1976年5月8日、羽田空港の駐車場に停車していた車のトランクから女性の死体が発見された。犯人は「さすらい」の大ヒットで知られる人気歌手。なぜ彼は人をあやめたのか。いまだ明かされぬ愛憎劇に迫る─。 ─(↓事件直後から終息まで毎週のように動向を追った当時の『週刊女性』)
●昭和芸能事件簿・第10回─克美しげる
かつての大スターが「苦悩」と「小心」の末に…再ブレイク寸前の「愛人ホステス殺人」
「6日の早朝、彼女を殺したあと、急いで午後1時の北海道行きの飛行機に乗るため、羽田へ向かいました。はい、車のトランクに彼女の死体をのせて…」
1976年(昭和51年)5月8日、殺人容疑で逮捕された歌手・克美茂は旭川署でそう供述した。
事件が発覚したのは、その日の朝。羽田空港の警備員が、駐車場に置かれた車のトランクからポタポタと血が流れているのを発見。駆けつけた警察官が調べてみると、その中から2枚の毛布にくるまれた、下着だけの女性の死体が見つかった。
車のナンバーから、それは道内で新曲キャンペーン中の克美が借りていたもので、本人の供述により、殺された女性は、半同棲中の愛人だったことが判明。その衝撃を、芸能レポーター・石川敏男氏は、こう振り返る。
「事件の日の朝、克美が所属していたレコード会社の人から電話が来たんですよ。『克美が警察に捕まる』って。それでビックリしてすぐ取材に向かったのを覚えています」
それもそのはず、彼は“克美しげる”の名で1964年、65年の『紅白』に2年連続出場した大物。郷里の宮崎から家出同然で上京して、洋楽のカバーやアニメ『エイトマン』の主題歌で注目され、64年に「さすらい」を大ヒットさせた。また、時代劇で故・渥美清さんとコンビを組み、三枚目ぶりで人気を博したことも。
ただし、事件の数年前から低迷していて、
「仕事がほとんどなかったから、スポンサーといわれていた建設会社会長と友人とで昼から夕方まで麻雀をして、夜は銀座のクラブに行く毎日。会長から小遣いをもらっていたんだろう。けれどもその後、オイルショックの影響もあって、会長の会社が傾いてしまい、金を出してもらえなくなっちゃったんだ」(当時、事件を取材した女性週刊誌記者)
そんな克美を救ったのが、そのころに知り合った愛人のOさんだった。バツ2で銀座のホステスだった彼女は、2人が半同棲するにあたり、今でいうソープランドに転職して、大金を貢いだという。
事件後に、Oさんのベッドで発見されたメモには、
《しばらく寝顔を見ていた。今日は30万円作れたので、やっと安心して寝てるんだろうなあと思いながら─みていると、起こす気になれない。早く安心出来るようにしてあげたい》
といった女心が。一方、克美のメモには、
《これは明日には必ずもって帰りますがカンの中から3万円持っていきます》
などという言葉が目立ち、ヒモのような立場だったことがうかがえる。
当時、克美には2度目の妻と娘がいて、いわば二重生活。しかも、Oさんには離婚したと嘘をつき、75年には偽りの結婚式まで挙げていた。
「Oさんはうれしくて、周りに結婚式の写真を見せてまわっていたそう。でも、奥さんが美人なのに対し、Oさんは中肉中背の普通の女性。克美は金づるとしか思ってなかったようだ」(前出・週刊誌記者)
しかし、そんな生活を考え直さなくてはならないときがやってきた。レコード会社が克美の再ブレイク作戦を、大々的に敢行。スキャンダルの心配はないか、と釘を刺されたのだ。
「ちゃんと会社の人間にでも自分の生活の話をすればなんとかなったのに、再ブレイクの話が立ち消えになるのが怖かったんだろうね、言わなかった。気が弱いヤツだったから」(前出・石川氏)
これに対し、Oさんは「気性の強い、感情の起伏の激しい派手な性格」(裁判での克美の弁護人発言より)だった。
