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世界の音楽 — イスラエル

2024-01-05 17:45:48 | 世界の音楽
のちに見るように、シオニストたちは、それまで民族としての同胞感情などまったく抱いていなかった各地のユダヤ人、ユダヤ教徒の諸集団のもとでヨーロッパ式の民族感情を創り出し、普及させるばかりか、彼らに共通の言語さえ整えてやらねばなりませんでした。そして、アフリカ、オーストラリア、南北アメリカにおけるヨーロッパの植民地をお手本とし、実際の移民をともなう入植地を西アジアの一郭に築く場合でも、ヨーロッパ諸国のナショナリズムとは異なり、世界中に散らばった種々雑多な人間集団のなかから入植者を養成せねばなりませんでした。しかし20世紀初頭の時点で、世界のユダヤ人、ユダヤ教徒の大部分は、自分たちがヨーロッパ的な意味における「民族(nation)」や「人種(race)」を構成しているなどとは、つゆほども考えておらず、むしろそれは、反ユダヤ主義の旗幟を鮮明にする人々に特有の考え方だったのです。

(中略)ポグロム(ユダヤ人を狙って行われる集団的な暴力・殺戮を指すロシア語)をつうじて多くのロシアユダヤ人が感じた衝撃、怒り、苛立ちは、組織的な暴力行使も辞さない非合法の急進的党派の方へますます彼らを引き寄せていきます。すでに当時のロシアの反体制運動には多くのユダヤ人が参加していましたが、ある時期以降、とりわけユダヤ人の組織であることを前面に押し出す運動も組織されるようになりました(社会主義運動「ブンド」、ポグロムに対する自衛を目的とする諸集団、そしてシオニズムの諸派)。19世紀末、 ロシアの反体制派のあいだに浸透した虚無主義の空気と人間の生命に対する軽視は、今日のわれわれの世界にも重くのしかかるテロリズムの温床となります。論者によっては、中東におけるテロリズムや、マンハッタンのツイン・タワーへの大がかりな攻撃まで含めて、テロ行為の全歴史を19世紀ロシアのイデオロギー的遺産とみなす人もいるほどです。

(中略)シオニズムのイデオロギーと実践は、必然的に、また本質的に領土拡張主義であった。シオニズムを実現するには、まず、入植者集団を養成してパレスティナの地に送り込む必要があった。それぞれの入植地の住民は、生活を始めるや否や、自分たちがいかに孤立無援で脆い存在であるかを深刻に思い知らされ、そして当然の流れとして、自分たちの周囲に新しいユダヤ人入植地が築かれることを望んだ。それによって旧来の入植地はたしかにより「安全」になるが、同時に新しい入植地が「前線」となり、今度は自分たちを守ってくれる「新しい」入植地を必要とするようになる。「六日戦争」の後、ゴラン高原とイスラエルの周囲にイスラエルの入植地が拡張していったのは、これとまったく同じ論理によるものであった。 ─(ヤコヴ・M・ラブキン/イスラエルとは何か/平凡社新書2012・原著2010)




Shlomo Artzi / Unknown Beauty (1972)
イスラエル国防軍は1950年代からレハコット・ツヴァイヨット(陸軍アンサンブル)と呼ばれる演奏グループを運営してきた(現在は廃止)。技能を持つ下士官から成り、オリジナル曲を準備して基地や野戦地を巡回慰問する。イスラエルで最も人気のある歌手や楽曲はこのシステムから生まれ、シュロモ・アルツィもその一人。中東らしさの薄い、ダン・フォーゲルバーグやケニー・ロギンスといった米シンガーソングライターに近い作風だが驚異的な創作力で佳曲多数。私は愛聴しているがヘブライ語のため国外であまり聞かれていない様子。



Ilanit / Ey Sham (1973)
地理的にアジアに属するイスラエルはアラブ諸国との対立もあってさまざまな分野でヨーロッパの一員に迎えられている。ユーロヴィジョン・ソング・コンテストには73年のこの曲で初参加して4位、78年にはイツァール・コーエンの歌うA-Ba-Ni-Biで初優勝(3番目のユーチューブ参照してください)。これに先立つ70年には日本のヤマハの世界歌謡祭でヘドバとダビデ「ナオミの夢」が優勝、「日本のみで売れた洋楽」の代表例に。



Chava Alberstein / At Telchi Basade (Walk in the Meadow) (1975)



Shlomo Artzi / Suddenly When You Didn't Come (1979)



Minimal Compact / When I Go (1985)


