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マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

旧作探訪#110 『パピヨン』

2010-11-11 23:05:18 | 映画(レンタルその他)
Papillon@NHK-BShi、フランクリン・J・シャフナー監督(1973年アメリカ)
監獄島からの脱獄に成功し、後にベネズエラ市民権を取得した実在の男の伝記小説を映画化した、迫力満点のアクション大作。
1930年代。胸に蝶の刺青を入れていることから「パピヨン(蝶)」と呼ばれる金庫破り犯(スティーヴ・マックィーン)。彼は殺人の罪を着せられて終身刑の判決を受け、祖国フランスを追放されて、生きては戻れぬと噂される南米ギアナのデビルズ島で強制労働を科される。島へ向かう船中で、国債偽造の罪で同じ服役囚となった、芸術家肌の知能犯ドガ(ダスティン・ホフマン)と知り合い、彼のボディガードを引き受けることで、脱獄のため看守を買収したりボート等を入手するためのカネとツテを得ようと図るパピヨン。
島の環境は想像を絶するもので、生き延びるのに巧みなドガは看守とのコネを築いて減刑の機会を探るのだが、かたときも脱獄を忘れないパピヨンは、老獪な囚人クルジオ(ウッドロー・パーフリー)、ハンサムな若者だが同性愛の囚人マチュレット(ロバート・デマン)と組んで、チャンスをうかがう。
反抗的なパピヨンは密室の独房に閉じ込められ、果実を差し入れてくれたドガの名を白状するのを拒んだため2年間も半分の食事で、多くの者は衰弱死してしまう独房生活を耐え抜いた。
そしていよいよ脱獄のとき。ドガは同行せず、看守の目を3人からそらす役を引き受けたが、実行の際のアクシデントでクルジオが命を落とし、行きがかり上ドガがパピヨン、マチュレットと3人で脱走行。柵を乗り越える際、足を骨折したドガを、医療の心得のあるマチュレットが手当てするなどして、なんとか逃げ延びようとするが、追っ手の追及も激しく、やがて1人きりになって原住民のやハンセン病患者の集落へ身を寄せるパピヨンも、ついには追っ手に引き渡される。
今度は5年の独房生活。それが終わったとき、マチュレットの息は絶え、パピヨンも総白髪となるが自由への執念を失ってはいないのだった─。監獄から解放されて、いちおう自主的な暮らしを営めるが、死ぬまで出られない小島でパピヨンと再会したドガは、複雑な表情で「あんたにここへ来てほしくなかった」と─。



尖閣沖で中国漁船に追突された映像を、国民に見せないのはおかしいと思って流出させたのは「義憤」による行為なので、その海保職員が「自分は悪くない」と思うのは勝手である。
が、それに対してわれわれが喝采を送り、彼を英雄視するのは、まことに短絡的で、国難の兆しが漂っているともいえよう。
幸い今回はそれほどでもないが、下手をすると戦争を招きかねないような、国と国との問題にまつわる証拠物件。それを国民に見せようとせず、船長を釈放して、早期に沈静化を図ったのは、民主党政権の判断である。
民主党が危機管理については素人同然だというのは、すでに故・永田議員の騒動のときから分かっていたことで、それでもなお、自民党政権のままでは駄目だから、われわれが選挙で政権交代させたのだ。彼らに、負託したのである。
民主党政権が失政を行なっても、それは国民にも責任があることなので、やはり駄目だと分かったら、再び選挙で自民党政権に、いや自民党もバラバラに分かれているので、自民・公明・みんな・たちあがれとかのわけわからん連立政権にすればよろしい。
問題は、政治家はわれわれの手で選んだり政権交代させることができるが、官僚はそうではないということだ。
国という媒体・制度にまつわる、さまざまな役目に殉じる役人。公務員。公務員が役目を逸脱し、主権者たる国民が選んだ政権の足を引っ張るようなことをするのを見逃していると、やがて官僚的悪徳が国を覆いつくしギリシャ化・ビルマ化を招く気がしてならないのだが。
「事業仕分け」とかで政治家が不必要な役目を削ろうとしても、官僚は表面的に「ああそうですか」と受け流しておいて、あの手この手で予算・役職の温存を図る。しぶとい。政治家には時間が限られるが、官僚には任期がなく、いつまででも自らの利権のため取り計らうことができる。時間が彼らに味方する。彼らが長期間にわたって我田引水するうちに、われわれ国民は干上がってしまいかねないというのがオラの見立てだ。
あの神戸の航海士が刑事罰を受ける必要まではないと思うが、当然、国家公務員の職は依願退職してもらって、文春・新潮・講談社とかの国恥マスコミに雇ってもらって、突撃リポートでもすればいいんじゃないか。
で、この映画『パピヨン』を見ていて、リベラル色のある『暴力脱獄』とかよりも、もっと血沸き肉踊る劇画調のアクション大作かという先入見があったもんだから、その不屈の、2年とか5年とかの絶望的な時間にも耐え抜いて、支配からの脱出を求める人間の魂に、胸が震えた。



脱走を目論む3人、主人公パピヨンに、老獪な策士クルジオ、同性愛者マチュレット、そしてクルジオが欠けてユダヤ人ダスティン・ホフマンの演じる知能犯ドガが加わる。この構図が、それぞれ代表的人類だという気がする。
南米のジャングルではことに顕著だが、地球は、人類に対して優しくない。人類は、ほかの動物に比べ、肉体的にはとても貧弱。しかし、くじけない魂がある。近眼で、やや体力の劣るドガは、脱走よりも、さまざまに工夫して計らって、看守と持ちつ持たれつの関係を築こうと。最後の「絶対に出られない小島」でも、野菜を育てたり動物を飼ったり、それなりに生きようと。そんなドガが、檻の中では絶対に満足しない、たとえ死ぬことになっても自由をつかもうと苦闘するパピヨンに向ける視線はまぶしそう。「大きな人間」。人類はいかに生くべきかを示せる人間。
ひるがえって、オラ深夜に酒飲みながら自分のブログを見たりするんですが、深夜に食べると胆石系に要注意ですが、先日の「マガジンひとり on Twitter - Vol. 5」など、つくづく小さい人間だと思わざるをえない。ことに、再三にわたって横浜ベイスターズ等プロ野球の凋落をおちょくってるあたり。
オラだって子どものころは野球をやったし、プロ野球選手を英雄視したし、さんざん野球のおかげで楽しませてもらったのにね。『闇金ウシジマくん』の進行中のエピソード「トレンディーくん」の主人公・鈴木斗馬(とうま)32歳が、苗字もそうだけど、人相がどこかイチロー選手と重なるように思えて。
リア充のモテ男なのだが、努力家なんだよ。コツコツ積み重ねる。人に接するのに長じるための「ひとり焼肉」↓はどうかと思うが。
やっぱり、われわれの時代の代表的な野球選手が、努力型のイチローでよかったと思う。それは、彼のように生きたいと思わせ、将来にわたって影響をおよぼす、代表的日本人=「大きな人間」だから。
直接的な子どもがいるとかいないとかより、たとえ小さくても、大きくなろうとする気持ちを死ぬまで持ち続けることが大切ではないだろうか。

