マガジンひとり

オリンピック? 統一教会? ジャニーズ事務所?
巻き添え食ってたまるかよ

旧作探訪#64 『エム・バタフライ』

2009-07-15 23:09:33 | 映画(レンタルその他)
M. Butterfly@VHSビデオ、デイヴィッド・クローネンバーグ監督(1993年アメリカ)
男は一度もそこに触れずに愛しつづけた。
1964年、北京。フランス大使館の外交官ルネ・ガリマール(ジェレミー・アイアンズ)は、ある夜会で見たプッチーニのオペラ『蝶々夫人』でマダム・バタフライを演じるソン・リリン(ジョン・ローン)に、激しく心を揺さぶられてしまう。毅然たる美貌と恥じらいと慎みをたたえたミステリアスな東洋の美女。
「君は僕のバタフライか?」──妻がいる身でありながら禁じられた恋路に足を踏み出すルネ。だがソンは中国当局からある任務を受けたスパイであった。そうとは知らず愛と官能の世界に耽溺するルネ。その彼の前に、さらなる衝撃の事実が!
錯綜する裏切りと陰謀、歴史の裏側の舞台でうごめく性の幻想。世界中を騒がせた衝撃のスキャンダルが、オスカー俳優ジェレミー・アイアンズ、艶麗な女装姿のジョン・ローン、異才監督クローネンバーグによって白日の下にさらされた、驚愕の一作。

  

先日の吉田豪や松本ともこの出演したイベントで、豪さんが言ってたんですけどさ。マイケル・ジャクソンの死去について「音楽評論家」の富澤一誠が、こうコメント。「彼は人種の壁を超えて愛されたスーパースターでした」。みんな知ってる。真顔で言ってたらしい。以前には「最近海外では“ディーヴァ”という音楽が流行しているようです」とも真顔で言ってたんだとか。おっかしい。
ニューミュージックみたいなくだらん音楽を正当化することで、マスコミで発言する利権をつかんだ。そ~ゆ~既得権益汚やじが鈴なりにしがみついて沈没してゆくマスコミ業界を象徴。といって、もっとこう、マイケル・ジャクソンの音楽や芸能生活について、ちゃんとした意見を述べている業界人がいるとしても、それはそれでやっぱり釈然としない。
彼が薬漬けになって早世してしまった結果がわかったうえでの、後出しジャンケンのように思うんです。
マイケルがスーパースターとして絶頂にいた、同時代に言っていただけないと。江口寿史氏は、白人のような風貌へ整形を繰り返し、ディズニーランドのアトラクションにもなってた、その同じ時代にマイケルに対する微妙な違和感をマンガのオチで表現した。↓誰もが眠るが、ロボットみたいなマイケル・ジャクソンは眠らないのかも…。
“まんが書店”の客を客とも思わない常識外れの商法についても、江口氏は当時マンガ化してる。型にはまった“風刺漫画”などとはひと味もふた味も違う、あっぱれな芸だったといえよう。



スパイの京劇俳優死去  時佩璞氏
【パリ=AFP・時事】男性でありながら女性のふりをしてフランス人外交官に色仕掛けで近づき、仏機密文書を入手し、1986年にスパイ罪で有罪判決を受けた中国人の京劇俳優、時佩璞氏が6月30日にパリの自宅で死亡した。70歳だった。側近が1日明らかにした。
時氏は中国の山東省生まれ。64年にフランス人外交官ベルナール・ブルシコ氏と出会い、自らを女性と信じ込ませ愛人関係に。ブルシコ氏はモンゴルの仏大使館に勤務していた77年から79年にかけて約30件の極秘文書を中国政府に渡していた。
83年にブルシコ氏とともに逮捕され、86年に禁固6年の判決を受けたが、87年に当時のミッテラン大統領が恩赦を与え、その後パリに居を構えていた。 ─(東京新聞7月2日夕刊)



1986年5月、パリの法廷で、ベルナール・ブルシコ氏(左)とともに被告席に立った時佩璞氏=AFP・時事

実話MW。MWより奇妙。事実は小説より奇なり。この事実から想を得て、舞台化されたものを、さらにクローネンバーグ監督が映画化。舞台版よりも映画では、男性と女性、あるいは西洋と東洋、といったことに政治的な寓意が込められてるんだとか。京劇で男が女を演じることの意味をジョン・ローンが「どのように振る舞えば“女”になるのか、男だけが知ってる」と言う場面も。
クロネンさん自身「ジョン・ローンそのものが、この映画の特殊効果だ」と語ったとかで、クロネンらしい特殊効果なしのフェアプレーながらも、その色っぽさ、女性らしさは、それだけで一見の価値あり。公開中の『MW』は映画化にあたって、ホモとか女装とかを排除して凡庸なアクション作になってしまったので、そこを正面突破したクロネンさんはさすがだと思います。
見ているとなるほど、身長、骨格、皮膚の質感など、アジア人男性であれば、「東洋の女性は慎み深い」という西洋白人の固定観念にも乗じて、性交時に脱がず触らせず、18年間も女であるとだましおおせることも可能かもしれない。なにしろ実話に基づく。
欧米白人にとっては、日本人と朝鮮人と中国人、あるいはベトナム人やタイ人との違いもわからないし興味もない。彼らは“上から見てる”ので。いっぽうわれわれは、下から隙あらばのし上がろうと狙ってるので、さまざまな民族・文化の違いに興味津々にならざるをえないのかも。
おそらくクローネンバーグ監督も、アジアとヨーロッパの中間地帯で歴史に翻弄されてきたユダヤ系の一員として、そうしたことに敏感で、この難しそうだがやりがいのある題材をぜひ自分の手で成し遂げたかったんではないでしょか。
いわゆるユダヤ人が金儲けがうまい、というような定評や彼らの映画や音楽に発揮する才能などもおそらく、差別されてきたからこそチャンスに敏感であることの表れかもしれないし、逆に、祇園精舎の鐘の音=盛者必衰の理なんてのも、上の立場、権力側に立つとどうしても鈍感になって、江口寿史やクローネンバーグのような《気づく力》を失ってしまいがちなことにもよるのではないか。