Ofra Haza / Im Nin’alu (1988)
パレスチナにはイスラエル建国以前からイエメン系ユダヤ人のコミュニティーが存在し、1920年代にヨーロッパから移民してきたユダヤ人はイエメン系の民謡を好み、それらを西欧化することで初期のシオニスト民謡が生まれた。テルアビブの貧しいハティクバ地区で育ったイエメン難民の女性オフラ・ハザは、代表曲Im Nin’aluなどでイエメン系民謡のリメイクを行い、この曲は米英のクラブシーンで取り上げられ国際的ヒットとなる。イギー・ポップ、ルー・リード(いずれもユダヤ系)らと共演するもエイズによる合併症のため2000年42歳で死去。



Itzhak Perlman / Theme From Schindler's List (1993)
イスラエルは世界有数の演奏家・指揮者を輩出し、特にヴァイオリンはこのイツァーク・パールマンはじめピンカス・ズーカーマン、ギル・シャハム、シュロモ・ミンツら錚々たる顔ぶれ。イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団やカメラータ楽団などオーケストラも多く、高度な専門技能を持つロシア移民やナチによる迫害から逃れた難民の受け皿になることが創設の動機の一つであったという。



Dana International / Diva (English Radio Version) (1998)
ドラァグクイーンとして芸能活動を始めた歌手による、イスラエルにとって3度目のユーロヴィジョン・ソング・コンテスト優勝曲。70年代の優勝曲と比べイスラエルらしさが希薄で凡庸なダンスポップ。



Keren Ann / Que n'ai-je ? (2004)



Ravid Plotnik / כל הזמן הזה (2017)
非常に人気があるとのことで、よくできているが特に抜きんでているわけではないヒップホップ調のオルタナティブ。


イスラエルの音楽は、国家アイデンティティを確立するため不可欠な存在として、ヘブライ語の歌や公共の歌(シラ・ベツィブル)が入植初期から体制側によって奨励され支援されてきた。各地からのユダヤ人移民はそれぞれの音楽の伝統を持ち込み、それらの融合によってイスラエル独自の音楽が形成されていった。ロシア民謡、東欧のクレズマー音楽、アラブの音楽、イエメン系ユダヤ人の音楽などであり、1960年代からは米英のロックや主流ポップスが大きな影響を持つ。

1967年の六日戦争はイスラエルの政治・外交的な地位だけでなく(それまでは社会主義的な政策により東側諸国と協調していたが、占領を恒久化したり後に核武装したことから西側諸国の保守政権や白人優越主義勢力からお手本とされるように)、同国の文化にとっても転換点となる。経済活動が活発化し、経済成長率が戦前の1%から13%に上昇。劇場が2倍に増え、レストランやナイトクラブやディスコも急増。欧米の音楽家の公演が増え、イスラエル側からも欧米マーケットで聞かれるよう目指す動きが始まる。こうした交流と多様化が進展したことで、中東の音楽らしい独自色は次第に薄れていく。



ヘブライ語の歌による国民の統合という要求により、ロック音楽が主流となってもそれらがセックス・ドラッグ・若者の怒りや閉塞感といったカウンター・カルチャーの要素を扱うことはほとんどなかった。1990年代に民営化されるまで同国のラジオ局・テレビ局はすべて国営。代表的なスターは髪をきちんと整え、兵役を経た模範的な若者であった。

こうした状況に変化をもたらした一人がアビブ・ゲフェンである(4番目のユーチューブ参照してください)。厚化粧のドラァグとして登場し、徴兵を避けたことを誇った。しかし音楽性はビートルズとピンク・フロイドの影響下にある中庸なもので、カウンターではなく、欧米の白人、そして特に日本でそうであったようにロックを「自己愛的な女性型消費≓観光・観劇・スポーツ・イベントなど体験・時間消費」の有力ジャンルに位置付ける過程であったかもしれない。

同国のシオニズムは最低でもどこか一国の帝国主義に依存しなければ成立しない。委任統治時代にはイギリス、パレスチナ分割案に際してはソ連の支持、核開発にはフランスの支持、そして建国以来一貫してアメリカの支援を不可欠とする。いま現在進んでいる最大の帝国主義は、インターネットとスマホの普及を背景とし、資本主義の最後の資源をめぐる時間争奪戦争である。人権が国家に従属する、ロシアやイスラエルの古い帝国主義が求める戦争によって、西側自由社会の掲げる人権と民主主義はダブルスタンダードの偽善に過ぎないことが浮き彫りになっている。


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