無意識日記
宇多田光 word:i_
 



昨夜はGentle Giantを聴いた後だったからかあんな気障な文章になってしまった。今夜はMetallicaを聴いているところだから、…果たしてどうなるのやら。

この、「Metallicaだったら文句ないだろ」感は凄い。グラミー賞にせよフェスティバルのヘッドラインにせよ、彼らの名前さえ出してしまえば格好がつく。世界レベルでこんな事が出来るバンドやミュージシャンって他に数える程しか居ないだろう。20世紀を代表するバンドのひとつと言っていい。彼らのお陰でメタルというジャンルが30年生き延びられたのだからメタラーの私は感謝しか無いのですよ。

まぁそれはいいとして。

Hikaruが次に世界展開する時の"キャラクター"ってどこらへんに置いてくるのか、そこがちょっとわからない。EXODUSの時はHikaruが21歳で、レコード会社もちょっと「日本のブリトニー・スピアーズ」みたいな売り出し方もしたかったのかもしれなかったがHikaruが「いやそれはちょっと」となるのは明白だったので当然そんな売り出し方はせず、ではどんな売り出し方をしたかといえばどんな売り出し方もしなかった。ただレコードを出しただけである。よくあんなので160位になれたなというのが正直な感想だ。

2ndの時は結構ハッキリしていた。ソウル寄りのメイン・ストリーム系のPopsで、実は私がメロディーと詞を書いてるんですよ、トラック・メイキングはスターゲイトとトリッキー・スチュワートですよとまぁ大体どこらへんの層にアピールするかが明白だった。iTunes StoreでもBillboardでも、ほぽプロモーション量に比例した成功を収めたといえる。

その頃は25~26歳で、ジャンル的にもお手頃な年齢だった。若過ぎず、かといって歳をとってるでもなく。

で。次は30代で、再婚で、もしかしたらママさんだ。まぁ、ソウル寄りのPopsは今でも順調に需要があるっぽいし、歌さえ巧ければ年齢もさほど気にされないだろう。ただ、もったいないけれど、Hikaruを、99年当初の日本のような、ファッション誌や女性誌にも登場するようなキャラクターで売り出す事は最早無理となった。それはちょっと寂しい。今更だけれど。

そこらへんの客観視は誰よりもシビアだ。Hikaru姐さんが。「こんな30過ぎのおばさんが今更~でもないでしょ」ってサラッと言っちゃいそうな気がする。いやいやいやいやまだ似合うから! 着て撮っても全然ごちそうさまですから! ゆかりんを見習え! …とか言っても聴く耳持たんだろうなぁ。「~」の部分は各自補完して下さい。

まぁそんななので、次に世界的に、或いはアメリカで、もしかしたら英欧で次に売り出す時には、年齢とか国際結婚とかのファクターを、感じさせるのか感じさせないのかといったところから話を詰めていかなくてはならない。年齢不詳国籍不明性別すらあやふや、といった超越的なキャラクターを目指すのか、30代の子持ちのお母さんが働きながら子育ての苦労を歌う等身大の歌手でいくのか、一体Utada Hikaruという歌手、Utada Hikaruという音楽家にどういうイメージを持ってもらいたいのか、そこらへんが気にかかる。これは、Hikaruの問題というよりプロモーション体制の問題かもしれない。

ここを間違うとまた10年を棒にふる。言っちゃあ悪いがこれからのHikaruの、例えば米国でのキャリアは「ふりだしにもどる」だ。またゼロからのスタート、というかEXODUSを出す前とおんなじ感じになっていると。つまり、日本での活動もフォローする熱心なファンはそれなりに存在するが、一般には誰だか知られていない状態。Come Back To Meはそれなりにオンエアされたが、6年前の曲をいつまでも覚えてもらえてはいないだろう。

でもこれは逆にチャンスである。今度こそ正確的確なイメージ作り、キャラクター演出をしてHikaruがどういう人間なのかよくよく知って貰おう。更地の方が新しい家は作りやすいのだ。もう若くないけれど、歳とってからブレイクする歌手なんて幾らでも居る。何でもよい方を捉えて前に進んでいけたら。

一応次の"成功"の基準は決めてある。私は関東在住なのでAFNが聴けるのだが、そこからHikaruの歌声が聞こえてくる事だ。もしそうなったらアメリカでブレイクしたと言っていいだろう。その日が楽しみである。

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どこか他の国に移住するとして。案外大事なのは食生活なんじゃないかとふと思った。

昔から何故イギリスの若い労働者階級から次から次へと音楽的才能の傑出した人材が輩出されるのか不思議に思っていた。音楽的土壌と伝統と言ってしまえばそれまでだが、何か他にも要因はないものかと。そして考えた。もしかしたら、若者の食文化が貧しいからなんじゃないかと。

日本からはなかなか音楽的才能は出てこない。国立の大学に学科をもつようなジャンルは別として、庶民レベルでは大抵が欧米の大衆音楽のコピーかそのコピーのコピーを生み出している。というか、そもそもあんまり音楽が生活の中でそんなに息づいていない。錯覚ではあるのだが、無くても別にと思っているフシがある。

それは、かなりの広い層に対して食文化が維持されているからではないか。コンビニに行ってもその品揃えには驚かされる。

そもそも、日本人やってると気づき難いが、食事に文化なんて必要はない。栄養摂取だけなら極論すれば点滴だけで十分だ。そこまでいかなくても、もっとシンプルで時間のかからない食生活になっても生体的にはさほど困らない。

なんていう事を言って反発を食らうのは、それだけ皆無意識裏に食から文化的充足を受け取っているからだ。寧ろ、栄養摂取というタテマエが話を分かり難くしているとすらいえる。

食は精神的作用が大きい。全く同じ食事でも、容器と照明を変えるだけで食後の感想は変わる、いや、味が変わる。栄養摂取に対して精神的効用の割合が遥かに大きい。その程度が更に甚だしいのが日本なのではないか。

つまり、我々は食事からかなりの割合で生活の中の文化的充足を得ていて、音楽など他のものに頼る必要がない。一方で、イギリス人は食事から得られる文化的充足が相対的に低い為、音楽など他の文化に精神的なものを求める土壌が揃っているのではないか。そんな風に考えた。


ヒカルの幼少の頃のエピソードから察するに、なんだか随分と"貧しい"食生活を送ってたんじゃないかという感じが漂ってくる。ヒカルの好きな食べ物、納豆とかもずくとかいった製品に共通なのは、パックを開けたらすぐに食べられる事だ。幼くて料理も出来ない(大きくなってからも随分出来ていなかった、という話はこの際脇に置いておいて)ヒカルにとって、冷蔵庫を開けて取り出してすぐに食べられるメニューは重宝したに違いない。あの両親の事だから(って俺に何がわかるというのだ)、ヒカルの食事を忘れる事は一度や二度ではなかっただろう。温かいできたてに抵抗があって、冷えて端に残ったものがいい、というエピソードもそういう妄想に拍車を掛ける。

その、食文化の欠落を音楽で埋めた…という言い方は既に日本人的かもしれないな、精神的文化的充足を、食ではなく音楽で得る環境の中で育ってきたから音楽に対する比重が大きくなったんじゃないか。そんな風に私は想像してみたのだった。


しかし、昨今随分とイギリスの食事も美味しくなってきたようで、もし今後イギリスから音楽的才能が出てくるペースが落ちてきたりしたらそれはご飯が美味しくなってしまったせいなのかも、わかりませんですよ…。

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