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旧作探訪#105 『ヨコハマメリー』

2010-09-11 23:28:24 | 映画(レンタルその他)
@レンタルDVD、中村高寛監督(2005年・日本)
歌舞伎役者のように顔を白く塗り、白いドレスに身を包んだ老婆が、ひっそりと横浜の伊勢佐木町界隈に佇んでいた。
かつては占領軍の将校相手の美人娼婦だったというが、今は住む家もない。その風変わりな姿は、いつしか横浜の街の風景の一部となり、人びとは彼女を“ハマのメリーさん”と呼ぶようになった。1995年の冬以降メリーさんの姿は街から消えたが、メリーさんの思い出を語る馴染みの人びとも、彼女の消息を知らない。
これがデビュー作となる中村監督による、メリーさんとゆかりのあるさまざまな人びとへのインタビューと、かつてのメリーさんを捉えた数少ない写真から、一人の女の数奇な人生が浮かび上がる…。



きょう谷啓さんが亡くなったという。オラとしては、さまざまあれど、彼の仕事で最も印象深いものとして、米アニメの日本語吹き替えでチャーリー・ブラウンの声を担当したことを挙げたい。男の子の声を大人の男性が担当するのは、わりと珍しいことだと思うが、妙にはまっていて。
昭和40年前後に生まれた子どもとして、NHKで放映されたそのアニメを見ていた人になら共有していただける感覚だと思うのだが、人それぞれ、彼の姿をしのぶにあたって違う場面を思い出される方もいましょう。人それぞれといえば、先週に、突発的に弊ブログのカウンターが1000を超えたことがあって、増えた分の8割くらいが例によって岡崎聡子特需、2割くらいは初めての「山本志織特需」だった。ほら、7月終わりに山本さん出演のイベントのため水戸まで出かけたじゃんよ、それがどうしたわけか今になって。
どうやら2ちゃんねる的な掲示板で、「いい年して山本志織に明け暮れるなんてみっともない」的な例として取り上げられたらしい。別に、明け暮れてないんだけどさァ…今夏はなんにも予定がなかったもんで、意図的に盛り上げていこうと…。
ま、いっかァ…みっともない汚やじと思われることくらい、生きていれば、いろいろありましょう。おそらくお若い、といっても20代が山本志織に興味持たないと思うので、30代くらいかとも思うが、彼らにとってヨコハマ・メリーさんとかは、どのような感慨を起こさせるのだろうか。
いかなる経済状態だったのかホームレスで、↑画像のように雑居ビルの片隅でパイプ椅子を組み合わせた上に眠る。背中の曲がった、白塗りの、奇妙な老婆。米軍相手の“パンパン”だということは知れ渡っていたらしく、行きつけの美容室では、メリーさんが来るなら私は来ない、というような声にも押されて来店を断らざるをえなかったのだとか。95年、74歳のとき姿を消したのは、見かねた知人が話をして、郷里の老人ホームへ入ることになったらしい。
にしても、長いあいだ家もなく、彼女を横浜中心部の路上へ駆り立てたものがなんだったのか、みっともなくもごく一部の方のご愛顧を受けて続けております弊『マガジンひとり』と同様、生きたい!!わたしは生きている!!との心からの叫びだったのでわ。
年をとれば衰えるのは人間の宿命だが、高齢になればなるほど個人差もまた大きい。健康かどうか、気力・体力、お金、家族構成、人間関係、地域性─。ぼけ防止には、「段取りを組む」必要のある旅行や料理をするべきです─と曽野綾子が述べるのは、いかにもそれらに恵まれた保守派の見解として反発を感じるが、逆に、墨田区で生活保護を受ける老人が群馬県渋川市の無届け老人施設の火災で何人も亡くなったとか、さらには愛知や岐阜で広まる「寝たきりアパート」の件などを聞くに、個人の気力や自己責任を重視するべきだとする曽野綾子のような見解にも耳を傾けざるをえない。そして、いまや、そうした風潮は高齢者だけでなく、子ども・若者・中堅層をも覆い、ただ普通に生きることですら困難さを増しているようだ。
「暮らしていけない」─それでも生きなければならない。

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旧作探訪#103 『ベティ・サイズモア』

2010-08-16 23:37:41 | 映画(レンタルその他)
Nurse Betty@レンタルDVD、ニール・ラビュート監督(2000年アメリカ)
きっかけは無邪気な憧れだった…。
カンザスの小さな軽食店でウェイトレスとして働くベティ(レネー・ゼルウィガー)は、親切で誰からも好感を持たれていたが、夫のデルは隠れて浮気をし、副業としてドラッグを売りさばくなど粗野な男だった。ベティは、病院を舞台にした昼メロドラマ『愛のすべて』を見るのが楽しみで、仕事中にも店のテレビに釘づけになってしまうほど。
そんなある日、ドラッグ絡みのトラブルで二人組の殺し屋チャーリー(モーガン・フリーマン)とウェズリー(クリス・ロック)が夫を惨殺するところを目撃し、精神の均衡を保てなくなったベティは、自分が看護婦で、ドラマの主人公のハンサムな医師デイヴィッドが彼女を待っていると思い込み、車でハリウッドへ向かって、ついにはデイヴィッドを演じる俳優ジョージ・マッコード(グレッグ・キニア)とも対面する。しかし、殺人の現場を見られたことに気づいたチャーリーとウェズリーも、彼女の行方を追いかけてくる─。