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旧作探訪#58 『リアリティ・バイツ』

2009-05-17 21:09:51 | 映画(レンタルその他)
Reality Bites@レンタル, ベン・スティラー監督(1994年アメリカ)
すべてが出揃ってしまった1990年代、あらゆる選択肢の中で自らのアイデンティティを手探りする若者たち。過去の世代に反発しながらも自分たちの答えを見つけることができない、そんな彼らの偽りのない姿を刻み込んだ《ジェネレーションX》青春映画。大学生活から社会へ第一歩を踏み出す4人の男女が直面する、それぞれの《リアリティ・バイツ=現実は噛み付く》。その中で、真剣になれる恋を探る等身大のラブ・ストーリーが展開し、ザ・ナックの「マイ・シャローナ」やリサ・ローブの「ステイ」など音楽の巧みな使われ方も共感を呼んだ。
TV局に就職してADを務め、いつか自分たち世代を表現したドキュメンタリーを創りたいと考えるリレイナ(ウィノナ・ライダー)。頭がいいが大学を中退してバンド活動をしているトロイ(イーサン・ホーク)。GAPで地道に働くいっぽうAIDS感染の恐怖におびえるヴィッキー(ジャニーン・ガラファロー)。ゲイである自分と両親との関係が心配なサミー(スティーヴ・ザーン)。男女4人の同居が始まり、リレイナがひょんなことでMTV局の編集局長を務めるマイケル(ベン・スティラー)に出会った日から、彼女に注がれるトロイの眼差しが微妙に変化する。TV局をクビになり、面接先にことごとく拒絶されるリレイナの《リアリティ・バイツ》。
社会で活躍するマイケルと、世の中に染まらないトロイとの間で、彼女にとって本当にたいせつなリアリティを探さなければならない時が訪れている…。



奇しくも前回に採りあげた『暴力脱獄』の「卵を50コ食べてみせる」という台詞をトロイが口にする。リレイナがルームシェアの友人たちを撮るドキュメンタリー・ビデオの中で。そのビデオをMTV局上層部に売り込むため目を通したマイケルは、どうやらそれが映画の台詞ということを知らなかったらしくて「印象的な言葉だね」と恋敵トロイに。
過去からの引用。あらゆることが出尽くして、もはや創造的になりようもなかった1990年代。Deee-Liteが90年にヒットさせた「Groove Is in the Heart」で、ハービー・ハンコックの過去の映画音楽を引用・再構成していたのが象徴的。その前年にデビューしたレニー・クラヴィッツなんて人も、ずいぶん懐古趣味な音楽でしたし、音楽のみならずデザインとかTV番組とか、いろいろなところで引用・再利用の後ろ向きな動きが表面化した時代だったような。
そしてそれは、《成長が終わるとき》ということも意味していなかったろうか。株や土地の値段が上昇し続けることのうえに成り立ったバブル経済。その破裂。失われた10年間。映画の設定からTVドラマ『ふぞろいの林檎たち』を想起したりもするが、そのドラマが始まった頃はバブル期で、名もない私立大学を卒業する登場人物たちもあれこれたくましく生き抜く(らしい。1回も見たことないんです)。現実にも石原真理子とかな。
この映画に見られるリレイナをはじめ90年代の若者は、もっとナイーヴ。悪く言えばひ弱い。社会の中枢に居座ってる前世代があまりにもあつかましいってこともあるのかもしれんけど。そんな旧世代のモーニングショー司会者から嫌われてTV局を解雇されたリレイナは、卒業式で総代として答辞するほどの才媛だが、マスコミ志望の夢を捨てきれないためそれからの就職活動は挫折の連続。いっぽう哲学科の優秀な学生トロイはそんな現実から逃げたいのか、大学を中退してしまって定職にも就かずナイトクラブでのバンド活動。歌うことは90年代のオルタナ風。
といって、特定の世代にのみ共感を誘う映画となっているわけではない。むしろ古典的な青春映画・恋愛映画といえよう。90年代の若者のみならず、あらゆる人が、青春期に過去から圧迫されて創造的になれない姿、あるいは旧世代の固めたシステムの壁にはね返される姿を見て深くうなずくのではないだろうか。またその姿を的確に描くドラマ。男女5人の登場する構図があって、中でもよりシリアスな存在として描かれる3人の織り成す三角関係。社会に冷笑的で夢に生きるトロイと、組織の中で着実に生きるリアリストのマイケル、果たしてリレイナはどちらを選ぶのか。そういうリレイナの視点から作劇されており、男性のオラといえども彼女に自己投影して見ることになる、またそうさせるウィノナ・ライダーの清新な魅力も特筆される。結末はまあおとぎ話というかロマンチックなものですが、現実にはウィノナ・ライダーくらいの美人さんは実社会の勝ち組中の勝ち組男を選ぶと思うよん。ウィノナは女優なので石原真理子ばりにわけわからん人生を歩んでるらしいけど。

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旧作探訪#55 『ペーパー・ムーン』

2009-04-05 21:31:45 | 映画(レンタルその他)
Paper Moon@レンタル, ピーター・ボグダノヴィッチ監督(1973年アメリカ)
ライアンとテータムのオニール父娘が共演し、デビュー作となるテータムは父親を食うような快演で1974年(1973年度)のアカデミー賞・助演女優賞を最年少で獲得。映画も大ヒットとなった。
1935年、大恐慌下にあるアメリカ中西部。未亡人をだまして聖書を売り付けて小金を稼ぐ詐欺師のモーゼ(ライアン・オニール)が、亡くなった恋人の葬儀で彼女の遺児アディ(テータム・オニール)と出会う。彼はいやいやながらアディを親戚の家まで送り届けることになったが、アディは大人顔負けに頭の回転が速く、モーゼの詐欺を手伝ったりしながら旅を続けることになり、いつしか2人の間に本物の父娘のような雰囲気が生まれてゆく。
しかし、モーゼの前にダンサーだという若い女トリクシー(マデリーン・カーン)が現れる。すっかりトリクシーに惚れ込んでしまったモーゼを見て、アディはこのままでは自分が見捨てられると不安になり、思い切った行動で2人の仲を裂くことに成功する。
やがてモーゼは酒の密売人を見つけ、取引を持ちかけると商談は成立。モーゼは事前に密売人の酒をごっそりと盗み出し、それをまた密売人に売りつけて大儲けしたのだった。しかし、密売人の兄が保安官で、猛スピードのパトカーで彼を追ってくる…。



