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巻き添え食ってたまるかよ

どんぶらこっこ~~忘れられないニュースの光景

2010-12-29 23:34:53 | Weblog
↑土台を侵食された家屋は傾き始めたとたん、アッという間に流れの中に、ゴウ音とともに落ち込んだ(1974年9月2日・午前8時22分)。↓濁流にさらわれた家屋は中央へ押し流され、水没寸前に(同午前8時30分)



すっこっこ~~

大変。全国の人の目の前で、家が次々と川に流されてゆく。
何十年分の忘年会を重ねたとしても、このときの光景を忘れることはないでしょう。1974(昭和49)年9月、台風16号が接近して降り続いた大雨で、多摩川が増水して堤防が決壊、19戸の住宅が濁流のモクズと消えたとき、オラは小学4年生。わたし生まれてないんですけど─という方も、まあお聞きください。
詳しい状況は↓の当時の雑誌記事をご覧いただくとして、その中に、避難命令が出たときは、まさか家ごと流されるなんて想像もしないので、よほどの貴重品以外は全部家に残してきて、失われてしまった─という記述があるでしょう。
この3年後の1977年、『岸辺のアルバム』という連ドラで、脚本家の山田太一が盛り込んだそうな。本堤防そばの建売住宅に住む杉浦直樹と八千草薫の夫婦が主人公で、理想の主婦像とされた八千草が近所に住む竹脇無我と不倫するエピソードも衝撃的だったと聞くが、堤防決壊の直前、どうにかアルバム5冊を家から持ち出す彼ら。「歴史の記憶」さえあれば、家族は再建できると考えて。
多摩川水害の2年後、ドラマの1年前の1976年、同じようなサラリーマン家庭のオラん家も、東京都渋谷区の8坪のネコのひたいのような土地に家を新築して、横浜の公団団地から、意気揚々と引っ越しただ。
そして、あれこれあって、父母が首をくくったその家を、たたき売って五反田のマンションを買った、精神科入院中であった2000年のオラ。
家財道具はほとんど放ったらかし。アルバムも。オラ1992年から自活していたので、小5以降の学校などで撮った写真は自分で保管していたが、両親それぞれの若き日のアルバム、結婚写真、一人息子が生まれて撮りまくった、幼き日のオラのアルバムも、もはや取り返しがつかない。
いや、アルバムのことは、当時、かすかに念頭にはあったのだが、それらをきちんとより分けられるような精神状態じゃなかったんだよね。もし、それらの写真を、いま、見ることができたら、涙が滝のように止まらないと思う。
1998年から99年にかけ、オラん家も濁流に流されたのだ。



↑マンガ家のつげ義春さんは、この当時、決壊場所の4㌔ほど上流の調布市のアパートに住んでいたとのことで、戦後のドサクサで住み着いた朝鮮人集落の老人たちが、増水を機に立ち退かざるをえなくなったこととからめて「近所の景色」という短編を描いた。



19年前に買った建売住宅だった…
「駅に近いし、眺めはいいし、住宅地としては一級地と思っていたんですがねぇ…。守ってくれるはずの堤防が、こんなにもろく崩れるとは考えてもみなかったですよ」
新築中の家屋を濁流にさらわれた岩井健三さん(当時47・興亜火災海上)は、あきらめ切れぬ表情でいう。
「いまになって考えてみれば、河川敷にグラウンドとか公園をつくったりして、川の機能を人工的に変えたことが、影響したのかなあ、と思うんですよ」
人間の力によって、おとなしい姿に変えさせられていた多摩川は、いったん、キバをむき出しにすると、失われた領分を取り戻すかのように、すさまじい勢いで、河川敷を崩し、堤防を破壊し、新興住宅地の土地を削り取ったのである。
右岸から300㍍ほどのびている宿河原セキにあふれた水が、セキの突端と左岸を結ぶ旧堤防を崩し、さらに幅40㍍の河川敷をこえて高さ6㍍の堤防を突き崩し始めた。
そして、9月1日午後11時55分、土台を削り取られた那須義高さん(当時76)の家が、ごう音とともに濁流の中に消えたのを手始めに、3日の昼までに19戸が流出、倒壊したのである。
那須さんと同居していた娘ムコの小西信一さん(当時42・松屋デパート)は、「午後6時に緊急避難命令が出て、身の回りのものを持って避難したんですが、せいぜい床上に浸水する程度だと思っていたんですよ。10時半ごろ現地へ行ってみて、浸水というより、土地の侵食ということがわかり、もう家は助からないと思いました。せめて少しでも家財道具を出そうと思ったんですが、危険だというので、中へは一歩も入れませんでした」