NHKの『7時のニュース』を見ていて、見たくないニュース、たとえば小沢征爾が復帰するとか、カーリングの女がチームを移るとかの話題が長く続きそうになると、しばらく他のチャンネルに替えようとリモコンを操作する、そのとき無意識のうちにNHK教育、次いでテレビ東京を優先し、それ以外の民放を避けるように習慣化されていることに気づいた。
夜7時台の民放の番組は、NHKのニュースを見ていない層、ニュースを見るとしても民放が夕方にやっている死ぬほどくだらないニュース番組でも別にかまわないと考える層を相手に作られている。ゆえに、島田紳助はあのように振る舞うし、他も大差ない。ひと目見るのも汚らわしい。
といってNHKの7時のニュースも、土日は民放が夕方のニュース番組をやらず、差別化を図る必要もないためか、構成がバカっぽくなるようだ。山本志織はかわいいんだけどね。
テレビ番組も相互作用である。みのもんたや紳助も、最初からあのように横暴だったわけではない。紳助なんか、コントで女装して明石家さんまのホテルの部屋から締め出されまいとくるくる回って、倒れて一言…「寒い…」。
ええ、彼は立派なお笑い芸人さんでした。視聴者が甘やかすから、だんだんと増長して、あんなふうに。それはまた昨今の政治風景とも深く関わっている。酒場などでほかのお客の会話を聞いていると、東国原が口蹄疫と戦うとか、橋下が大阪維新で戦うとかを、まるでテレビ番組のヒーローのごとく捉えて、我がことのように思い入れて、応援している人が思いのほか多いようだ。また、そういう人たちに限って、民主党や左派の政党を敵視する向きも強いように感じる。
このように、無力で無名な自分に代わって、テレビタレントや政治家が、司会するとか、筋書きを書いて他人をプロデュースするとか、あるいは何かと戦うとかのヒーロー待望論は、独裁政治や戦争にわれわれを導きかねない、民主主義の危機的状況の表れではないだろうか。
この映画の中で、レネー・ゼルウィガー演じるベティは、病院へ潜入して、運び込まれてきた救急患者に応急処置するとか、熱烈でリアルな思い込みぶりを買われてドラマ本編にも出演することになるとか、すべてがとんとん拍子に進む。終盤に、彼女が夢から覚めてからの展開も緊迫感あって、巧みな脚本だが、それは見るからに善良そうだが完璧な憑依能力を持った優秀な女優レネー・ゼルウィガーあってこそ成立する。現実のアメリカでは、優秀な俳優を育てるのはたいへんだしお金もかかるので、もっとだらしなくて、脈絡もよくわからないような素人さんを出演させてリアルな反応を消費する「リアリティ番組」と呼ばれる形態の番組が増しているようだ。そこには、芸能界やスポーツ界や軍隊といった育成システムが、潤沢な予算などお金が回っている経済状況に依拠したものであるという現実もかいま見える。結局のところそのお金というのはわれわれがお客さんとして払うお金だったり国民として払う税金だったりするので、そうした、薄く広く集めた大きなお金を左右できる利権を死守すべくテレビ局や政治家のみなさんが劇場型政治を行うための、マスコミ=政治権力の源泉といっても過言ではない。この集金システムがうまく運ばなくなってきているのが、現今の若者の雇用状況の悪化やテレビ離れにも結びついている。
彼らが地デジの普及に血眼となるゆえんだが、島田紳助とか大河ドラマとかだったら、画質をよくする以前の問題だと思うよん。
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旧作探訪#101 『愛についてのキンゼイ・レポート』

2010-07-27 23:02:17 | 映画(レンタルその他)
Kinsey@レンタルDVD、ビル・コンドン監督(2004年アメリカ=ドイツ)
誰もが一度は考えたことがあるのではないだろうか。いったい世の中の人たちは、どんなセックスをしているのだろうか? 自分の性欲や愛し方、あるいは自慰行為は普通なのか、それとも少し変わっているのか、まったくの変態なのか? そんな疑問を350の質問にして1万8千人を面接し、答えをまとめた報告書が存在する。それが、1948年に男性版、53年に女性版が出版されて世情を騒然とさせた『キンゼイ・リポート=Kinsey Reports』だ。
調べたのは、動物学者のアルフレッド・キンゼイ博士(リーアム・ニーソン)。今から50年前、性のことは口にするのもタブーだったアメリカで、キンゼイは助手と一緒に各地を旅し、さまざまな年齢・職業の人びとに直接インタビューを行った。キンゼイは、相手が心を開いて正直に話してくれるように開発した独自のインタビュー方法で、数々のプライベートな秘密を聞き出すことに成功した。
こうして史上初の、誰もが知りたかったのに誰も聞けなかった他人の性行動をまとめた『キンゼイ・リポート』は、今もなお有名なほどのベストセラーとなったが、同性愛などの背徳的なことを明るみに出したことで、キリスト教保守層を中心に反発を受けることにもなった。やがて研究を支えたロックフェラー財団からの援助が打ち切られ、失意の中、研究を続ける彼は、喜びも悲しみも共に分かち合い、魂で結ばれた妻のクララ(ローラ・リニー)に導かれて、科学を超えた境地にたどり着く。そこで彼が見つけた答えとは、《愛は決して数値化できない》ということだった…。



♪相方は~~ドラマ連発!ビールのCM!スポーツキャスター!!と、かっこいいところを独占するのに、自分はスモウライダーとしてお相撲さんの姿をして原宿などで羞恥責めされなければならなかった極楽とんぼ・山本圭一。
事件を起こして芸能界追放となったことに同情を禁じえないのだが、いまも活躍する相方の加藤浩次との決定的な資質の差を感じさせ、事件への予兆ともなるようなトークが、かつて極楽とんぼとしてやっていた深夜ラジオで聞かれた。

加藤─オレ今でも写真とか映像とか見ないで、想像だけでオナニーすることあるよ
山本─あ、そう!? オレなにか見ないでしたこと、1回もない

あるいは同じTBSラジオで、もっと深い時間帯にやっていたスピードワゴンの番組では、後に離婚することになるが安達祐実と結婚して子どももできていた井戸田潤に対し、「中出しを1回もしたことがない」という相方の小沢一敬が、中出しってどんな感じなのかを聞いていたのが印象深い。オラも1回もないので。
オナニーのやり方のせいもあるんだろうけど、38才以降シロート童貞ではあるが童貞を脱して、女の膣内で摩擦運動をしてみたものの、中でイッたことないですね。さぞ気持ちイイんでしょうね。
そうした最近の例はともかく、先日の「ゆめ禁色」で述べたとおり高2でC野くんを好きになってから、10年近くはホモホモ期が続いたオラなので、その悩みは深かったものだ。深夜ラジオで就職してから聞き始めた番組としては長寿の『コサキン』があるが、下ネタはやや少なかったし、高校から聞いていた『ビートたけしのオールナイト・ニッポン』もたまには聞いた記憶がある。その頃のたけしは、一番弟子となった現・宮崎県知事を筆頭に、体育系のむくつけき男どもを集めて“軍団”を形成しつつあった。中でもグレート義太夫やラッシャー板前は、ガチンコのホモに好まれそうな風貌ではあったが、なんにでもチャレンジしてみなければ気の済まないビートたけしが、ホモっ気のない自分でも男が抱けるかどうか1回くらい試してみようと、あの中ではわりと線の細い柳ユーレイを相手に試みた経験を語っていた。
いまの、老人になってもあつかましく出しゃばるたけしにはいい加減ウンザリだが、過去のそれは彼に「科学する心」が確かにあったことを示しているし、ほかのお笑い芸人に比べ長持ちするだけのスケールの大きさを備えていたことは否定できない。
ホモっ気のない者が、ホモを差別したり忌み嫌うのはありがちな中、あえて試そうとしたのだ。柳ユーレイの意志はどうなるのかって問題もあるけどね。この映画のキンゼイ博士も、父親から厳格なキリスト教の教育を受けたことに反発して生物学の道へ進むのだが、勤めていた大学で相談を受けるうち、そうした性の問題をタブーとして覆い隠す旧来の道徳が、逆に不倫、同性愛、強姦、望まぬ妊娠、性病、子どもへの性的虐待などの温床となって、悩み苦しむ者が後を絶たない現状となっているのを知り、科学者としての信念からも隠されてきた問題を明るみに出そうとしたのが『キンゼイ報告』だったのだ。
ことに↑画像の「キンゼイ・スケール」では、同性愛傾向があるかどうかを0から6まで7段階で数値化し、通説より相当多い男性にその傾向があることを示したのだが、サンプルが偏っていたり面接という方法からも批判を受け、姦通や同性愛を法律で禁じることも多かった当時の風潮では、過激派あつかいもされた。事実、映画の中でも、助手を務めた青年がホモなので、誘いに応じたりとか、助手が異性愛に移行しつつあって妻クララと寝たいと申し出るのにも応じさせたり。
彼自身、両性愛や夫婦交換など乱脈な性関係に惹かれて、他人の性行動の研究にのめり込んだということは動かしがたい事実のようだが、それでも当時の社会的思潮に風穴をもたらした、過激な改革者としての存在意義が減じることはいささかもないように思われる。
ただし、教育テレビなどの30分程度の教養番組でも十分で、前の『ゴッド・アンド・モンスター』といいコンドン監督はホモ題材がお得意のようだが、わざわざたくさんの才能ある俳優・スタッフを動員して映画という形にまとめるのがふさわしい題材とも思えない。事業仕分け。2時間近くのこの映画を見るより、キンゼイ博士のことはネットで済ませて、筒井康隆センセの「泣き語り性教育」という短編小説を読むのが、面白いかどうかでいったら、圧倒的に面白いと思います。