「まいたん朝メシ何食いてぇ!?」 「甘いパン甘いパン。」
『闇金ウシジマくん』に出てくるたくさんの迫真な言葉たちの中でも、ギャル汚くん編において“エンコーまいたん”なる16才の女が言う「甘いパン甘いパン」はひときわ印象に残る。最近のわけわからない若い女たちの体は甘いパンでできてるのでしょか。
彼女の相棒、ネッシーこと根岸裕太。まいたん16才を買春するのはいわゆる「淫行条例」に触れるので、根岸から恐喝されることになる。あらかじめ仕組まれた美人局。それもまた犯罪である。根岸よりさらに強く恐ろしい者が現れて彼を恐喝したとしても、根岸は警察に駆け込めない。その末路=意識不明の重体…。
この映画の中間部、トリクシーという気のいい白人娘が出てくる場面で、テータム演じるアディは、トリクシーに安い金で使われる黒人女中とも共謀して、まるで美人局に近いようなことをやってのける。モーゼは、亡くなったアディの母と交渉のあった3人の男のうちの1人で、アディの実の父である可能性もわずかながらある。アディによればモーゼは「アゴの線が似てる」とのことだが、より似てるのは詐欺師としての演技力とかクソ度胸のほうかも。2人が組むことでモーゼの聖書売り商売はわりと順調に進むのだが、終盤における酒の密売人をだます仕事は相手が悪かった。禁酒法の余波が残る中西部の町で、保安官と組んでいる(映画では密売人と保安官が一人二役)のだ。最後に金を奪われてたたきのめされるモーゼであったが、よかったよ、それだけで済んで。そんなやつを相手にしたら命を取られるのが普通じゃないでしょかね。悪事はなかなか引き合わない。
ところがアディは、旅の目的地である伯母の家には望みのピアノもあったりして、安逸な暮らしが保証されてるのにもかかわらず、文無しの詐欺師モーゼと2人で旅暮らしを続けていくことを選ぶ。安逸な暮らしより、ヒリヒリした浮き草稼業を選ぶ、いかにもハリウッド映画的な情愛ファンタジーともいえよう。
またそうした現実ばなれしたファンタジーにとどまるようでいながら、一歩超える印象を残すのはテータム・オニールのあまりに登場人物になりきった存在感。ライアン・オニールは別に娘を女優として売り出すつもりは当時なかった模様であるものの、「大人顔負けの、しかもあんましかわいくない女ガキ」というぴったりの雰囲気をボグダノヴィッチ監督に見込まれて出演したんだとか。
そしたらアカデミー賞の今も破られない最年少記録。映画もヒット。彼女がそのままハリウッド女優の道を進んだことは言うまでもない。人が憧れるような美貌ではないのに。オラ中高生くらいのとき買ったロードショー誌とかには、ティーンの人気女優として『がんばれ!ベアーズ』とかに主演するテータムの姿をよく見かけた。年はオラとか杉田かおる、薬師丸ひろ子などより学年1コ上。まあ同年代。しかし当時から、女優としてのセクシーさとか華やかな魅力には欠けてた。作品としても『ペーパー・ムーン』を超えるものは一作としてない。子役として成功しちゃうと、その後の脱皮がむずかしいとはよく言われるよな…。
テニスのジョン・マッケンローと結婚して3児を成すも、麻薬におぼれて離婚。親権はマッケンローが持ったとか。近年は脇役で米TVドラマに出演してるみたいだけど、昨年も麻薬で逮捕されたことが報じられた。映画の最後で、伯母のもとで安穏と暮らすよりモーゼとの浮き草稼業を選んだ、まさにそれを地で行くような人生。『ペーパー・ムーン』の撮影時9才、アカデミー受賞時10才、残りの人生のほうがぜんぜん長いのに生涯ベストを記録しちゃって。
浮き草稼業のリスクを引き受けるテータム・オニールと比べ、関根勤の娘さんが芸能界入りしたのはどうにもマルチ商法的に気持ち悪くて、コサキンでずっと尊敬してきたのにTVで見かけると気がふさぐ。アメリカに留学して、どこやらの大学を首席で卒業したとも聞く才媛である。その能力とか親譲りの気質を芸能界とかじゃなくて、腐り切った外務省とか、あるいは生き馬の目を抜く総合商社とかで開花させてほしいと思ったのはオラだけではあるまい。

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旧作探訪#52 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』

2009-02-26 21:08:51 | 映画(レンタルその他)
@レンタル、原恵一監督(2001年・日本)
ある日、春日部で突然『20世紀博』というテーマパークがオープン。昔のテレビ番組や映画、暮らしなどを再現し、懐かしい世界に浸れる遊園地に大人たちは大喜び。でも、しんのすけを始めとする子どもたちにはちっとも面白くない。むしろ毎日のように夢中になって遊びに行く大人たちに、もううんざり。やがてひろしは会社にも行かなくなり、みさえは家事をやめ、しんのすけが泣きじゃくるひまわりのオムツを替える始末。実はこれは、“ケンちゃんチャコちゃん”をリーダーとするグループによる、大人だけの楽しい世界を作って時間を止めてしまおうという、恐るべき“オトナ帝国”化計画だった! やがて大人たちは『20世紀博』に行ったきり帰ってこなくなってしまい、残された子どもたちは途方に暮れる。このままでは未来がなくなってしまう! そこでしんのすけら“かすかべ防衛隊”のメンバーは大人たちを取り戻すために『20世紀博』へ乗り込んでいくことにする。しかし、そこにはもうすっかり子どもに戻ってしまった親たちが楽しそうに遊んでいた。はたして“かすかべ防衛隊”は“ケンちゃんチャコちゃん”に勝てるのか!? そしてしんのすけは大人たちを今の世界に取り戻し、未来を守ることができるのか!?

