無意識日記
宇多田光 word:i_
 



スタジオバージョンがまるでライブを想定していない、という事態を踏まえれば、如何にHikaruのライブのコンセプトを決めるのが難儀なのかがわかる。

パースペクティブをもう一度見てみよう。ライブ会場でスタジオバージョンを完璧に再現する最良の策は、CDをそのまま流す事である。最早Hikaruが舞台に立つ必要すらない。まぁ笑顔で口パクしといてもらってもいいけど、殆どのファンはそれでは「チケット代返せ」となるだろう。次善の策は、オリジナル・カラオケをバックにHikaruが生で歌う事。ここらへんから「それでもいいか」と思う人が出てくる。基本的に聴衆は、ヒカルのコンサートにはヒカルの歌を聴きに来ている。バンドのメンバーが誰かとかなんて気にしない。ドラマーがツアー途中で交代したからって払い戻しします? ヒカルが歌ってさえいればいい、というのが大半な筈だ。

んだが、宇多田陣営はバックの器楽をかなりの割合で生演奏にしたがる。実は、「別にそんな事しなくてもいい」んだが、やはりみんなプロだから生演奏の凄みと醍醐味を知ってしまっているのだろう、どのツアー、どのライブでも一通りのバンド編成を組んでいる。

だからこそ、バックコーラスがテープな事が目立ってしまうんじゃないか、と思うのだ。他の楽器、パートもテープを流すだけでいいだろうに生演奏しているから、本来最も人間味溢れるナマの音、「歌声」が"今・そこ"から出ていないのがチープに思えてしまう。ここに葛藤がある。

ライブ・コンサートで、こういう風に生演奏にこだわって、「本格感」や「本場感」「本物感」を出そうとすればするほど、Hikaruの場合スタジオバージョンの再現度が低くなってしまう。一方、スタジオバージョンを完璧に再現しようとすればするほど、ライブならではの魅力は薄れ、生演奏の意義は失われていってしまう。このジレンマ、トレードオフこそが問題なのだ。

現実は、全部CDと全部生演奏という両極端の間のどこかに"落としどころ"をみつけている。WILD LIFEはその点実に見事で、打ち込みのリズムを軸にした曲もあれば、弦楽隊の生演奏を活かした曲もあり、バラエティーに富んでいた。ほぼスタジオバージョンの再現に近い曲がある一方、全然違う曲それこそ、DISTANCEとFINAL DISTANCEくらい違う)曲もあったり、兎に角多種多様だった。どちらの極端に振り切る事もなく、曲毎に最良のバランスを選択しにきていた。現実にはあれでいい。結局は、具体的にどの曲をどう聴かせたいかにかかっている。

しかし、だからこそ、ライブでの選択肢を増やす為にも、コーラス隊を入れた方がいい、という考え方もある。要は、曲によってHikaruの歌声を録音したテープをそのままバッキングコーラスとして流したり、本物のコーラス隊に歌ってもらったりすればいいんじゃないかと。何とも贅沢な話だが、それによって高騰するくらいのチケット料金なら迷わず払っちゃうだろうなぁ俺。

だってさぁ、ライブのオープニングがGoodbye Happinessで、実際にSynergy Chorusがナマで歌いだしてみ…鳥肌モンやで…。

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うーん、ライブの話になると全く収拾がつかないな。でもまぁ、前回の続きを書いてみるか。

Hikaruのアルバムで聴かれるヴォーカル・ハーモニーは、一部を除き総てHikaruの声のみを重ねたものだ。したがって、"chorus"とクレジットされていたとしても(実際は"backing vocals"が多いと思うが、確認はしていない)、それは日本語でいう"合唱"とは異なるものである。

一言でいえば、"みんなで歌う為に作られてはいない"という事だ。人と人の声の調和、という概念はあまりない。勿論こういう形態は録音機器の発達なくしてはありえなかったもので、それまではそれこそ双子のデュオに頼るしかなかっただろう。

そういう、"声を素材として切り貼り編集した挙げ句の姿"がスタジオバージョンの完成品なのだから、それを模倣したライブにおいてバッキング・ヴォーカルを機械から出力するのは寧ろ正しい。真ん中に立つ人間がひと連なりのメロディーラインを歌うのとは異なる、パーツとしての声の層のミルフィーユなのだから。

ただ、それを言い始めてしまうと、声以外の他の楽器をなぜライブで人間が演奏しているのか、となる。別に違いはない筈なのだが、そうやって器楽面ではスタジオバージョンとの差異を生みつつ、バッキングヴォーカルはスタジオバージョンに出来るだけ忠実に、というのは出来上がりの音像にややもやもやしたものを残すように思う。

或いは、技術の進歩がそういった違和感を解消するかもしれない。あらゆるバッキングヴォーカルパーツをリアルタイムで選択しながら即興で演奏のできるDJ・マニピュレーターが現れたのなら、それはもう新しい楽器であろう。ただ、それも突き詰め過ぎると、Hikaruが「アイコラみたいで気持ち悪い(笑)」とか何とか絶賛していた人力ボーカロイドのようなサウンドが出来上がる、かもしれない。ここでも結局バランスの問題になるだろう。

どの話をしていても、最後は、「Hikaruの曲のスタジオバージョンは、ライブでプレイされる事を余り想定していない」という所に行き着く。スタジオバージョンをレコーディングする時でさえ、「誰だこんな歌うの難しい歌書いたのはっ! 私か。」と不満を言いたくなるような楽曲だらけなのだ。

ここに、ポイントとなる食い違いがある。古くからのPopsファンの多くは、CDの音源を単なる"記録"と見做しており、「コンサートで聴けるサウンド」こそが"本物"であるという風に無意識のうちに捉えている。でなくばCDの二倍も三倍も値段のするチケットの方がCDより売れるだなんて事態にはならない。しかし、Hikaruにとってはスタジオバージョンこそが、いや、彼女の頭の中にあるサウンドこそが"本物"なのだ。まずそこから話を始めないといけないのかもしれない。

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