湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

拡大”清洲同盟”?・・・歴史の考察

2017-03-06 20:22:47 | Weblog
もし「清須同盟」が
東海道の覇権を確立するための同盟なら
武田氏を亡ぼしたことにより
織田徳川連合は、京都から駿河までは
東海道の完全支配を実現したわけですから
見事、その目的を達成したことになります

甲斐、信濃という中部山岳地帯を支配し
東海道を側面から脅かしていた武田氏を亡ぼして
結果としては、中部地方全域が
織田徳川連合の支配地になりました

「清洲同盟」の20年は
織田信長にとっては、東海道の覇権確立だけではなく
濃尾平野の完全制覇、京都とその周辺の支配など
実に見事な成果を上げたことになります
しかし、そこで満足する信長ではありません
信長には、その先に、さらに遠大な構想があったのです

ここで、信長になったつもりで、考えてみますと
東海道は、駿河で終わりではなく
箱根を超えて、相模の小田原に至り
さらに、その先の、武蔵の江戸まで続いているわけです
東海道の覇権確立というなら
どうしても、江戸まで行かねばなりません

織田徳川同盟の次の目標は
江戸、すなわち、関八州の制覇となります
それが実現した暁には
従来通りに、織田と徳川で東西を分権するとなれば
徳川家康は江戸に入り、関八州の支配者になるのです
織田信長は、そこまで考えていたのです

しかしここで問題があります
現在の徳川家康の所領、三河、遠江、駿河を
家康に放棄してもらわねばなりません
この説得を如何にするか、それが織田信長の悩みでした

信長は、東海地方限定の「清洲同盟」から
日本全体を視野に入れた”拡大清洲同盟”を構想していたのです
そこには、お互いが大きくなり過ぎた現状への危機感もありました
狭い東海地方に、両雄が並立することは難しくなったのです
不測の事態で、織田徳川同盟に対立が生じたら
せっかくここまで来た同盟の成果が、水の泡になってしまうからです



コメント (2)
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