湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

秀吉と家康の聚楽第の一夜・・・歴史の考察

2017-03-11 19:14:24 | Weblog
天正14年10月26日
豊臣秀吉の弟、秀長邸(聚楽第)に宿泊していた徳川家康のところへ
夜、密かに、豊臣秀吉がやってきました

明日の登城により
家康は、秀吉に臣下の礼をとることは決まっています
何のために、秀吉は、わざわざ、前夜にやってきたのでしょう?

秀吉は、この時をおいては
もう、2度と、家康と本音の話ができないと考えたからです
秀吉は「本能寺の変」以降の自分の行動の理由を
家康だけには説明し、理解してもらいたかったのです

秀吉と家康は、旧友であり、戦友であり、同士であり、親友のはずでした
なぜ、織田信長の死後、二人は戦わねばならなくなったのか
秀吉は、説明したかったのです

家康が秀吉と「小牧長久手の戦い」をしたのは
あくまで、信長の次男、信雄の要請によるものでした
秀吉は、なぜ自分が、信孝や信雄と対立しなければならなかったのか
その理由を、家康にだけは話しておきたかったのです

秀吉は、信長の遺志を語りました

信長が、イエズス会やスペイン人と戦う未来を想定していたこと
その仕事は、自分が中心になって任される予定であったこと

そうである以上
キリスト教に親近感を持つ信孝には、後継者を任せられなかったこと
それが信孝と戦った「賤ヶ岳の戦い」の遠因であったこと
また、次男の信雄には、信長の遠大な構想が理解できなかったこと
そのために「小牧長久手の戦い」至ってしまったこと
・・・等を、家康に話したのです

秀吉の言葉を、家康は、真正面から受け止めました
弁解や言い逃れだとは考えなかったのです
自分でも、十分、思い当たるフシがあったからです
そこで、家康も、秀吉に、関東移封の話をしたのです
これは、家康しか知らないことだったからです

秀吉と家康の二人は、これで初めて、
亡き織田信長の長期戦略を理解したのでした

まず国内を統一し、その後、対外戦をすること
日本全体の安定のための、家康の関東移封であり
これによって、家康が東日本全体を平定し、日本国内の戦いを終わらせる
それが済んだ後は、いよいよ「唐入り」になる

織田信長にとっては、戦国時代など
狭い日本列島内の、内戦に過ぎなかったのです

豊臣軍団が九州征伐をしている最中に
京都で行われた、秀吉と家康の一夜の会談は
ただ、家康の秀吉への臣従を確認しただけではなかったのです
その後の日本の進路を大きく決めた一夜だったのです

家康の秀吉への臣従は、力への屈服ではなく
信長の遺志を実現するための、両者の合意の証だったのです

豊臣秀吉は、九州征伐が終わると
直ちに「バテレン禁止令」を発し
その後「小田原攻め」で北条氏を亡ぼすと、家康の関東移封をし
時を置かず「唐入り」と称する「朝鮮征伐」に向かいました
これら一連の政策が、極めて段取り良く進んだ背景には
家長邸の、一夜の、秀吉と家康の会談があったのです


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする