再三、恥をかいています(汗)
やはり、家康が秀吉に臣従を誓ったのは大阪城でした(笑)
前の晩に聚楽第で会って、翌日、大阪城に行ったのです
二人は、仲良く同じ舟に乗って、淀川を下ったのでしょうか?
その可能性は十分あると思います
とにかく、この二人は仲が良いのです
ところで、家康は、臣従の儀式が済むと
秀吉に対し、秀吉の着る陣羽織を所望します
「上洛、ご苦労であった!」
「何か望むものはあるか?」
なんて、ご下問があったのでしょう
それに対し、家康が
秀吉の陣羽織を所望したのは
これ以降、秀吉が陣羽織を着るようなことはさせない
すなわち、もう戦はさせない
あるいは、戦の無い世の中にする
・・・という意味です
つまり、自分が秀吉に臣従するのは
戦をなくし、平和を実現するためであり
秀吉の力に屈したわけではない・・・という意味なのです
このことは、家康には、かなりこだわりがありました
その後、ある歳の正月、大阪城での新年の祝賀会の時に
秀吉が
「ワシは、戦では失敗したことが無い」
と自慢すると、突然、家康は立ち上がり
「小牧のことは、お忘れか?」
「他の者の前ならいざ知らず、私の前で、そういうことは言わないでもらいたい」
と、発言したのです
「小牧長久手の戦い」では
秀吉は、家康に、こてんぱんにやられているからです
秀吉と家康が戦ったのは、この時だけですから
家康にしてみれば
自分の前で、戦自慢などするなと言いたかったのでしょう
しかし、私は、それ以上の意味を考えます
家康が、そこで言いたかったことは
自分が、こうしてお前さんの家来の地位に甘んじているのは
平和のためであって、戦に負けたかえらではない
・・・と言いたかったのです
「厭離穢土 欣求浄土」(戦乱の世を終わらせ、泰平の世をつくる)
の旗印を掲げて以来
家康の行動の目的は、一貫して、平和の実現だったのです
やはり、家康が秀吉に臣従を誓ったのは大阪城でした(笑)
前の晩に聚楽第で会って、翌日、大阪城に行ったのです
二人は、仲良く同じ舟に乗って、淀川を下ったのでしょうか?
その可能性は十分あると思います
とにかく、この二人は仲が良いのです
ところで、家康は、臣従の儀式が済むと
秀吉に対し、秀吉の着る陣羽織を所望します
「上洛、ご苦労であった!」
「何か望むものはあるか?」
なんて、ご下問があったのでしょう
それに対し、家康が
秀吉の陣羽織を所望したのは
これ以降、秀吉が陣羽織を着るようなことはさせない
すなわち、もう戦はさせない
あるいは、戦の無い世の中にする
・・・という意味です
つまり、自分が秀吉に臣従するのは
戦をなくし、平和を実現するためであり
秀吉の力に屈したわけではない・・・という意味なのです
このことは、家康には、かなりこだわりがありました
その後、ある歳の正月、大阪城での新年の祝賀会の時に
秀吉が
「ワシは、戦では失敗したことが無い」
と自慢すると、突然、家康は立ち上がり
「小牧のことは、お忘れか?」
「他の者の前ならいざ知らず、私の前で、そういうことは言わないでもらいたい」
と、発言したのです
「小牧長久手の戦い」では
秀吉は、家康に、こてんぱんにやられているからです
秀吉と家康が戦ったのは、この時だけですから
家康にしてみれば
自分の前で、戦自慢などするなと言いたかったのでしょう
しかし、私は、それ以上の意味を考えます
家康が、そこで言いたかったことは
自分が、こうしてお前さんの家来の地位に甘んじているのは
平和のためであって、戦に負けたかえらではない
・・・と言いたかったのです
「厭離穢土 欣求浄土」(戦乱の世を終わらせ、泰平の世をつくる)
の旗印を掲げて以来
家康の行動の目的は、一貫して、平和の実現だったのです