無意識日記
宇多田光 word:i_
 



生き方を先に考える前にまず生きてみる―と言葉で書くのは簡単だが実践するのは恐ろしく難しい。極論すれば人間は0歳児保育から社会的動物であり、常に「あなたはどういう人?」と問われながら生きているからだ。クラスの中でどんなグループに属するか、インドアかアウトドアか、中学生になったらアナタの夢は何ですか将来の目標は…とまぁそんな感じで「あなたは今どんな生き方をしていてこれからどんな生き方をするのですか」と常に問われ続けるのが人生だ。

宇多田ヒカルは、そういう質問に答える必要があるだろうか? 既に実績十分で、築き上げた資産で言うならいつ引退しても文句は出ない立場だ。生き方を誰かに問われることは、もう無くてもいい―何故なら、これ以上稼ぐ必要はない(と、少なくとも周りからは思われている)のだもの。それこそ、好きに生きればいい。

今ちょうどそれをしている最中なのか、そうでないのか。この判断は結構難しい。

時間の感覚の話だ。根を詰めて音楽に打ち込み過ぎた、一旦離れてリフレッシュしてみよう。その気持ちはよくわかる。で、それって何年くらいになるものなのだろうか。ここの感覚。Hikaruが「十分リフレッシュした。また打ち込みたい。」と思えるタイミングって、いつなのだろう。

1998年から2010年まで。数え方は難しいが、12~13年位働いてきた。しかも創作活動メインでだ。となると、何年くらい離れていれば、気持ちが戻るのだろう。

ちょっと危なっかしい事を言おう。離れている時間が長くなり過ぎてくれば、もう戻る気も起こらない、"まるで遠い国の出来事"みたいに感じられてくる事もあるのではないか。「もういいや。実感がない。」という風に。


待っている人は山ほど居る。しかし、待ちくたびれているというか、徐々に興味や関心を失ってしまっている人も中には居る筈なのだ。2年や3年なら待ちもしよう。しかし、次のオリンピックが来るとか、国勢調査がまた来たとか、そんな風になってきた時に宇多田ヒカルは忘れられていないだろうか。

いちばん厄介なのはここである。実際に宇多田ヒカルの名前を忘れる人なんて殆ど居ない。「宇多田ヒカル? そういや最近見ないね。」てなもんである。しかし、だからこそ、本当に"待たれているかどうか"がわかりにくくなってやしないか。

渇望感も待望論も欠落感もあろう。しかし、それで4年、6年、8年と"過ごせてしまえば"、宇多田ヒカルって別に居なくてもという事になる。実際、皆こうして生きている。

こうなってくると、戻ってきた時に「これからコレをします」というキョーレツなメッセージを発信しない限り、「あぁ、そう…。」という反応しか返ってこなくなっているかもしれない。ここの読者は3年だろうが10年だろうが何年経ってようが戻ってきてくれたら狂喜乱舞だろうから、実感は無いかもしれないが。


私? 無意識日記は、2010年以降も変わらず続いているねぇ、確かに。しかし、ここで何が起こっているかというと、実は2010年以前と何も変わってないのだ。「今日もメッセ無かったねぇ…」と溜め息を吐く数日間、数週間、数ヶ月間を12年の間に何度も経験し、後半の6年間無意識日記はその溜め息を言葉に変えてきた。その数日間数週間数ヶ月間が数年間になっただけなのです。元気に活動中もいつでも待っていたし待ち望んでいた。そんな中でいろんなメッセージや発表に一喜一憂する。その密度が濃かったり薄かったりするだけ。毎日溜め息を吐き続けてきた人間からすれば、本当に、実は以前と同じなのだ。

だから明日復帰してくれてもいいし、あと5年待たされてもいい。やる事は同じなのだから。ただ歳をとって世界が変わるだけである。ここは何も変わらない。幾らでも安心しておいて下さい。

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ヒカルのリリース形態の変化の可能性に関してあれやこれや語っているが、こちらのリスナーとしての様態に変化があるかというとそんな劇的に変わってはいない。私個人の事を言えば、相変わらずラジオを聴いて、気に入った曲やアルバムを借りたり買ったりして、気に入ったアーティストのライブに足を運ぶ、そういうのがもう20年以上続いている。

特に、音源を買う方法は増えた。大昔はアナログレコードとカセットテープだったのが、CDが生まれ、CDシングルが普及し、MDに録音するようになり、PCとインターネットによって大容量記憶と配信購入が可能になった。ただ、選択肢が増えて且つ圧倒的に音源管理がラクになったというだけで、未だにCDを買うことも多い。中古盤や輸入盤なら配信より安かったりするんだし。

ラジオで聴いて、というのもAMやFMにインターネットラジオが加わっただけで、特には何も変わってない。選局が増え、録音もラクになったが、自分が気に入る曲をかけてくれそうな局や番組にアクセスするという基本は同じである。

いかにストリーミングがパーソナライズされようともそれは変わらない。精度が上がる(かもしれない)というだけだ。まだ見ぬ曲との出会いの場という意味での"ラジオ"は、廃れるどころかネット時代に入って以降息を吹き返しているともいえる。ただ、割合からいえば大半のユーザーがそれを動画サイトのレコメンドに頼っているようではあるが。


ともあれ。そんななので、ヒカルの活動形態、リリース形態に変化が必要なのではと思うのは、私個人からみた風景ではない。今までどおりシングルCDを出しアルバムCDを出したまにライブをやってくれればよい。まぁCDがハイレゾ配信になってもいいし。そんなに変わらん気がするが。

なのにこれだけ延々論じているのは…なんて言うんだろ、"ヒカルが気にしそう"だから、だろうな。ただのほほんと制作を続けて、馴染みのあるオールド・ファンにアピールする音楽を提供するのなら、今まで通り変わらずやるのがいちばんだ。人間、歳をとればとるほど変化が億劫になり変わらないものに惹かれるようになる。それは退屈と紙一重だが、うまくやれれば一生安泰である。

ヒカルはそれを、相変わらず、欲していないだろうなぁと。ならば次の活動は何らかの意味で、どこかしらのレベルでチャレンジングであるに違いない。それは、アピアランスの面でなのか歌詞の面でなのか音楽性なのかリリース形態なのかプロモーション形態なのかさっぱりわからないが、兎に角どこかは変化させてくる筈だ。変わっていなければ意味がないしこれだけ年月を経れば変わっているのが自然だ。そのうちのひとつとして、リリース形態の枠組みの話を持ち出してみせているに過ぎない。

あと、何よりも、リリース形態の変化は音楽性にも影響を及ぼす…という話からまた次回、かな。

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