昔むかしぃ~ストライキと呼ばれるものがあってぇ~電車が2日間も動かなかったりすることがあったそうじゃぁぁ~~
伊集院光さんの深夜ラジオも最近はぜんぜん身を入れて聞いてないんだけど、なにやら新しいコーナーが始まったみたいよ。今の若い人からは「え?ほんとうに?」と思われるような、世代間のさまざまなカルチャー・ギャップを題材とする。それって若いリスナーさんは楽しめるのかしら。われわれが懐かしがって喜んでるだけなのでわ。
この映画のテーマパーク。懐かしい小ネタ満載。子どもは置いてきぼり。しんのすけたち幼稚園児には懐かしむような過去なんてないし、大人たちが仕事や家事も放ったらかしで幼児化していくのが心配でならない。そしてそのような大人の狂態を引き起こす基となるのが、ケンちゃんチャコちゃん率いる「イエスタデイ・ワンスモア」なる秘密結社が20世紀博のタワーから振りまく「懐かしいにおい」。
しんのすけは、心も体もすっかり子どもとなってしまった父ひろしに、ひろし自身の靴の匂いを嗅がせて、過去の姿を回想させ、やがて未来を迎えるべき自分自身を取り戻させる。その回想の場面は、近年の邦・洋取り混ぜた映画の中でも屈指の“泣かせる場面”として名高いらしい。
オラもご他聞にもれなかっただ。故・父ちゃんが帰宅して脱ぎ捨てた靴下は臭かったぁぁ オラも近年、枕の匂いが父の枕の匂いと似てきてるものの、足はほとんど匂わない。働いてないので。父は立ち仕事できついって言ってた。あれは働いて一家を支える男の匂いだった…。泣けるです。
反面、そこから一家4人と1匹で団結してオトナ帝国に立ち向かうしんちゃんたちの姿は、無職・独身のオラにはまぶし過ぎるかも。いいなあ、未来があって。いや無職・独身でも未来へ向かって歩いていかんと。原作の臼井儀人さんはコサキンのラジオ番組のヘビーリスナーとのことで、映画の中にも小堺・関根両人が登場してリスナーにしかわからない小ネタを見せる。2001年の時点でも20年続いてた番組である。内輪受けでもたいへんなパワーがあった。長期入院の間は聞けなかったので、01年春に退院してリスナー復活できてうれしかったもんだ。ところが、この2年ほどで急速につまらなくなって、その劣化のひどさはかつてのワンナイ以上。聞いてて不快になることもしばしばで、最近は終盤の投稿コーナーしか聞かなくなってた。いよいよ3月いっぱいで27年半の歴史を閉じるとか。しかたあるまい。伊集院光さんとともに夜のTBSラジオの顔であったが、伊集院さんが同じ轍を踏まないよう願いたい。
伊集院さんはかつて日曜昼間にやってた長尺番組で、アシスタントを務める竹内香苗アナと「泣ける映画対決」をやったことがあり、竹内アナの『ライフ・イズ・ビューティフル』に対して伊集院さんの選んだのがこの『オトナ帝国の逆襲』であった。目の下に脱脂綿をセットして涙の量を測定した結果、伊集院さんが勝ったように記憶してる。


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旧作探訪#50 『シベールの日曜日』

2009-02-15 22:45:19 | 映画(レンタルその他)
Les Dimanches de Ville d'Avray@VHSビデオ、セルジュ・ブールギニョン監督(1962年フランス)
12才の少女と青年の純粋な愛を詩情豊かに描き、主演の2人のもの悲しい雰囲気や、特にシベール役のパトリシア・ゴッジのかわいらしさは各国の観客に強い印象を与えた。1962年のアカデミー賞で外国語映画賞を獲得。
パリ郊外にあるビル・ダブレの町。ピエール(ハーディ・クリューガー)はこの町でひっそりと傷ついた心身を休めていた。彼はインドシナ戦線で一人の少女を射殺したと思い込んでしまい、操縦していた戦闘機を墜落させて、そのショックで記憶を失い気分も暗く沈みがち。看護士のマドレーヌ(ニコール・クールセル)はそんなピエールを愛し手厚く看病した。夜遅くパリの病院から帰ってくる彼女を、駅まで出迎えるピエール。そんな夜、ピエールは駅で父と娘(パトリシア・ゴッジ)の二人連れに出会った。彼は少女の目に涙が光るのを見て、後をつけていった。行き先は修道院であった。少女の母が他に男をつくって二人を置いて出ていってしまったため、父親は少女を修道院に置き去りにするつもりで連れてきたのだ。二度と現れまい。少女もピエールもそのことを知っていた。次の日曜日、ピエールは少女に会いに行った。
「君の名前は…」
「教会の鐘の上の風見鶏を取ってくれたら教えてあげるわ」
こうして二人の日曜日ごとのデートが始まった。二人の間には深い信頼と愛情が生まれた。だが、度重なるデートに村人は二人の噂をした。そして、クリスマスの晩、ピエールは少女に教会の風見鶏をプレゼントするのだった。
「私の名前はシベール。ギリシャの女神の名前なのよ」
少女のプレゼントは名前だった。だが、その時、ピエールが少女を連れ回して危険をおよぼすかもしれないという通報を受けた警官が、ピエールを射殺した。死んだピエールを見てシベールは涙を流しつぶやく。「私にはもう名前がないの。誰でもないの」と。