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旧作探訪#97 『トゥモロー・ワールド』

2010-05-16 23:44:20 | 映画(レンタルその他)
Children of Men@レンタルDVD、アルフォンソ・キュアロン監督(2006年イギリス=アメリカ=日本)
子どもが誕生しない未来─このままでは、地球を受け継ぐ者は、誰もいなくなる。
西暦2027年11月、人類は希望を失い、多くの国が無政府状態となるなど恐慌におちいっていた。女性の出産能力が失われ、18年間も子どもが生まれないのだ。
イギリス政府も世界中から押し寄せる不法移民を警察や軍によって厳しく取り締まるが、日に日に治安は悪化していた。世界最年少の青年がアルゼンチンで刺殺されて絶望に包まれたこの日、ロンドン市街地で爆弾テロが発生し、英国エネルギー省に勤めるセオ(クライヴ・オーウェン)はすんでのところで難を免れる。
翌朝、セオは出勤途中に過激派グループ「フィッシュ」に拉致される。そのリーダーはかつての妻ジュリアン(ジュリアン・ムーア)で、彼女の要求はある不法滞在者の「通行証」を手に入れることだった。渋りながらも、従兄弟の政府高官から通行証を手に入れるセオ。検問所を突破するためジュリアンと共に乗り込んだ乗用車で、セオが引き合わされた不法滞在者は若い黒人女性、キー(クレア=ホープ・アシティー)だった。
検問所に向かう途中、セオたちの車は暴徒の襲撃にあい、ジュリアンが撃たれて絶命。組織のアジトに逃げ込んだセオは、キーから衝撃の事実を告白される。なんと彼女は子どもを身ごもっており、間もなく出産を迎えるというのだ。セオは彼女を連れ、命がけの逃避行を開始する…。



先日の『月に囚われた男』が意外につまらなかったので、海外での評判を調べようとネット検索。2000年以降のSF映画をランク付けしたサイトで15位とのこと。そこで堂々1位に輝いたのが、この映画。SF冬の時代といえど、10年間の1位となるような映画の題名に覚えがない。
『Children of Men』─わが国での題名は『トゥモロー・ワールド』。チラシの宣伝文句といい、バカしか相手にしてない感じなので、目に入ってませんでした。
で、内容はすごくいいです。久しぶりにきっちり細部までお金をかけて情熱かたむけて構築された新作のSF映画を見た感じ。映画館で見たらさぞかしの迫力でしたろう、キング・クリムゾン、マーラー、ジョン・タヴナー、ジャーヴィス・コッカーといった音楽も効いている。
細部を作り込んだ壮大なSFといえば『2001年宇宙の旅』が古典中の古典とされるが、早稲田松竹でかかったのを見て、映画としての完成度はともかく根底をなす世界観としてはトンデモ。人類が宇宙へ旅立って、「次のステージ」へ進化するとかの。
神を殺して、人類が神の座に就くというような、現実を踏まえない誇大妄想にも似た。
対照的にこの映画は、人類は地球の新参者に過ぎず、次の時代には生き残ることさえ許されないかもしれないとわれわれに問うのだ。



人類は火や電気や原子力、エネルギーや道具の文明を発展させて地球上に満ちあふれたものの、生きものとしての基本は変わっていない。勃起した陰茎を膣内に挿入して精子を卵子に受精させ、十月十日かけて母胎から出産するという方法でしか増えることはできない。
その場合、胎児に栄養を吸い取られ、命がけで出産しなければならない女性が主導権を握るのは当然。↑の竹内久美子がだいたいどの文章でも同じことを言っているとおり、林真理子や上田美由紀のようなドブスといえど、女の側に男を選ぶ優先権がある。



↑「助産婦さんがいい女なら結婚しちゃるわい!!」などと言う諸星あたるも、高橋留美子が「いっぱい種をまける男性」として理想化を施した主人公であるがゆえ、そのような言動が許される。通常男子には、選り好みは許されない。まして並より劣った遺伝子しか持たぬオラは、45才までシロート童貞に甘んじなければならない。
つまり、この映画は現実を描いている。人類が生き残れるかどうかの瀬戸際の現実を。2027年に生き残れるかというのは、あなたやオラ個人が生き残れるかということではない。あなたの子どもやオラの親戚が生き残れるかというのとも、ちょっと違う。
たとえ自分や自分の家族や日本人が滅んでしまっても、アラブ人やアフリカ人など、とにかく人類が生き残ればいい。そのために身を捧げましょう、という。
口で言うのはたやすいが、現実には自分の利益ばかりが追求される世界。江副浩正・秋元康・折口雅博・笠原健治─汚い汚っさんが若い女を食いものにし、まして外国からの移民の命などゴミのようにあつかわれる新自由主義。だんだんと女が安心して出産できない世の中になりつつあるのは洋の東西を問わない。
そこのところを、いったん立ち止まって、種としての人類という原点に戻って考え直してみましょうと触発する映画として万人に推奨したいものの、わが国で公開当時バカしか見ないような宣伝だったのは、先に挙げたような人たちがマスコミ・広告業界を牛耳っているためかもわからない。

