しい羅針盤が必要となります。1999年2月、文鮮明韓鶴子両総裁が一生涯をかけて築いてこられた平和の理念が、IIFWPの創設という形で、見事に開花しました。(略)
愛と慈悲の実践を通して、世界の恒久平和を追求されるそのお姿こそ、我々宗教者が見習うべき模範であり、人類を救うべく来臨された真の父母のお姿ではないでしょうか。

2007年に「世界巡回1200か所大会」というのが行われたそうだが、大会ポスターには多くの聖職者の写真が載っており、真言宗、浄土真宗本願寺派、日本山妙法寺の僧侶もいる。
某氏はバチカンはスターリング大司教やミリンゴ大司教を破門すべきだと言うが、私も各仏教教団がなぜ統一協会に協力する僧の僧籍を剥奪しないのか疑問である。
アホらしいと笑い話ですます問題ではないと思う。


統一協会と既成教団との関係 2

2013年01月21日 | 問題のある考え

某氏は「グラフ新天地」のコピーもくださった。
これも統一協会が出している雑誌の一つ。(休刊になってるかも)

「グラフ新天地」2002年11月号に、「霊界五大宗教指導者セミナー」の報告が載っている。
もっとも「この報告は霊界の李相軒先生から送られたものを、リポーターの金英順女史が2001年12月19日から27日に鮮文大学牙山キャンパスで受けたものです」ということであります。

「霊界五大宗教指導者セミナーでの五大宗教代表者たちの決意文採択と宣言」

1.キリスト教:イエス・キリストと12名の代表
2.儒教:孔子と12名の代表
3.仏教:仏陀と12名の代表
4.イスラム教:マホメットと12名の代表
5.ヒンズー教:3名(12名のうち)の代表

 式順
一、開会宣言:五大宗教代表たちの決意文採択と宣布式を挙行いたします
二、家庭盟誓:一同
三、決意文宣布:イエス
四、代表祈祷:イエス
五、万歳三唱:マホメット
  神様万歳、真のご父母様万歳、五大宗教万歳、最後に一同拍手

主な宗教指導者の決意文

 イエス
キリスト教の歴史に光を残した120名は、救世主、メシア、文鮮明先生の指導と成約のみ言、「統一原理」で武装し、原罪のない本郷の園、理想郷を目指して前進することを決意し、真のご父母様のすべてのことに参画することを誓います。

 マホメット
マホメットは「統一原理」に接し、文鮮明先生に出会ったのち、マホメットの人生観が変わりました。すべてのことに自信があります。すべてのことが新鮮です。すべてのことが楽観的であり、希望的です。それは神様の根本のみ旨を知り、神様は人類の父母であったという事実を知ったからです。
今や、マホメットはその道を目指していきさえすればいいのです。人間が縦的父母と横的父母に侍って生きていくことが、人生の最も根本的な道です。
マホメットは叫びます。神様、万歳! 文鮮明先生、真のご父母様、メシア、救世主、万歳!

パウロ、孔子、閔子騫、釈迦、舎利弗、シャンカラの決意文は略。
イスラム教徒がこの記事を読んだら激怒して、金英順女史に死刑宣告を下すかもしれない。

こんなことも書かれています。
 霊界からのメッセージ
神様と真の父母の下で一つになる五大宗教
文鮮明先生ご夫妻は、既に全霊界を統一され、五大宗教の教祖からも「真の父母」として敬愛されています。また、神様も手紙を通して、文先生ご夫妻への深い感謝の意を表されました。

私たち夫婦は、人類の真の父母たる資格をもって、既に全霊界を統一しました。四大宗教の教祖であるイエス、釈迦、孔子、マホメットはもちろん、彼らの第一弟子級の120名ずつからメッセージを受けています。

霊界で開催されたセミナーを通して、私たち夫婦の教えである「原理」と「統一思想」を学んだ後に送った彼らのメッセージは、一様に希望的であり、真の父母に対する感謝の言葉に満ちています。
さらには、マルクスとレーニンをはじめとして、霊界に行っている世界的な共産主義者たちも、真の父母の命令に従って原理セミナーを終了し、悔い改めと痛恨の涙で綴ったメッセージを送ってきています。
今、彼らの希望は、ただ一つです。それは地上の信徒や信奉者たちが、一日も早く、真の父母である文総裁の教えを受け入れ、永遠の生命を準備しなさいとのメッセージです。
つかの間の地上生活において、貴い一生を浪費せず、だれもが肉体を脱げば入っていって永遠に一緒に暮らすことになる霊界での生活のために知恵深く準備してきなさいとの忠告で満ちています。(メッセージより)

このメッセージは霊界からのものなのか、それとも文鮮明夫婦からなのか、よくわからない文章であります。

「霊界からのメッセージ」はシリーズものらしく、「グラフ新天地」2003年6月号は 空海・最澄が登場する。

霊界ではキリスト教、仏教、儒教、イスラム教など諸宗教の代表者たちが、統一原理セミナーに参加し、霊能者を通してその所感を送ってきています。今回は真言宗の開祖・空海(弘法大師)と、日本天台宗の祖・最澄(伝教大師)からのメッセージです。

仏教者の立場を超えて

 空海
神様のみ意(こころ)を知らなかった
美しい世界が私たち人間と常に共にあったのに、私、空海は、どうしてそれほどまでに創造主のみ手を推し量ることができなかったのでしょうか。あまりにも胸が痛んで耐えることができませんでした。(略)人間の先祖から受けた原罪ゆえに、神様を探そうとする意識まで暗闇に覆われてしまったからでしょうか。
神様は人類の父母です。神様は、子女である人間のために美しい天地万物を創造してくださり、幸福の住みかを準備してくださいました。(略)

人類の対立をなくす「統一原理」

文鮮明先生は、人類の平和のために、とてつもないことをなされました。暗闇の中にいる人類を救い出されたので、やはり人類の真のご父母様であり、大先生であられます。
私、空海が「統一原理」の偉大性をどれほど称賛しても足らないでしょう。(略)
神様は人類の父母であり、人類は神様を父母として侍る一つの兄弟姉妹です。ですから、兄弟姉妹の考えが異なることはできません。仏教人は、みな仏者として過ごしてきた自らの道を繰り返す愚かな場所から一日も早く解放されることを望みます。私は、「統一原理」の道を静かに超然と従っていきます」

 最澄

地上にも天上にも、数多くの人々が暮らしています。しかし、地上人は、天上の生活に対して知らずにいます。私、最澄は天上にいながら、地上の一人の女性の力を借りて私の消息を伝えることができるということ自体に、驚きを禁じ得ません。(略)
全人類の行くべき道は、「統一原理」しかありません。霊界は間違いなくあります。準備しない人は、天上の難しい場所にとどまるようになります。そして、神様は、全人類の父母の位置にいらっしゃいます。文鮮明先生の教えのとおりに生きれば、永生福楽の場所はみなさんの場所です。

霊界からのメッセージ(霊言)は大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁の専売特許かと思ってたら、そうではないらしい。
どうせなら空海や最澄の文章をまじえて、それらしくしてほしいが、これじゃ誰の霊言でもいいような紋切り型霊言である。
『丹波哲郎 大霊界からのメッセージ―映画「ファイナル・ジャッジメント」に物申す―』を見習って創意工夫してほしい。