DVD化されておらず、やっとのことで入手したVHSビデオにて鑑賞。ビデオ製作の基となったのはアメリカ上映版でしょか。日本語字幕とともに英語字幕も表れる。日本語や英語でこういう意味のことをフランス語ではこんなふうに話すのかという、その印象の違いがまざまざと。イギリスとフランスって海底トンネルで結ばれるくらい近いんでしょ?それなのに、どうしてこんなに言葉の響きはぜんぜん違うんでしょ。フランス語ってまったく独特。愛をささやくモナムーとかの言葉は当然のことながら、日常で使うシルブプレとかの言葉も響きが詩のよう。ロマンチック。そんな詩的でロマンチックなフランスでも、傷ついた二人が作り出す愛の世界は周囲から白眼視されずにはおかない。周囲からはいい大人のピエールがいたいけな少女を恋人同士のように連れ回してるかに映るものの、二人の関係ではむしろシベールが主導権を握ってる気配で、将来結婚しましょう、とかもシベールから言い出す。役柄と同じ12才で、シベール役になりきって生き生きとかわいらしいパトリシア・ゴッジはまさしく伝説的。昔、吾妻ひでおさんが日本初の少女愛(ロリコン)同人誌シベールを作ったのも、この映画の影響下のことなのでしょか。映画の中にもマンガの元祖的存在な日本人の名前が出てくるけど、ピエールとシベールの愛の姿はあまりに奇矯で周囲の“常識人”たちの胸を不穏にさせずにはおかないもので、世間から疎外されてることそのものがますます二人の結びつきを強める方向へ。秋葉系みたいかも。見ていても、映画に反応して秋葉的なもの、自分の中の気持ち悪いものがぴくぴくんと呼び覚まされるのを感じる。ここではモノクロ映像のフランス映画ならでわの表現で、世界の人の胸に届く作品になってはいるものの、ちょっと他の形に移してリメイクとかを考えにくい題材ではないだろうか。アニメ化か、あるいは変態・野島くんなら実写ドラマ化できるかも…。
さて「旧作探訪」も早いもので50回を迎えたので、今までの作品から10傑を作ってみました。ここは映画ブログでないし、オラは無職・独身の変わり者ですので「ああ、こういう意見もあるのね」程度にお試しあれ~~



1 - 蜘蛛女のキス(ヘクトール・バベンコ) 1985
2 - デッドゾーン(デイヴィッド・クローネンバーグ) 1983
3 - アラバマ物語(ロバート・マリガン) 1962
4 - ブギーナイツ(ポール・トーマス・アンダーソン) 1997
5 - カッコーの巣の上で(ミロス・フォアマン) 1975
6 - Mr.Boo! インベーダー作戦(マイケル・ホイ) 1978
7 - エレファント・マン(デイヴィッド・リンチ) 1980
8 - マイライフ・アズ・ア・ドッグ(ラッセ・ハルストレム) 1986
9 - ベイビー・イッツ・ユー(ジョン・セイルズ) 1983
10 - モーターサイクル・ダイアリーズ(ウォルター・サレス) 2003
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旧作探訪#47 『カッコーの巣の上で』

2009-01-28 20:58:01 | 映画(レンタルその他)
One Flew Over the Cuckoo's Nest@NHK-BS2, ミロス・フォアマン監督(1975年アメリカ)
反体制の若者たちのシンボルとして1962年の初版以来300万部以上を売ったというケン・キージーの同名小説を映画化。精神病院を舞台とする問題作のためメジャー映画会社は尻込みして幻の企画となりかけていたが、最初に映画化権を買ったカーク・ダグラスの息子マイケル・ダグラスと有名プロデューサー、ソール・ザンツが組んでオレゴン州立病院にロケーションしてようやく製作にこぎつけた。
刑務所の強制労働から逃れるため精神病を詐病して州立精神病院へやって来たマクマーフィー(ジャック・ニコルソン)。彼はそこで病院側に管理・抑圧されて無気力な日々を送る入院患者たちの姿を見て変革を試みる。テレビでワールド・シリーズを見られるよう多数決を呼びかけたり、患者たちを外へ連れ出して船で釣りを楽しんだり。それにつれて明るさや人間らしさを取り戻し生気に満ちた日々を送るようになる患者たち。だがそれらの出来事は、やがてマクマーフィー自身の破滅を呼び起こす悲劇へと転化していく…。
多彩な脇役たち、憎まれ役を一手に引き受けた看護師長役のルイーズ・フレッチャーの好演もあって、精神病院という極限地を舞台として権力や抑圧の問題を提起しながらも、そこにとどまらず人間の自由や尊厳を浮き彫りにしたヒューマニティーあふれる名作となった。1976年のアカデミー賞では作品、監督、主演男優、主演女優、脚色という主要5部門を制する快挙を達成。



今でも完治してないよ。オラの心の病気?脳の病気?いわゆるひとつの精神病。4週間に1回、入眠剤を処方してもらうため精神科クリニックへ足を運ぶ。これまでもカミング・アウトはしてきたものの「精神科へ長期入院」とかいって「精神病院」という言葉は避けてきた。あまりに重い。精神病院という言葉は。オラの場合、最初の4ヵ月は総合病院の精神科病棟にいて、いったん退院したもののやっぱり調子悪くて別の、ほとんど精神科のみの病院へ約2年間入院。精神科医というのは病気を治せない。向精神薬と時間が治す。それはとても時間がかかる。2番目の病院で、ほぼオラと同時期に入院してきたOさん。統合失調症で幻聴に襲われ、「天皇陛下がAIDSで死ぬぅ~~!!」とか叫んだりもしたとか。オラより早く1年半ほどで退院していった。そんなふうに激しい発症でもわりと早く治る人もいるが、だいたい慢性化していて、ず~っと入院してたり、あるいは出たり入ったり。そういう人たちは、外見上は健常者とほとんど見分けがつかない場合が多い。どこが悪いのか、どうして治らないのか、よくわからない。TVに出ていばったり暴言吐いたりしてる人たちのほうがよっぽど狂人ぽいわよん。キチガイに刃物。橋下に政治。田母神に核ミサイル。
これまでの映画などで精神病者たちを描くのに、奇声を発したり、挙動不審だったり、歌ったり踊ったり、閉鎖病棟では多少それに近いこともあるかもしれないが、開放病棟ではそういうわかりやすい見え方はしてない。どことなく覇気のない人が多いけれども、その境遇を思えば当然のことである。このたび初めて見ることになった『カッコーの巣の上で』。前半では、みなさんわかりやすい狂人ぶりのような。またアメリカン・ニューシネマの系譜に連なる反体制の映画と見られがちにさせるほどの、ルイーズ・フレッチャー演じる高圧的な看護師の憎たらしいことといったら…。しかし話が進んでいくにつれ、だんだんと一人一人の患者たちの人物像が、彼らのそれぞれ背負ってる人生が見えてくる。それを、ただもう押さえつけようとする病院側に対し、彼らを人間として仲間としてあつかって解放しようと奮闘するジャック・ニコルソン。たまたま舞台が精神病院というのが効果的で前例がなくてアカデミー賞をかっさらったかもしれないが、もっと普遍的にいろいろな社会に適用しうる、秀逸な人間ドラマ、群像劇と呼べるのではないだろうか。登場人物のビリーとかチーフとか、各自の個性がよく描かれていて他人のように思えないナ 病院にもいたなあ ちょっと懐かしいかも…絶対に戻りたくないけんども、かつてのお仲間さんと年賀状のやり取りくらいはしてますよ。 

