湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

豊臣秀吉晩年の謎・・・歴史の考察

2017-03-18 19:12:45 | Weblog
豊臣秀吉は、死ぬまで朝鮮征伐を諦めませんでした
このことは、秀吉晩年の狂気の一つと考える人もいます
秀吉の晩年は”狂気”で説明したくなる所行が多いのです

後継者である甥の豊臣秀次を、切腹させただけでは足りず
一族すべて、身近な使用人に至るまで殺しました
しかも、そのやり方もひどい・・・

秀次の問題は、後継者問題であり
簡単に言えば、関白の地位を秀次に譲ってから
秀吉に実子の秀頼が生まれたため、秀次が邪魔になったのです
これは、不幸な出来事だったと言うしかありません
戦国の世ですから、時には、こういう事態も避けられません
ただ、なぜ、使用人に至るまで殺す必要があったのか
疑問の残るところではあります

千利休を自害させたのも、謎です
豊臣秀吉のした茶会は、昼の宴会ともいうべき派手なもので
佗茶の精神など欠片もありません
そうしたことで、千利休との対立があったと
従来は解釈されてきました

そうでしょうか?
北野天満宮の茶会に、千利休は参加しています
しかも、極めて重要な役割を担って参加しているのです
利休が、秀吉の茶道に不満を持っていたとした
あの茶会に参加することを辞退したはずです

豊臣秀次は、悪逆非道な行為をしたとされていますが
話が極端ですから、明らかに作り話でしょう
イエズス会の宣教師などは、秀次の人柄の良さを褒めています
残された書状を読んでも、異常性格の片鱗すらありません
気になるのは、秀次がキリシタンであった可能性があるらしいことです

織田信孝、高山右近、豊臣秀次・・・千利休
秀吉に粛正された人々に共通するのはキリシタンへの親和です
キリシタン大名の高山右近は、千利休の高弟でもありました

狂気と見える豊臣秀吉晩年の所行は
織田信長の遺志である”反キリスト教”に貫かれています
「バテレン禁止令」だけではなく
「朝鮮征伐」も、織田信孝の排除から千利休への切腹命令に至るまで
反キリスト教で一貫しているのです

「本能寺の変」の時に、三歳であった三法師でさえ
後年キリシタンになっています
周囲に、キリスト教の影響を受けた人が多かったからです

織田信長傘下の武士団のジュニア世代は
キリスト教や南蛮文化に親しんでいました
信長が、ずっと、ぞれらの庇護者だったのですから、当然です
彼らの多くは、心の問題を抱えていました
救いを、仏教ではなく、キリスト教に求めるのは自然な流れだったのです

ここに、豊臣秀吉の危機感がありました
晩年の秀吉の”狂気”とみえた所行の正体は
身内に忍び寄るキリスト教との戦いだったのです
コメント (2)
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