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旧作探訪#96 『レッツ・ゲット・ロスト』

2010-05-01 01:11:36 | 映画(レンタルその他)
Let's Get Lost@VHSビデオ、ブルース・ウェバー監督(1988年アメリカ)
1950~60年代ジャズ界のスモーキーな夜に明りをともした、理由なき反逆児、すさまじいトランペッター…チェット・ベイカーの私生活はまさに修羅場。それをエキゾチックな白黒で撮影したウェバーのやり方こそ、ベイカーを描く唯一の方法であり、この映画を前にしてはカラーが発明されたかどうかは関係なく思えてくるほどだ─マイアミ・ヘラルド紙。
1989年5月13日、アムステルダムのホテルの窓から謎の転落死を遂げたトランペッター、チェット・ベイカー。ジャズ、女、麻薬、そしてチェット。破滅型の彼に魅せられた女たちの間には、男と女の裏切りや葛藤、それでも残る愛情もほの見える。織りなされた赤裸々なドラマは見る者を戦慄させ、彼の人生と音楽が不可分であったことを伝えてやまない。
ファッション・フォトの第一人者ブルース・ウェバーが白黒の鮮烈な映像美で描いて、ジャズと映画の新しい地平を切り開く迫真のドキュメンタリー。



この絵「テレクラくん」の吉永美代子は、登場したころは前歯もそろっていたが、こうなってしまっては売春する値段も暴落。ホームレスが千円で買って仲介者=もっと歯のボロボロな“肉まんま”=が半分持っていくので、手取り500円。
オラぁただでも御免こうむる、こんな女。関わりたくないというか、オナニーでもしたほうがよっぽどマシだ。
オナニーといえば、それらを中心とする下ネタ・トークに定評のあるケンドー・コバヤシが、ウシジマくんのために買ったスピリッツ誌のインタビュー記事で語っていた。ボク、漫画の原作を1コ考えてるんですよ、男子が自分のオナニーの手の上下運動の速さでタイムワープするっていう、誰か描いてくれませんかね─。
余計なことだが、そのアイデアは、初期のいがらしみきおが既に使った。それも、たった1本の四コマ漫画で使い捨てたのだ。どちらが真の天才なのかは明らか。
いがらしみきおの四コマ漫画には、他にもちょっと忘れ難いインパクトのあるものが数え切れないほど。そうしたやり方を長く続けることはできなかったが、同じように短編で惜し気なくアイデアを使い捨てた筒井康隆も彼も、音楽ではジャズを好む。
ジャズとはまさに、そうした音楽ではないだろうか。作曲された音楽というより、瞬間瞬間でどのように演奏するかがすべて。一瞬に賭け、その場の者と分かち合ってしまえば、後になって再現できるかどうかは問わない。コツコツ積み重ねる貯金型の音楽とは価値観からして対極にあるといえよう。
当然それは生き方にも表れる。チェット・ベイカーの演奏活動の初期、ジェリー・マリガンのバンドに入った彼は譜面が読めず、練習もあまりしなかったとされるが、舞台では輝くばかりのソロを吹いて人気をさらった。同じトランペットのマイルス・デイビスも一目置くほどで、チェットと映画のための録音で共演したハービー・ハンコックも「ファースト・テイクの新鮮だったこと!!コードに付いていくことを生まれながらに知り尽くしているかのようで、音符がコードを軸にくるくる回転していた。彼の直感は傷ひとつなく、音の選択は完璧だった。そこにほとばしる彼の心、私の奥深くで感じた温もりを忘れられない」と語る。
私生活でも常に美人を伴い、お金のない時もいい車に乗り、いつも素敵な犬を連れていたとか。そして麻薬。コカインとヘロインを混ぜた“スピードボール”と呼ばれる危ない薬でラリって、暴力沙汰もしばしば、刑務所にも入った。アルバム『Chet Baker Sings』などのヴォーカル曲で聞かれる、中性的でソフトな歌声からは想像しにくいが…。
さらに1968年ころ、麻薬のことでヤクザ者から襲撃され、殴られてアゴに大怪我、医者にかかったが歯をすべて抜く破目となった。演奏ができなくなり、3~4年間はガソリン・スタンドで長時間のアルバイトをしたり厳しい日々だったという。しかしその間に練習を積んで義歯で演奏できるようになった彼は、ディジー・ガレスピーの尽力で音楽活動にも復帰。彼を敬愛するエルヴィス・コステロさんの『Punch the Clock』の中でも吹いてましたね。
レッツ・ゲット・ロスト。考えてもみれば、食べたり話したり生命活動の基本に影響大な永久歯は、いったん失ったら2度と生えてこない。ウシジマくんの中で歯を失ったり失わせられたりの場面が多いこともうなずける。
時間のようなものだ。過去から未来へ一方向のみに流れ、過ぎ去った時間が戻ることは決してない。常に瞬間に燃焼するやり方で生きてきたチェットは、映画の中でインタビューを受けて過去を振り返らされるのがつらそうで、撮影中にも5日連続で麻薬にふけって心配されていた。転落死の一因ともなったかもわからない。

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旧作探訪#76 『アメリカン・ヒストリーX』

2009-10-18 23:21:48 | 映画(レンタルその他)
American History X@レンタル、トニー・ケイ監督(1998年アメリカ)
兄さん、僕たちの物語は、憎しみの歴史にピリオドを打てるだろうか─。
デレク(エドワード・ノートン)はかつて高校の優等生だった青年。しかし、消防士の父が黒人に殺されたことをきっかけに、白人至上主義の活動にのめり込んでいく。限界まで鍛え上げた肉体、左胸にナチス崇拝を意味する鍵十字の入れ墨を彫り、マイノリティを攻撃することに怒りのはけ口を見出すデレク。そんな彼に強烈な憧れを抱く弟ダニー(エドワード・ファーロング)は、兄のデレクが黒人に対するエスカレートした憎悪から犯した殺人で、刑務所に入れられた後、兄の意志を受け継ぐかのようにその活動組織に足を踏み入れていく。やがて3年の歳月を経て、デレクが出所した。獄中で何があったのか、別人のように変わってしまった兄の姿を見て困惑するダニー。この後、二人の兄弟に想像を絶する事件が待ち受けていた…。