◆借金を返し終わったばかり
家を失った人たちは、貴重品と身の回りのものを持って着のみ着のまま避難したため、家とともに家財道具のほとんどすべてを失ってしまった。
伊藤芳男さん(当時49・いすゞ自動車)も、家ごと失うなんて予想もしなかったと、力なく語る。
「衣類やふとんを2階へ上げておけば、だいじょうぶと考えて、軽い気持ちで避難したんですが…。昭和30(1955)年に購入した建売住宅だったんです。子どもの勉強部屋用にと、6年前に立てた別棟もろとも流されてしまって…。建売の公庫融資も昨年で返済、増築分の支払いもちょうど終わったところでした。19年間、愛着をかけてきたものが、すべてなくなってしまいました」
マイホームを流出した家族の大半は、伊藤さんと同じように昭和30年2月、小田急電鉄が売り出した建売住宅を買った人たちだった。世帯主のほとんどがサラリーマン、年齢も40代後半から50代前半に集中している。30歳前後に、「自分の家を持ちたい」という夢を実現し、文字通りのマイホームを営営と築いてきた人たちであった。井上義彦さん(当時55・東海自動車)は、「ここのみなさんが、たいていそうであるように、ウチも、43(1968)年に建売住宅を壊し、新築したんです。費用のうち半分ぐらいは返済したんですが、会社からの融資分が残ってます。家そのものはあきらめもつきますが、人から見ればつまらないものでも、自分の歴史になるものを失ったのがいちばん残念ですね。海外旅行のフィルムとか、オヤジの勲章とか、ゴルフのカップとか…。それと、11月に結婚する娘の嫁入り道具が流されてしまいまして、娘も残念がっていますよ」
アルバム、研究用の資料、思い出のレコード、ピアノ、それぞれ自分自身の人生の記録をきざみ込んだ“大事な品”を、被災者は家とともに失ったのである。

◆補償問題をめぐって訴訟も
被災者の会を発足させ、その世話人として、狛江市などとの交渉にあたっている横山十四男さんの妻・理子さん(当時47)は、「多摩川の自然を守る会」の事務局長として、「自然保護運動が、かえって今度の決壊を招いた、などという批判はもってのほか。自然保護といっても放置したまま、というのではありません。適切な管理があってこそ、自然が保護されるわけで、管理のずさんさをタナにあげて、一方的に私たちを非難するのは、マトはずれ」と憤る。
いっぽう、理子さんは、町内でも世話役的存在で、被災者についても、「みんな一緒に越してきた仲間なんですよ。19年間も一緒に暮らしてきて、おたがいに欠点も知りつくしている。『遠くの親戚より近くの他人』っていうように、みんな親戚以上の付き合いをしている人たちばかりです。今後も連帯を強くしていきたいですね」
被災者の収容先である狛江市福祉会館でも、大部屋のなかで、全員が家族のように和気あいあいとした雰囲気で、流出物の確認に行くのに協力しあったり、見舞いの品を分けたりしていた。「従前の生活に戻ること」を目的として、被災者は、団結していくことを確認している。狛江市当局を窓口に、緊急の課題として当面の住居の確保を申し入れ、18世帯が都営住宅と都住宅供給公社の団地に入居した。補償問題については、「土地は元通りに復旧する」という建設省の方針が決まっただけで、これから、といったところ。堤防決壊の原因を中心に、訴訟にまで発展する可能性もある。
「人災か天災か」と災害のたびに繰り返されるが、今回の決壊が首都の住宅地で起こっただけに、反響は大きい。被災者側の要求と、それに対応する行政側の姿勢は、河川近くの住民だけでなく、全国的な注目を集めることになろう。 ─(中山記者、アサヒグラフ1974年9月20日号、画像も)



↑旧堤防を突き崩した激流は、河川敷を侵食し、しだいに本堤防に迫っていく(1日午後5時・左側)。雨があがった後も、濁流の勢いはおとろえず、住宅の土台を削っていく(9月2日正午・右側)。



↑ライトを浴びて浮かび上がった不気味な濁流。警視庁、消防庁、自衛隊、必死の護岸作業は夜を徹して行なわれ、かろうじて2戸の流出を防いだ。対岸の灯は川崎市(4日午後8時)



↑たけだけしく堤防や住宅地をえぐって蛇行する濁流(4日)。9月6日朝、堤防とセキを結ぶ“仮締め切り”作業が成功、流れは本流に戻った



↑水かさが減って、表面をあらわした中州に、打ち砕かれた家屋が流れ着く。営々と築いてきたマイホームが無残な姿をさらす



↑狛江市猪方の多摩川河畔に建てられた「多摩川決壊の碑」。(この画像のみ東京新聞2010年2月13日)


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