湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

江戸幕府と東海道・・・歴史の考察

2017-03-07 18:53:16 | Weblog
何事も、先を読む織田信長は
武田氏を亡ぼした後の目標が見えていました

「関東制覇」

です

そして、関八州の支配者は
徳川家康でなければなりませんでした

戦は強く、人格は高潔、約束は守る・・・
所領の統治能力も申し分無く
家臣からの人望は、どんな大名よりも大きい
信長の見るところ、家康以外に、広大で豊かな関東の地を
安心して任せられる人物はいませんでした

家康の現在の所領、三河、遠江、駿河について考えると
三河は、祖先からの所領であり
遠江は、自ら奪い取り、浜松に居城を構えた所領です
そして、駿河は、人質時代の少年期から、元服、結婚までを過ごした地です
いずれも、徳川家康にとっては、思い入れの大きな土地であり
信長には、これらの所領を、家康が、簡単に手放すとは思えませんでした

そこで、織田信長は、武田氏を亡ぼした直後
富士山見物と称して、明智光秀らを伴い
徳川家康の所領を検分して回りました
家康にプレッシャーを与えるとともに
明智光秀に、家康説得係を任せるためでした

これが失敗して

「本能寺の変」

を招いてしまったわけです

信長は、凝った芝居を演じ過ぎました
そんな必要はなかったのです
徳川家康は、関東移封に前向きだったからです
表向きはともかく、心の底では、心待ちにしていたはずです
特に、自分が犠牲になるのではなく
織田軍団総出で小田原の北条氏を亡ぼした後ならば
喜んで江戸に移る覚悟でした

東海道沿いに所領を持つ大名として
交通の便の良い場所は、恐ろしい場所であることを
徳川家康ほど熟知している者はいませんでした
交通の便が良いということは
敵から見れば、攻めやすい場所だということになるからです

東と南が海、西と北が山に囲まれた関東平野こそ
”平和の実現”を旗印とした家康の、理想の地だったのです
家康にとって、交通の便が良いことは、平和を脅かす要素でした
江戸幕府が、東海道の大河に橋を架けなかった理由は、これだったのです
コメント (3)
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