「カウチポテト族」なる言葉があったっけ。ポテトチップスこそ食べないものの=あ、たまには食べます=くつろいで寝そべって、コーヒーなど飲みながらレンタルDVDを見る。「旧作探訪」ではすでに定評のある映画を見ることが多いので、物語が進むにつれ、興奮して立ち上がったりしゃがんだり、うろうろ歩き回ったり、ということが5回に1回くらいは起こる。この映画。
寝そべってはいられない。主要なテーマは2つ。「兄弟や家族」と「人種差別主義」。親兄弟がおらず、日本から出たこともないオラにはどちらも関わりの薄い。それらを緻密に重層的に描いて、我がことのように感じさせ、寝そべっていられなくさせる、すばらしい映画。重大なテーマで、かつセンシティヴな問題を多く含むので、こればかりは先週の『エル・マリアッチ』のような低予算で済ませるわけにはいかない。プロの俳優と専門のスタッフをたくさん雇って、できるかぎり最善をつくさなければ。中でもすごいのが、ハリウッドきっての演技派ともされているらしきエドワード・ノートン。極右組織を操る初老の男からも、特にそのカリスマ性を見込まれて、表向きのリーダーを打診されるほど。それが打って変わって刑務所では…。そのあたりを、弟が黒人教師からリポートの書き直しを命じられて、過去を回想する形で、モノクロ映像で描き出すというやり方も秀逸。
この中から後に「カリスマ性」や「心酔」といったテーマに絞って、エドワード・ノートン自ら製作・主演で描いた『ダウン・イン・ザ・バレー』も印象的な佳品でした。副次的なテーマを、後から掘り下げて1本の映画にまでふくらませる姿勢は、たとえば『闇金ウシジマくん』の以前のエピソードでさりげなく描かれたことが、ずっと後のエピソードで中心的に描かれるのとも似た。現在の「楽園くん」の主要な題材である覚醒剤は、初期の「若い女くん」でも軽く描かれたが、もっと掘り下げて描くべきだと踏んで温めておいた作者の誠実さに拍手を贈りたい。
この映画にも『闇金ウシジマくん』と共通するテーマが随所に見られ、その最たるものは「悪意や憎悪はいったん始まると連鎖して歯止めが利かなくなる」ということであり、またその土壌となる、貧困、酒、煙草、麻薬、入れ墨、銃といったものども…。その延長上にカリスマ、あるいは教祖といったものもあるのは、われわれとも無縁ではない。
極右・白人至上主義の人びとが演説をぶつ口調には一定のパターンがみられる。《あなたがた善良な白人の職を、黒人とか不法入国者とかが奪う。あなたがたは悪くない。黒人やユダヤ人やアジア系やヒスパニック系が悪いのだ》。媚びがみられる。テレビの司会者や、日本人の音楽からも同じものが感じられることがある。さだまさしなどの音楽のイントロや歌い出し、あるいはみのもんたや島田紳助の話法に。関係が薄いということはない。デレクとダニーの兄弟や家族や仲間たちは、われわれとも近しい隣人だ。

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旧作探訪#71 『ブレードランナー』

2009-09-13 23:10:17 | 映画(レンタルその他)
Blade Runner@VHSビデオ、リドリー・スコット監督(1982年アメリカ)
2019年、400階建ての超高層ビル群がそびえ立つ米ロサンジェルス。人類はすでに地球外へも基地を築いていたが、そこで使役するのに“レプリカント”と呼ばれる人間以上の体力と知力を持つアンドロイド(人造人間)を開発製造したのがタイレル社。彼らは感情を持たないが、やがて持ち始めるともされており、それを防ぐために寿命は4年に設定されている。そんな彼らはしばしば反乱を起こすので、地球に舞い戻った彼らを探し出して識別し抹殺するのが“ブレードランナー”と呼ばれる特殊な捜査官だ。
リック・デッカード(ハリソン・フォード)もその一人。彼はすでにその仕事を辞めていたが、ネクサス6型のレプリカントが4名、スペース・シャトルを乗っ取ってLA近辺に潜伏するという事件が起こったため、元上司のブライアントはブレードランナーとして能力の高いデッカードに白羽の矢を立てた。
強引にこの事件を引き受けさせられたデッカードは、ただちに製造元のタイレル社に赴く。社長のタイレル自身からネクサス6型レプリカントについて情報を仕入れるためである。タイレル社は700階建てのピラミッド型。オフィスには謎めいた美女(ショーン・ヤング)がレイチェルと名乗ってデッカードの気をそそった。タイレルは、調査に協力する前にレイチェルをテストしてみては?とデッカードに挑戦してきた。半信半疑で受けて立ったデッカードだったが、100以上の質問を重ねたあげく、ようやく確信を持つことができた。彼女もまた、新型のレプリカントだったのだ。
その間に事件のレプリカントたちは、混沌とした街の人込みの中に消えていた。リーダー格のロイ・バッティ(ルトガー・ハウアー)には、ある計画があった。しかし、名うてのデッカードもまた彼らを探し出して死闘を繰り広げ、1人ずつ始末してゆく。いよいよ最後に残されたバッティとの対決において、デッカードは彼らが地球に舞い戻った目的と、壮絶な運命を知ることになる…。
フィリップ・K・ディックの原作、シド・ミードの美術デザイン、ヴァンゲリスの音楽など、宇宙船を舞台とする単純なアクションものがSF映画の主流だった中にあって陰鬱な近未来を提示し、その後に一大潮流を巻き起こした金字塔。



慶應義塾の創立者は言った。天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、身分の貴賎なく平等であると言われているが、人の世には賢い者も愚かな者も貧富の差もある。その次第は明らかである。学ぶと学ばざるによって差は生まれる。異人から侵略されたくないなら学問を積んで国を豊かにしなければならない。
いま慶應義塾で教える竹中平蔵は、政治家に働きかけて、やがて自ら政界に入って人材派遣を完全自由化させる道を開いた。そうしておいて人材派遣最大手の企業の会長に就任。いったい彼は創立者の理念を守っているといえるだろうか。福沢諭吉の言葉を注意深く読むと、実はその中にすでに竹中平蔵の萌芽を見ることができる。諭吉が国を豊かにすると言うのは、西洋列強への対抗上である。学ばない者は、食いものにされても仕方がない、支那のように侵略されても仕方がない、とまで考えているかもわからない。功利主義のうかがえる、ろくでもない学校といえよう。
神は人を平等に作ったはずだが、現実にそうでないのは学ぶ学ばないの向上心に違いがあるから。諭吉の言葉の含みとしてある「向上心」が、竹中では「上昇志向」に変わっているのだ。後者の場合には「他人を引きずり落としても」という含みがあり微妙に異なるが、論理巧者の竹中であればどうにでも言いくるめるでしょ。
しかし、諭吉の言葉を厳密に見れば「生まれついての不平等」を作ることが許されるのは神のみ、と捉えることも可能。神のみが許される。
最近の労働問題、親から子へ引き継がれて格差が固定化される貧困の問題を考えたとき、はたとこのSF映画の傑作に思い当たったわけです。
ブレードランナーのデッカードは、タイレル社の美女レイチェルが、改良されて精密に作られたレプリカントであることを見抜くが、彼女に惹かれ、情交を持つ。
不思議だ。このあたりも《デッカードも実はレプリカントだった説》に結びつくのかもしれないが、たとえどんな美女でも人造人間を相手に勃起するでしょうか。まあダッチワイフで自慰する人もいるけどねえ。オラ精密なフィギュアをいっぱい集めてきたじゃん。興味ある人は「フェミニン」のカテゴリーをさかのぼって、くだらない文章は無視して画像をご覧あれ。自慢ですが日本でも(=世界でも)屈指のコレクションよん。ですが、それらを見て一度だって勃起したことはない。半勃ちにさえならない。
マンガや絵で勃つことはひとまず措いて、フィギュアたちは人間に似せて作ってあるが人工物。無生物。レイチェルが美女でも、彼女には子ども時代がない。今ある形で製造された。もちろん生殖できない。
これはたいへん重要。性器を摩擦して気持ちよくなるというのは、子孫を残すことのためのご褒美として天から贈られた。子孫を残せないレプリカントたちというのは、そのあたりどのように設計されているのか。すべてタイレル社による。レプリカントの一人、女性型のプリスは兵士のための慰安用として「かわい娘ちゃん」仕様。



