湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

信長の戦略と戦術・・・歴史の考察

2016-07-02 15:40:41 | Weblog
織田信長の領国に実施した政策は
現代人の目から見ても、見事としか言いようがありません
だれからも教えられず、自分の発想で
画期的な政策を次々に実現していきました
これだけ見ても、信長は恐るべき天才であると、私は思います

織田信長の”天才”は軍事面に顕著です
その最たるものが

「鉄砲の大量導入」

です

歩兵の鉄砲隊が武田騎馬軍団を蹴散らしました
中世以来の武士の戦闘方法に革命的変化をもたらしたのです
もはや時代は、後戻りできないことになりました

さらに、信長は

「装甲甲板を持つ軍船」

を建造しました

船の甲板を鉄で覆い、銃撃戦に強い軍船を作ったのです
これは、ヨーロッパに先立つこと200年とも言われる
革命的な軍事技術です

この船で、信長は何をしようとしたのでしょう?

「唐入り」

です

シナ大陸侵攻です
豊臣秀吉がやった朝鮮出兵は、その前段でした
私は「唐入り」は秀吉のアイデアだとばかり思っていたのですが
実は、元々は織田信長のアイデアだったのです

当時のシナは弱体の明国でした
このままではヨーロッパの植民地になってしまいます
そうなれば、日本にとって切実な脅威となります
その前に明国を抑える
戦国武将であれば、当然考える論理です

信長は世界地図を見て
ポルトガル人の遠洋航海を褒め
遠洋航海技術の導入を求めていました
そして「唐入り」を構想したのです

信長は、海路で、シナ沿岸部を直接襲う構想があったのでしょう
さらに、その先に、アジア各地のヨーロッパ植民地の打破
スペイン、ポルトガルとの対決を見据えていたはずです

信長は、キリシタン大名のごとく振る舞っていました
しかし、キリスト教に帰依することはありませんでした
あくまで、情報や武器弾薬を入手するためのそぶりだったのです

織田信長は、やがて

”日本とヨーロッパ勢力との直接対決”

の日が来ることを、承知していました

信長は、その日を想定しながら
そんな気配は一切見せず、イエズス会の庇護者のような顔をして
彼らに悟られないように、情報を集め
機の到来を待っていたのです





コメント (3)
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