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旧作探訪#45 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』

2009-01-12 22:23:53 | 映画(レンタルその他)
@レンタル、押井守監督(1984年・日本)
TVアニメ・シリーズにもたずさわる押井守の手になる劇場版第2作で、彼の映画監督としてのキャリア初期を飾る傑作。
明日は友引高校の楽しい学園祭…のはずなんだけど。あたるたちの上を下への大騒動にもかかわらず、不思議なことにいっこうに学園祭当日はやって来ないのだった。この異変に気づいた温泉マーク先生とサクラは、謎の解明に乗り出した。しかし温泉マーク先生はいつの間にか姿を消し、錯乱坊までが消えてしまった。
さらに不思議なことに、あたるとラム以外は帰宅することもできないのである。陸がだめなら空からと面堂の戦闘機に乗り込んだ一同が見たものは、なんと巨大なカメの背に乗っかり、宙を飛んでいる友引町だったのだ。
あたるたちのサバイバル生活が始まる。上機嫌なのはラムだけ。竜之介がしのぶがと一人また一人と消えていくのだった。サクラと面堂はあたるを囮にして事態を解明しようと試みる。そして、とうとう自分たちのいる世界が夢邪鬼(むじゃき)のこしらえた夢の世界であることを突き止めるもののサクラたちも消されてしまい、一人残ったあたるはこの夢を作り操る夢邪鬼と一騎討ちすることに。果たして、あたるとラムは夢邪鬼の術を破り、現実の世界へと戻ることができるのだろうか…。



マンガを全巻揃えるってぜいたくよね。かさばって。引っ越しのたびに処分。いったん手放したマンガを再び買い揃えるとか。『うる星やつら』と『パタリロ!』のオリジナルのコミックスはどちらも15~16巻のあたりから買わなくなった。そして27才で一人暮しを始めるにあたり『うる星~』は最初の4巻を残して、『パタリロ』はすべて売り払ってしまった。今にして思えばパタリロのコミックスには後の版や文庫版では不都合があって削られてしまった回が載ってたりしたので、もったいないことはもったいないけど、そんなふうに選んだり捨てたりすることってけっこう大切なんじゃないかと。いくたびかの取捨選択を経ても生き残ったマンガ本のありがたさ。
ギャグマンガがいつまでも新鮮であるのは非常にたいへん。うる星やつらも竜之介の出てくるあたりから落ちてきてる。しかし正直最初の4冊については驚くほど中味が濃くておもしろい。いろいろ変なものを意図せずして呼び出してしまう運勢の持ち主・諸星あたる。第1話で彼と地球侵略を賭けた鬼ごっこをする異星人のラムちゃん。第2話ではラムちゃんは登場せず、むしろヒロインはもともとあたるのガールフレンドであったしのぶのようにも。それ以外のさまざまな登場人物たちも、TVアニメではわりと最初のほうからいたように記憶してるテンちゃんなど、原作ではかなり後になってから登場する。どの話も基本的に一話完結でオチがついており、原型のままアニメ化するのにぴったりだったであろうし、当時もそう思い込んでいたのだが、このほど久しぶりに傑作と名高いビューティフル・ドリーマーを見て、ああ、原作とアニメは別物だったのねえ…と。
こんなに、オタクという言葉でしか表せない独特の気持ち悪さのある映画と思ってなかった。もっと普遍的な作品かと。たとえ押井監督に高邁な意図があったとしても、これでは80年代当時のアニメとかオタク文化の文脈をわかってないと、とても伝わるものではない。そもそもTVアニメ化の段階でいくらか余分なものが加わってる気配で、中でもこのたび気になったのが「キャラクター化および微温化」。登場人物がそれぞれ役割分担して、ある種、類型的なキャラクターを演じ、ぬるま湯的にここちよい世界を構成する。同時期に他でも見られた。ドラえもん、ちびまる子ちゃん、水戸黄門とかの時代劇、特に萩本欽一のお笑い番組。欽ちゃん番組は後になるにつれ安直なキャラクターで笑いをとる傾向が強まっていった。
うる星やつらの原作は、もっとパンチが利いている。ラムちゃんが再登場してあたると同居することが決まる第3話とかすごい。UFOタクシーの運賃が地球の貨幣価値に換算するとべらぼうに高くて、取立てのため世界中の石油を吸い上げるとか。また当時TVアニメが評判を呼んだ理由でもあるラムちゃんのお色気表現、これもまた意外なほど穏健に抑えられている。マンガにおけるラムちゃんやしのぶはなまなましい。裏を返せばアニメのみで「メガネさん」なる名前を与えられてるキャラクター、押井監督の分身ともされているが、ラムちゃんを好きでたまらないがあたるの本妻であることは認めて親衛隊みたいにふるまう、なんて気持ち悪いよな。高橋留美子さんは考えないよ。
いわゆる《ラムちゃんの発想する母胎回帰的に微温的な夢の世界から、ラムちゃんを好きでいるためにもどうしてもそこから脱出して自由をつかみたい男の子の諸星あたる》とはちょっと異なって、オタクが自分で作ったおもちゃを自分で壊してるだけのようにも見える。日本のアニメーション自体が、なにか不思議な制約を受けた表現である感じが。

