湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

本能寺の変のまとめ・・・歴史の考察

2016-07-05 15:35:26 | Weblog
私が考える「本能寺の変」は
信長との対応に限界を感じた朝廷が
信長との関係に危機感を持っていた明智光秀を抱き込み
実行させたクーデターです

朝廷関係者の中心には、吉田兼見と近衛前久がいました

ただし、朝廷関係者は
本音では、明智光秀を好んではおらず
羽柴秀吉か徳川家康に政権を担当して欲しいと望んでいました
事前に、彼らに情報を流し、連携をとっていました

ただし、これは吉田兼見関係のことであり
近衛前久は、知らずに、明智光秀に全面協力をしてしまいました
本能寺襲撃部隊の指揮官は斉藤利三であり
司令部は本能寺に近い近衛前久邸でした

秀吉が光秀を討った後
近衛前久は逃亡しましたが
吉田兼見は、平然と秀吉と交渉しています

信長が朝廷を追い詰めたのは

「三職推任」と「暦」

です

特に「暦」の問題は深刻で
時間的余裕のない切羽詰まった問題でした
「暦」を信長の自由にされては
吉田兼見としては、神官としての自分自身の権威に関わります
この日が吉日だなどと言っても
信長次第で暦が変わるのではお笑いぐさになってしまいます

明智光秀が信長殺害を決意した動機は分かりません
ただし、突然思いついたことではなく
武田が亡びる以前から考えていたことです
従来から、原因の一つと言われている

「安土城での徳川家康接待係の突然の解任」

よりも、はるか以前のことです

また、最近よく言われる

「四国の長宗我部との調停失敗」

の件は、実は、調停は成功していました
このことは最近発見された資料で明らかになっています
長宗我部側から恭順の意を伝えた手紙が、変の10日前に届いており
さらに長宗我部は、兵を引き上げていたのです

「本能寺の変」の直前の信長は
全ての問題が片付き、意気揚々と京都入りしたのでした
四国攻めのため大阪に集結させた軍勢は、そのまま、毛利攻めに使えます
実際、京都に入ってすぐ、信長は
数日以内に「毛利攻めに出陣する」と話しています

私には”明智光秀の動機”は、ついに分かりませんでした
ただし、当時の織田家の家臣団が、ほぼ例外なく
リストラの不安を抱いていたことは確かです

誰もが

”信長はもはや自分を必要としていない”

という不安を感じていたのです

それは、羽柴秀吉にも、徳川家康にもありました
秀吉と家康は、互いに連絡を取り合いながら
光秀の動きを注視していました・・・そして
クーデターが実行された場合の対応を考えてありました
事変後の彼らの素早い対応は、そうした事情を物語るものです



コメント (3)
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