すべては人間の都合。人間にできないような過酷な労働をさせるため。それには「感情」は邪魔なので、持たないよう作ってあるが、タイレル社長の創造した彼らの脳は優秀で、やがてそれに似たものを宿す。4年間で終わる自らの運命を呪い、悲しみ、バッティはタイレル社長へ面会し、自分や愛するプリスの寿命を延ばせないのか問いただす。答える社長の言い草が、まるで竹中平蔵のように厚顔。彼らを何だと思っているのか。神でもないのに、生き物に似て生き物といえないものを作ってしまった責任。
生命が生まれた理由って何でしょうか。地球の初期の頃から引き継がれた遺伝子。遠い将来まで子々孫々。どうやら最近のバイオ・テクノロジーでは、ウイルスや原始的な微生物なら人工的に作れるようにもなってるとか。『復活の日』みたいなことにならなければいいが。ともあれバッティはタイレル社長の言葉を聞くと「生命工学の神がお出迎えだ…」と言って、彼らを開発製造した責任者を手にかける。ところがそんなバッティも、仲間をすべて殺したデッカードといよいよ邂逅、壮絶なファイトを繰り広げるものの、最後に自らの記憶をデッカードに伝えて、静かに目を閉じる…。子孫を残せない彼らも、生き物だった。何かを伝えたかった…。
4人のレプリカントの中で最初に殺されるゾラは、場末に潜伏して蛇つかいの芸を見せて稼ぐ。大蛇。本物か?と問うデッカードに彼女は、「本物は高くて買えないわよ」。
この映画における経済は、天然ものより人工生命が安い。みなさん。もうオラの言いたいことがおわかりですね。現実には、人間そっくりなアンドロイドを作るなんて、気の遠くなるような時間と資本が必要。2019年にはとうてい実現しない。人間のほうが安い。派遣労働を自由化して、生身の人間を使い捨ての労働力とすればいい。
ブレードランナーはかなり正確に近未来を予測した。竹中くんが映画を見てタイレル社長の殺される姿に自らを重ねてくれるよう希望する。



お前ら人間には信じられぬものを 俺は見てきた
オリオン座の近くで燃えた宇宙船や
タンホイザー・ゲートのオーロラ
そういう思い出もやがて消える
時が来れば
涙のように
雨のように
……
その時が来た
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旧作探訪#67 『シド・アンド・ナンシー』

2009-08-07 22:23:58 | 映画(レンタルその他)
Sid and Nancy@レンタル、アレックス・コックス監督(1986年イギリス)
1978年10月、元セックス・ピストルズのベーシスト、シド・ヴィシャス(ゲイリー・オールドマン)は、恋人ナンシー・スパンゲン(クロエ・ウェブ)を刺殺した容疑で逮捕される。警察からナンシーとの関係を尋問されたシドが、二人のなれそめを回想するところから、映画は始まる。
過激な音楽と破天荒な言動で全英の話題を集め、パンク・ロックの中心的存在ともなったセックス・ピストルズ。元はそのファンであったシドは、ルックスの良さと攻撃性をマネージャーのマルコム・マクラレン(デイヴィッド・ヘイマン)に買われて途中からバンドに参加する。明日をも知れぬ、彼のパンクを体現するような生き方は、方向性を見失いつつあったバンドの中でもパンク・キッズの注目を集めるのに十分であった。アメリカから来てパンクのグルーピーとなっていたナンシーも、シドに惹かれ、麻薬におぼれたり破滅的な志向を持つ二人は急速に愛し合うようになる。
ところがセックス・ピストルズは初の米ツアー中にヴォーカルのジョニー・ロットン(ドリュー・スコフィールド)が脱退して空中分解。ろくに楽器も弾けなかったシドはなんとか音楽活動を続けていこうと苦闘するが…。



TVを中心とする報道は、ドラマよりおもしろい酒井法子の逃避行で一色に染まる。留置場にいる押尾学には知るよしもないが、知ったとしたら、世界一えらい俺さまより話題を集めるなんて許せない、と吠えたろうか。
すっかり隠れた形となった押尾の事件。忍法カゲリ!!のりピーの事件はなるほど劇的ではあるが、たかだか覚醒剤のこと。押尾の事件では人が死んでいる。
同様に芸能界と麻薬がらみで女が変死した事件が1978年に起こった。シド・ヴィシャスとナンシー・スパンゲン。ナンシーの死因は腹部の刺し傷で、その原因となったナイフは一緒にいたシドの持ち物であったが、レコード会社の働きかけもあったとされ嫌疑不十分で釈放となり、約4ヵ月後にシドは麻薬中毒死した。
そこへいたる成り行きが推測されて映画化されたことは知っていた。初めて見る。演じる2人は熱演で、実際にもこんなんだったろうなあ、とも思わせる。シド一世一代の名唱となった「マイ・ウェイ」の場面などいくつかハッとさせもする。
しかし、確かにパンクスにまつわることはこんな風に暴力と自堕落にまみれていたかもしれないが、当時セックス・ピストルズのライブを見て衝撃を受けて創作の道へ進んだ者も少なくない。破壊的で破滅的なだけではなかった。そのあたり映画のピストルズはぜんぜん魅力がないよナ…。特にジョニー・ロットンの人物像が平板で。まあ主役はシドとナンシーで、その2人の破滅志向を美化して描かなければならなかったことはわかるけど…。
酒井法子の報道も同じ材料を繰り返してるのに過ぎないのだが、やはり現に起こってる事実であり、それに比べ「TVサイズで見る映画とかドラマ」の不利は否めない。先日の『ディア・ドクター』にも釈然としなかったのは、西川美和の監督した前の作品に比べ、明らかに映画として弱く、主演の鶴瓶の人間そのものの発する情報量に依存してしまってる。鶴瓶なくしては成立しない。
映画監督ってのもおそらく、事件が起こってくれなければ困るマスコミと同じくメディア産業なんでしょ。特異な題材とか強力な俳優に依存しがち。
映画、芸能、TV、マスコミの類いは、売春してでもAVに出てでも麻薬をやってでも暴力をふるってでも、とにかく有名になりたい、あるいは有名でい続けたい人たちが切れ目なく現れ続けてくれないことには立ちゆかない。
そして、そんな中でも、根拠もなく誰よりも有名でいたい押尾学の事件が、ひっそりと隠れて続報も入ってこないとしたら、それはなんらかマスコミの、あるいはもっと大きな権力の意図を勘繰る必要もあるんじゃないかと。押尾にはエイベックス等を通じて、パチンコ利権への、さらにパチンコ利権を握る警察OBの平沢勝栄議員へもパイプがあることが噂される。いま押尾の身柄も、被害者の検死など詳しい捜査状況もすべて警察の管理下であり、事件を大きくするのも小さくするのも全権は警察次第。

