「安楽死」「尊厳死」「平穏死」、いずれもこれこそが人間らしい死に方だというような、いいイメージを与える言葉である。
でも、なぜこういう死に方を選ぶのかというと、「まわりに迷惑をかけてはいけない」などと洗脳され、自ら命を絶つことを選ばざるを得ないように仕向けられているからではないか。
尊厳死は終末期ということに今のところはなっているが、認知症、植物状態、障害者、さらには死にたい人にまで対象が広がっているのが実情だということが、児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』にで紹介されている。
尊厳死の法制化を進める側の狙いは、福祉・医療費の削減(つまりは切り捨て)と移植用の臓器の確保だと思う。
法制化はその後の社会のあり方を方向づけると児玉真美氏は言う。
たとえば、臓器移植法によって、運転免許証と健康保険証の裏面でも臓器提供の意思を表示でき、普及啓発、記入促進のためにパンフレットやポスターが作られ、運転免許センターや薬局なども協力している。
で、結構なことだというので、「移植のために臓器を提供します」に○をつけるようになる。
児玉真美氏は、終末期医療の問題を批判するなら、医療のあり方を変えようと医療の側に提案すべきなのに、なぜか患者や家族に尊厳死・平穏死という死に方を選べと、まわりから圧力がかかると言う。
出生前遺伝子診断によって中絶する人が増えているのも、有形無形の圧力と無関係ではないと思う。
そこには強者の論理があると児玉真美氏は言う。
管理する側とされる側、科学技術の恩恵にあずかる側と犠牲に供される側。
「死にたい」と望む人に、「死にたいと言うなら死なせてやればいい」「だから安楽死は合法化すべきだ」と結論を急ぐのは安易すぎる。
どんな人であろうとも、死んでいい人などいないのだから。
苦しみや絶望の中にある人に社会で支え、適切な支援の提供をすべきである。
日本弁護士会の会長声明でも、尊厳死法制化の検討の前に、適切な医療を受ける患者の権利やインフォームド・コンセント原則など患者の権利の法制化と、緩和ケア、在宅医療・介護、救急医療などの充実が必要だと訴えている。
児玉真美氏は、議論されるべき問題はいかにすれば終末期を苦しくないものにできるかということであるはずだと言う。
延命治療か尊厳死かの二者択一ではない。
「死にたい」と望む人に安楽死や自殺幇助で応じ、長期の介護者に「これ以上どうにもできないというなら、死なせても殺しても大目に見てあげよう」と目をつぶる社会になろうとするのか、それとも「苦しければ助けを求めてほしい」と呼びかけ、支援する力を蓄えた社会であり続けようとするのか。
母親がスイスで自殺幇助によって死のうとするという話のステファヌ・ブリゼ『母の身終い』のHPを見たら、樹木希林氏が
というコメントを寄せている。
私は断然こちらを選択したい。
元気なときだったら、家族で話し合うと「延命治療はやめよう」という話になる。
しかし、医者から「どうされますか」と聞かれる事態になったとき、「何もしません」と言えるかどうか。
簡単に割り切る人間より、どうしたらいいのかと葛藤する人に私はなりたい。
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