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旧作探訪#44 『バスキア』

2009-01-03 22:37:54 | 映画(レンタルその他)
Basquiat@レンタル、ジュリアン・シュナーベル監督(1996年アメリカ)
1980年代にニューヨークのアート・シーンを席巻したものの88年、27才の若さで他界した天才画家ジャン=ミシェル・バスキアの伝説を描く。
バスキア(ジェフリー・ライト)はストリートのグラフィティ(落書き)アーティスト。家出を繰り返し、高校を中退、夜はヒップホップのDJ。彼が描きつけるメッセージは詩情をたたえ、絵は原始的な色彩とパワーにあふれていた。無垢なハートそのものを筆にして描いたようなバスキア・ワールド。アンディ・ウォーホル(デビッド・ボウイ)が絶賛し、NY中の画商が群がった。一夜にして人気アーティストとなるアメリカン・ドリーム。ほとばしる才能にニューヨーカーは魅了され、作品は高値で飛ぶように売れてゆく。そして有名人とのパーティー、女たち、金…。多くの人に愛されながらも傷つきやすい魂を持ったバスキアは、チャーリー・パーカーやジミ・ヘンドリクスに憧れ、麻薬に手を出し、恋人も去ってゆく。そして、敬愛するウォーホルの死の知らせが届く…。



冒頭いきなり「アート界は“生前は不遇だったゴッホ”のような伝説を欲しがっている」との本人の述懐が。彼に接近してきて「“黒人の画家”というのは初めてかも」と言う美術ジャーナリスト。安い金額で彼に先行投資して、絵が売れ出すと「絵を売るときは必ずあたしを通すこと。アトリエに誰か呼ぶときもよ」と宣言する画商。最初の個展で、先述のジャーナリストが予約済みの絵を「どうしても欲しい」と言い張る金持ちそうな汚やじ。汚やじがパトロンになってくれそうなので売ってしまうバスキア。怒って酒席に乱入するジャーナリスト。キツネとタヌキの化かし合いというか。
上画像は1982年の作品の一部で、同じ時代に勃興しつつあったヒップホップ文化との関連をうかがわせ、それは黒人としてアメリカで生きることの過酷さを直接に反映してるゆえのインパクトかもしれず、映画でも描かれるその差別されようはちょっと想像つかないほど。売れたら売れたで別の種類の差別もかぶさってくる。高名な存在で、彼と行動を共にすることも多かったウォーホルについても「バスキアを利用してる」との陰口が。監督のジュリアン・シュナーベルという人はユダヤ系の、これまたニューヨークのアート界で同時期に活動してたとのことで、そんなバスキアを温かいまなざしで描いたこの映画から、『夜になるまえに』『潜水服は蝶の夢を見る』と監督としても長足の進歩を。それにしても出発点がこの伝記映画であったことを考えると、直接よりも間接的に広く影響をもたらす、絵描きさんというよりある意味ミュージシャン的な総合アーティスト・表現者といったような存在だったのではないかしら。
誰かの言ってた「芸術というのはイマジネーションをコミュニケーションしたいという気持ち」って言葉、一点ものの絵を金持ちに買ってもらう画家という商売と馴染みにくい。誰かに買われちゃったら、そこでコミュニケーションが閉じちゃうじゃないですか。絵画よりも版画、あるいは版画よりもマンガのほうが、表現行為の中にあるコミュニケーションが成立してる気配が。そういう意味で音楽というのは、発せられた段階で「みんなのもの」になってる向きがずっと強いのでは。まあ日本の音楽なんてのは特定のリスナーにしか語りかけてなかったりすることもあるみたいだけど、それはまた別の話。
この映画には、ちょい役でゲーリー・オールドマン、クリストファー・ウォーケン、ウィレム・デフォー、また無名時代からバスキアに親切な忠告をしてくれる役でベニチオ・デル・トロなど、配役がたいへん豪華。そんな中にあって、表情の乏しいウォーホルを演じるとはいっても、音楽をやってないデビッド・ボウイというのはあまりにも魅力がなさ過ぎ。ボウイさん、ボウイ債とかつまらんこと考えるよりも音楽をやってください。

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旧作探訪#43 『デッドゾーン』

2008-12-14 21:49:59 | 映画(レンタルその他)
The Dead Zone@VHSビデオ、デイヴィッド・クローネンバーグ監督(1983年アメリカ)
高校の国語教師ジョニー・スミス(クリストファー・ウォーケン)は同僚で婚約者のサラ(ブルック・アダムス)とのデートの帰り道、大型トレーラーと衝突、奇跡的に一命をとりとめたが昏睡状態に陥る。5年間の眠りから覚めたジョニーには、手に触れた人を通じて離れた場所で起こることを感知する能力が備わっていた。そればかりか《過去》や《未来》を見る力があることも知った。
彼の昏睡中にすでに別の男と結婚していたサラとその夫が選挙運動を手伝っている上院議員候補グレッグ・スティルソン(マーティン・シーン)の演説会場に足を運んだジョニーは恐るべきビジョンを見てしまう。大統領になったグレッグが核ミサイルの発射ボタンを押すのだ。それまでの事案から自分の行動で未来への行方を変えることもできることを悟っていたジョニーは悩むが、やがてグレッグを暗殺しようと決意することに。グレッグが演壇に立って話し始めた時、ライフルを構えた彼が立ち上がる。「ジョニー!」。サラの声に動揺したジョニーの狙いは外れ、グレッグはサラの子どもを盾に逃げ回る。フラッシュがたかれ、彼の政治生命を断つことになる写真が写された。ボディガードの放った銃弾に倒れたジョニーのもとにサラが駆け寄る。「なぜ?」の呼びかけにジョニーはただ「愛してる」と一言ささやいて息を引きとる…。