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旧作探訪#66 『クラム』

2009-08-02 21:07:03 | 映画(レンタルその他)
Crumb@VHSビデオ、テリー・ツワイゴフ監督(1994年アメリカ)
ひょろりと伸びた手足、度の強い眼鏡、一見すると内気でスクエアなこの人こそ、アニメ化もされた“フリッツ・ザ・キャット”やジャニス・ジョプリン『チープ・スリル』のレコード・ジャケットで名高い、米アンダーグラウンドの伝説的なコミック作家、ロバート・クラム氏(1943~)なのだ。
すばらしく下品な絵とコミックの数々
現在クラムのコミックスは、アンダーグラウンド・カルチャー再燃の流れに沿ってその原画も高い評価を受けているが、性的な妄想、女性への恐怖、広告文明への嫌悪、LSDによる奇想などを隠そうともしない作品群は、“良識ある”一般社会では忌避されることも多く、それゆえよけいにカルト的な崇敬を集めてきたのだった。
クラムを生んだ環境、それは「健全なアメリカ家庭」の陰画
クラム本人や家族、関係者の膨大な証言を集めたこの映画では、その奇想を生むのが個人的資質というより、特異な家庭環境と幼少期にあったことが明らかになる。軍人でカトリックの父、そしてロバート以上の奇人でそれぞれ絵も描く兄チャールズと弟マクソン。それらは自傷行為のような痛みをわれわれに突きつけ、ロバート・クラムが見せかけの幸福な生活の下に潜むアメリカの欺瞞と病巣を暴き出してカルト・ヒーローとなるに至った背景をまざまざと示す。
6年間にわたるインタビューのすえ映画を完成させたツワイゴフ監督はクラムのバンド仲間でもあり、デイヴィッド・リンチも製作に名を連ねた本作はドキュメンタリーとしては異例の高評価を受けたが、兄チャールズ・クラムは公開を待たず撮影後に自殺した。



きのうあつかった時事ネタのひとコマ漫画では決して描かれない世界。たとえばそれら諷刺漫画の作家さんの中では並外れてアイデア豊富のように思われた山藤章二という人物。もっとも鮮やかな印象を刻んだ作品に、週刊朝日最終ページの「ブラックアングル」というコーナーでロッキード事件の疑獄に連なる3名、田中角栄と児玉誉士夫と小佐野賢治を、武者小路実篤が「仲良きことは美しき哉」なるキャプションとともによく描いた色紙と重ねてみせたものがあった。
それは当時、たいへん鮮やか。今になってみると、なんの感慨も湧かない。事件も武者小路も遠い過去。それらをリアルタイムで共通の知識として持ってなければ、意味がない。
そのときその場だけで通用する時事ネタ。諷刺漫画の多くは、単独の絵としての価値を持たない。小市民的な常識の範疇を超えない“諷刺”で、新聞や雑誌には適応するが、時代や言語を超えて残ってゆくような無制限の表現からは遠い。
いっぽうロバート・クラム氏とて、絵柄など彼が生まれ育ったころの文化から強く影響されたポップ・カルチャーではある。しかし、適応というより不適応、新聞や雑誌に載ろうなんて思ってないし、社会的にも。
2度の結婚と娘さんもいるが根っからのオナニストで、日本でいうと林良文のような尻フェチ絵も多く、映画の中で女性から「子どものころあなたの絵で女性の体が物のようにあつかわれてるのを見て恐い思いをした」と言われて、「私は監禁されているのがふさわしい人間かも」などとも。さらに彼の兄と弟は彼以上の不適応で、引きこもりというか世捨て人のような暮らしを送っており精神科のお世話になったことも。兄チャールズと彼は少年時代競うように絵を描き、そのころの絵ではむしろチャールズに天分があったようにも見えなくもない。しかしカントとヘーゲルの本しか読まないというチャールズは次第に絵よりも観念的な文章にのめり込み、ロバートの絵が世間に媚びてないとはいえポップな市場価値もあるのに比べると、誰も理解できない完全に世間と隔絶された隠者となってしまった。
ロバートは子ども時代チャールズからよく「なんと最悪に輝いているんだ!」との言葉を浴びせられたという。それは子どもらしい罵言かもしれなかったが、「社会から切り離された存在」としての創作人生を象徴しているように思えてロバートにとって今でも好きな言葉だという。映画はチャールズに捧げられた。
さて、この「社会から切り離された」というのは口で言うほど容易でない。誰しも日々お金で食べものを買い、人と会話しながら生きている。超俗の芸術家も例外ではない。しかし、人を、というより世間を、あるいは市場を常に意識して振る舞うようになると、本来の姿からかけ離れたなんだか情けない姿にもなってしまうような。ロバート・クラム氏は1960年代にサンフランシスコでインディー誌『Zap』などでアンダーグラウンドの人気者となったが、意外にも当時のヒッピーとかロック音楽は嫌いとのこと。ローリング・ストーンズからレコード・ジャケットの絵を依頼されたが断ったんだとか。
おそらくそこにこそ、彼がお客さんを、場を、市場を意識したくない、意識することによって本来の作風がねじ曲げられて自由な奇想が湧いてこなくなってしまうのでわ、のような創作の秘密があるのかもしれない。それはまた、ブログってのはいったいなんなんでしょ、とも考えさせる。人に読まれること前提で書かれた個人の日記。
オラ映画の感想にも時事ネタを盛り込んだりするじゃん。『この自由な世界で』でシングルマザーが主人公なことから竹内結子がCMにじゃんじゃん出て母子家庭の現実を覆い隠すのはむかつく!!とか飛んだり。10年や20年後にどうなってるんでしょか。社会とつながっていたい孤独な者のつぶやきに、お客さんが遠巻きにして苦笑している、奇妙なセラピー。



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