克美はとりあえずOさんに風俗の仕事をやめさせ、銀座のホステスに再転職させたものの…。相手が自分を疎ましく感じ始めたことを察知したOさんは不安になり仕事先についてくるようになる。北海道でのキャンペーンにも同行を希望。さらに事件が起こる2日前には克美の戸籍を調べて離婚が嘘だと知った。
その裏で同じ日、克美のほうは殺すためのロープと死体を埋めるためのスコップを購入していた─。そして翌日の5月5日夜、口論に…。
以下は、裁判の上申書に克美が綴った言葉だ。
《北海道にはひとりで行かせてくれと、最後の最後まで頼んだのですが、あの夜、Oさんが『これから五反田(妻子のいる自宅)へ行って決着をつける』と言ったとき、もうこれまでだと思いOさんの首に手をかけ『許してくれ』といいながら首を絞めました》
彼いわく「スキャンダルで仕事がダメになってしまうのが怖かったのです」と。
新曲の「おもいやり」は事件直後、にわかに注目されたが、すぐに回収された。その内容はくしくも、愛人との生活を清算しようとする男の心情を描いたものだった。
また、克美の妻は当時、本誌に対し「主人もあの人を精いっぱい愛していたんでしょうし、それに対してあの人も尽くしたと思います」としたうえで、「わたしに『迷惑をかけて申し訳ない』と主人は謝っていました。わたしも『待っているから罪を償ってほしい』といいました。(略)こんな事件を起こしたからといって、見捨てるなんてことは、わたしにはできません」
と語っていたが、その年の12月、あっけなく離婚。
Oさんの両親は娘へのせめてもの償いにと、克美に損害賠償を求める訴訟を起こすことに。克美は結婚式を挙げるのに際し、Oさんに彼女自身の金で17万円の指輪を買わせ、犯行後に抜き取り、2万円で質入れするという非道なことまでしていた。それに対し、裁判所は「残虐な方法で娘を殺された両親の心痛は察するにあまりある」として、500万円の支払いを命じた。
とはいえ、懲役15年の求刑は、判決では10年に。犯行後の素直な自供に加え、芸能人有志が全国のファンに向け行った“克美茂減刑嘆願”の署名が功を奏したとされる。
実際、克美の評判は決して悪くはなく「折り目正しいまじめな歌手」「腰が低く、如才ない苦労人」といった声が。それでも殺人という大罪を犯してしまったのは、上申書で本人が何度も繰り返したように「弱い人間」だったからだろうか─。
「克美の手口は最初、自分が貢ぐ。そうするとだんだん無理がたたるんだけど、女が見かねて『私がどうにかするから。あなたが売れたときに返してくれればいい』という気持ちになり、貢がせるんだよ」(前出・週刊誌記者)
いわゆる“ダメ男”好きの女をその気にさせる何かがあったのかもしれない。
1983年に模範囚として仮出所すると、2ヵ月後にはOさんの墓参りをし、刑期が満了した86年には、カラオケのインストラクターとして再出発。だが、89年に覚醒剤取締法違反で逮捕され、懲役8ヵ月の実刑判決を受けたことで、数少ない味方も去っていった。
その後、32歳下の女性と結婚をし、その実家で暮らすようになった克美は、知人の経営するスナックで歌ったりしていたのだが、
「そういえば、3年くらい前、何かのパーティーで見かけたんだけど、芸能人としてのオーラはすっかりなくなっていたね」(前出・石川氏)
現役歌手による殺人事件、それは彼自身の歌手生命を絶つものでもあった。
1976年5月8日、北海道から戻り、羽田空港から護送される克美。やじ馬が見つめていた。
偽装結婚する際に撮影した白無垢姿のOさん。この横には袴姿の克美が…
1983年10月に仮出所。12月21日にはOさんの墓参りをしたあとに公開謝罪会見を(右から2人目が克美) ─(週刊女性6月19日号)
克美しげるの「霧の中のジョニー」の方がずっと好きでした。
それに「片目のジャック」、「さいはての慕情」、「史上最大の作戦」など大好きでした。
50年以上もの前の青春時代の思い出です。
あのような声の持ち主の歌手は二度とあらわれないでしょうね。
歌謡曲に転向しなきゃよかったのに…