無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ヒカルといえば当初は抜群のリズム感が賞賛されたものだ。ブラック・ミュージック寄りのコテコテのサウンドでもグルーヴを外さずについてこれる日本人女性歌手となると、確かに今でも稀少かもしれない。

どちらかというと、そういうグルーヴィな楽曲は英語曲に集中している。Blow My WhistleとかWonder 'Boutとかね。勿論、日本語でどこまでグルーヴを出せるかという実験にもチャレンジして欲しい所だが、さしあたっては普通に英語曲で歌って、Utada Hikaruは違うのだよという所を見せて欲しい。

グルーヴというのも世代に左右される。例えば、メタルという音楽は90年代以降、デスメタルだグルーヴメタルだニューメタルだメタルコアだデスコアだと名前を変えてきたけれど、基本的な音楽性は同じながらやはり世代毎に特徴的なメロディーとリズムを持っている。

Hikaruの場合、ロック・ミュージックも勿論好きだっただろうが、ソウル・ミュージック/ブラック・ミュージックにも造詣が深い。現在32歳の彼女は、90年代にそちらのサウンドに傾倒したのだから、ソウルの中でも所謂"ヒップホップ・ソウル"の世代になるだろうか。60年代まではリズム&ブルースと呼ばれていたサウンドがR&B(アール・アンド・ビー)となり、それが更にヒップホップ・カルチャーやラップ・ミュージックとミクスチャーされて生まれてきた世代。平たく言えばメアリーJ.ブライジ登場以降という事だ。

この世代のソウルは、リズム・セクションも遠慮なく打ち込みである事が多く、その中でキョーレツなグルーヴわ叩き出してくる。片足ダンス・ミュージックに足を突っ込んでいる感じに。Hikaruの書くリズムセクションは、どちらかといえばそこらへんをルーツに持つように思う。

だが、先程挙げた2曲などは、Hikaruの手によるグルーヴ・パターンではない。BMWに至っては「私の望んでいたサウンドと違う」とハッキリ言ってしまっている。そうなると、実は、Hikaru単独ではコテコテのグルーヴィ・チューンは書かないのかもしれない。

そこで、生演奏のバンドとの相互作用があるとどうなるか。ソウル・ミュージックとはいっても、どちらかといえばジャズ寄りのサウンドになるのではないかと踏んでいる。それで今の話の流れになっている。Hikaruがジャズというと多分、スタンダード・ナンバーのバラードをしっとり歌う方向で皆想像を働かせると思うが、私はどちらかというと、随分昔のリズム&ブルースがジャズに接近したようなサウンドを思い描いている。さぁどうなるか。当然誰にもわからないが、あれだけ多種多様な曲を書いてきたHikaruにもまだまだやっていないサウンドは控えているのだ。もう若くないんだし、遠慮している場合ではない。時は、あっと言う間に過ぎていくのだからね…。

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生演奏重視といえばひとつエピソードを思い出した。80年代、ZABADAKの上野洋子と吉良知彦はアイルランドのダブリンを訪れ、音楽が生活の中に溶け込んでいるのをみて衝撃を受けたのだそうな。パブを覗いても誰かが楽器を奏で皆が歌っているんだと。以後ZABADAKは打ち込み系の音を減らし生演奏に力を入れ始めライブ・バンド/ユニットへと変貌を遂げていったという。

ヒカルが「もしかしたらルーツといえるかもしれない」と語っていたのはアイルランドではなくお隣のスコットランドだが、ロンドンを拠点にしているらしいとはいえスコットランドには実際に行ってみたのだろうか。否、行ってみていないと考える方がおかしいか。その中で、スコットランドでの音楽の在り方みたいなものに直に触れる機会があれば、やはり生演奏重視に拍車が掛かる展開も考えられる。人の演奏は人を動かす。それだけのことなんだけど。

ただ、やはりヒカルは単独のソングライターであって、自身1人の手によって築き上げられる世界を大切にしたい筈だ。コンピューターの発達は、バンドをクマなくても一通りの演奏を、体裁の整った楽曲を提供する事を可能にした。それで10年以上やってきたのだからある程度自負はある筈である。

なお、演奏も、人数が増えれば増えるほど、逆説的だが、たった1人の作曲者の意向が反映されていく結果となる。人が増えると収拾がつかなくなるからだが、シンプルにいえば指揮者が必要になってくる人数以降は作曲家1人の世界観に頼る事になる。指揮者は作曲者の代理であるのだ。

そういう眺めを前提にすれば、まぁ2~9人くらいまでの編成は"バンド"と呼べるのかもしれない。正確な定義は知らないが、これより多いとビッグ・バンドと言って指揮者が登場しそうな気がする。

いや具体的な人数とかはいいんだ。今、つまり、考えている生演奏とは、十数人数十人居て指揮者が必要なオーケストラの類いではなく、そういった少人数編成の、一人々々が作編曲に携わる、そういった創造過程を含むものである。その時、各パートは各パートに責任を持ち、その人が別の人と入れ替われば楽曲の一部も入れ替わるような、そんな個々人の存在感を重視した上での生演奏、そして、バンドでの作編曲。これがヒカルに可能であるか否かを考えてみたい訳だ。次回の話はそこをもうちょい掘り下げてみる。

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