哀しいよぅぅぅおもしろいよぅぅぅいい映画だよぅぅぅ
弊ブログ草創期だった4年ほど前、国際結婚のためセルビアへ旅立った知人が「大好きな映画」として奨めてくれた。映画のあと原作小説(スティーヴン・キング、新潮文庫で上下巻)も買って読みふけったものだった。ところが、それからキングの小説にのめり込んだわけでもなかったのは、彼の著書の数が膨大すぎてどれから読んだらいいのやら…誰か教えてくだぱい。
しかしクローネンバーグの映画はいくつか見ており、その作風には信用の置ける映画監督、というより信用の置ける人間だナ、とも感じる。『デッドゾーン』の前後には『ヴィデオドローム』や『ザ・フライ』のような外見的におどろおどろしたホラー映画を撮ってるものの、それらの根底にも『デッドゾーン』や最新作『イースタン・プロミス』に表れるような人類の由来への興味があるのではないだろうか。主人公ジョニー・スミスについてクローネンバーグ監督は当時こう語ったのだとか。「『デッドゾーン』のストーリーは、基本的には『スキャナーズ』と同じなのです。自分は正常で、社会の確固とした一員だと思っている男が登場します。彼は完全なアウトサイダーとして描かれます。どんなに正常な人間に見えても、彼はアウトサイダーであり、自分自身をよく知っています」
それを演じるクリストファー・ウォーケンが素晴らしい。喪失感を抱えた表情が胸をえぐる。日本の役者ですと岸田森さんがこういう感じだったナ 全体の世界観としても、1950~70年代の若者文化、向こうでいえばロック音楽、日本でいえばマンガやアニメに代表されるようなサブカルチャー、カウンターカルチャーと共通する、ある種の軽さ、ポップさ、元気で前向きなエネルギーが、キングの、クローネンバーグの、ウォーケンの活動の源泉ともなってるのではないか。それはまた、核戦争の可能性が現実的に感じられるような、はたまた左翼運動が先鋭化して追い詰められるような政治・社会情勢とも無縁ではない。世界中の国で、1970年代あたりを境界として、確かに大きな潮目が動いたような感じがする。それ以来「みんなで力を合わせて」よりも「利己主義と市場経済」のほうが優勢になっていったのではないか。そして若者文化はそれを敏感に反映し、ときには予知してるようにさえ見えるジョニー・スミス的存在でもあったのではないだろうか。
はてさて、オラ自身、自分のことをよくわかってるとは言えませんが、アウトサイダーであり、それでもなお社会の一員であろうとしとります。そんなオラが政治家など権力の悪口を書くとき、「将来に核ミサイルの発射ボタンを押す東国原or橋下の姿」のまぼろしを見てる部分もあるかもわからない。みなさんはいかがお考えになりますでしょうか。

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旧作探訪#37 『人喰いアメーバの恐怖』

2008-10-12 18:23:19 | 映画(レンタルその他)
The Blob@DVD、アーヴィン・S・イヤワースJr.監督(1958年アメリカ)
スティーヴ・マックィーンの映画初主演作!最初の敵は、恐怖の怪物“ブロブ”だった―。
北米の小さな田舎町。青春を謳歌する高校生カップルのスティーヴ(スティーヴ・マックィーン)とジェーン(アニタ・コルソー)が愛を語らっていると、目の前を流れ星が落ちてきて、付近に落下した様子。落ちた場所を二人が探していると、腕に得体の知れないドロドロした物質がからみついて苦しんでいる老人がいた。二人は老人を医者のもとへ連れてゆくが、謎の物質ブロブは老人も、医師・看護師も次々と呑み込んで巨大化してゆく。
事情を話しても警察に信じてもらえないスティーヴは仲間たちに呼びかけて、怪物から町を救おうと苦闘を繰り広げる…。
東西冷戦や宇宙開発競争が進む50年代はSF映画・パニック映画の草創期でもあり、中でもこの作品は後に続く多くの亜流作品の原点として愛されている。最初から大スター然としていたといわれるマックィーンの演技とともに、売れない頃のバート・バカラックが楽しげなテーマ曲を書いているのも見逃せない。



THOSE OLDIES BUT GOODIES…みなちゃまのお家にカラーTVがやってきたのは、いつのことでしたか。オラのお家は1972年・小2のとき。したがって71年に放映されてた『帰ってきたウルトラマン』は白黒で見てたことになる。いま画面のすみっこに「アナログ」とか出ることがあるけど、この当時はカラーで制作された番組の画面のすみっこに「カラー」って表示されることがあった。白黒TVで見てる人もいっぱいいたのだ。弊ブログを訪問してくれてる人たちは、そ~ゆ~懐古談義をわかってくれるでしょか。お~い。みなちゃまは何歳くらいなんですか~~
他のブロガーさんたちなら、文章とか取りあげてる題材とかで、だいたいは推測つくよん。よくコメントをいただいてるAQUAMULSAさんは同年代の女性。
そのAQUAさんのブログ『音楽の迷宮』にて、ある日「とろとろーっと玉虫色のゲル状物質が流れだして」という記述が。そして翌日には「昔しょっちゅうテレビの名画劇場で放映されてました」という記述が。前者はマーク・アーモンド氏の歌声についての形容で、後者は亡くなったポール・ニューマン氏の『暴力脱獄』について。直接の関連はないが、その2つの記事を続けて読んだことによってピーンとひらめいてしまったのら。この映画のことが。
いや“玉虫色”ではなくて、真っ赤なんですけどね。カラーTVで映えるような毒々しい、真っ赤なゼリー状の。小学生当時に少なくとも3回か4回は見てるはずの定番であった。
ところが、DVDを見ていて、あれ?こんなんだったっけ…そうして最後まで見ていくと終わり方がぜんぜん違う。たしか巨大化した「ブロブ」をスケートリンクで凍らせて一件落着、と思いきやTVインタビューを受ける保安官の足下のブロブが溶け出して…という終わり方であったはず。
気になって調べてみると、その何回も見た記憶があるのは、この映画の続編、といってもパロディ味の濃厚な『SF/人喰いアメーバの恐怖No.2(原題Beware! The Blob)』という映画らしい。ちゃんちゃん!
残念なことにそちらのほうはビデオ化もDVD化もされてない模様。どこかでDVD化してくれないかなあ。いやこの世代は重箱の隅をつつきまわすような紙ジャケ再発CDを買うくらいなので少なからずの需要あると思うよん。

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