無意識日記
宇多田光 word:i_
 



嬉しく有り難くも前回のエントリーに関して照實さんからコメントをうただいたので転載しておこう。

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@u3music: 僕の意図はコーラスの声云々、続く te RT @i_k5 @utadahikaru 朝更新のを。13/12/26木【音の出どころを目で見て確認する】ライヴでのバックコーラスについて。 http://t.co/EONLwoDog6 #i_614929 #Utada #hikki

@u3music: コーラス談義の「続き」。コーラス隊の声云々ではなく、名十回も重ねて録音するコーラスは宇多田ヒカルの曲を完成させるには必須であること。また、英語と日本語のコーラスを完璧にこなしてくれる人たちを見つけるのが困難なためです。でも、コーラスをシンプルに編曲して試してみるのも一考?teru

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照實さんが取り上げてくれた論点について反駁したくなる側面は一切ない。全面的に同意する。しかし、ここで極端に考えてみよう。一種の思考実験だ。

ならば、なぜバックの演奏を生のバンドに依頼するのか。ライブで「宇多田ヒカルの曲を完成させる」のを目的とするなら、CDシングルや今度リリースされるFirst Love Deluxe Editionに収録されている"Original Karaoke"をそのままコンサート会場で流せばよい。演奏は間違えないし、曲はもうそれで完成している。勿論バックコーラスもそのまんま。バンドメンバーを雇うお金もリハーサルに費やす時間も不要。後はHikaruが出てきて歌うだけ。それの何がいけない? 実際、一部のアイドル歌手などはそうしている。Utada Hikaruがやって何がいけないのか。確かに、ステージの見栄えがショボいというのはあるかもしれないが、その分チケット代が安くなるとか、逆に浮いたお金でダンサーを何人も雇い、華々しいステージを……

……とは、ならない。理由を考えるのは案外難しいが、結局の所ヒカルや照實さんが根っからのミュージシャン気質な為、「そもそもそんなライブ観たくない」と思っているのではないか。恐らく、考えるまでもなく、つまり、アイデアとして一切浮上する事なく却下されているのだろう、カラオケをバックに歌うのは。

であるならば、もう一方の極端を考えてみる。「じゃあ全部人力で音を出そう!」…つまり、前回私が述べたように「今出ている音の出どころが総てステージ上にて特定できる」状態に"完全に"してしまうとしよう。そうすると、どうしてもスタジオバージョンとのイメージの乖離が出てくる。ここで照實さんの挙げてくれた論点が浮上する訳だ。スタジオで余りにコーラスを重ね過ぎてしまっている為、それを再現しようとすれば何十人も必要になるし、しかもその何十人はヒカル並みに日本語と英語の両方で歌えなければいけない、或いは、日本語で歌う人と英語で歌う人を別々に、つまり合計で二倍の人数を…という風に、どんどん実現不可能な方に行ってしまう。現実にはどこかで妥協しないといけない。そこらへんの落としどころが、今の時点では、例えばWILD LIFEのようなバランスなのだろう。

ヒカルよりももっとビッグなアーティスト、例えばQUEENがステージで"Bohemian Rhapsody"をやる場合なんかは、あの中間部はまるまるテープを流していた。それくらいあのパートをライブでやるのは非・現実的だった。ただ、昔テレビで「じゃあ全部人力でBohemian Rhapsodyのあのパートをステージで生で歌ってみよう」というライブを私は観た事があるのだが、それはそれは見事なものだった。たった一曲の為にその人数を引き連れて世界中を回るのはきっと無理なのだろうが、もしナマで観れたら感動的だっただろうな、とは強く思った。

だから、チケットの値段がバカ高くなってもいいから、一度スペシャルコンサートやってみたらいいんじゃないかな。宇多田ヒカルのバックコーラスを総て人力で再現するコンサートを。そこまでする価値が果たしてあるのか、というと結構私はわからない。でも、やってみたら、当初の想定より遥かに感動的、という可能性はある。いや勿論照實さんの言うように、それだけの人材を集めるのは現実には不可能かもしれない。そこで翻って考えてみたい。では、なぜそもそもスタジオバージョンでは48トラックとも言われる程声を重ねたのか。それはどれ位楽曲に必要な事だったのか。次回に続く…。

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毎度蒸し返す「ライヴでのバックコーラス」問題、この間は照實さんがツイートでこの点に関して触れていた。要はHikaru以外の声が混ざるとやっぱり違和感があると。ふむ。

そりゃあスタジオバージョンと比較すりゃ違うものになるだろうし、そもそもHikaruの声に合わせられる人材が見つかるかどうかも定かではないのだから、ライヴでテープ(じゃないだろうけど昔からの慣習でそう呼ばせて頂く)を使うのは良策だと思う。特にHikaruのライヴはマス相手で、最も大きなニーズは「スタジオバージョンを忠実に再現すること」。ライヴならではの違ったバージョンが聴いてみたい、とかは複数回参加している熱心なファンたちからの要望になるだろう。

で、その為に海外まで行く人間として進言させてうただくと、寧ろ、コーラスに限らずライヴでテープを使う事自体に違和感がある。なぜなら、ライヴ・コンサートとはこちらからすると"観に"行くものだからだ。

大抵の人は、Popsのコンサートに出掛ける時には「ミスチルを観に行く」という風に口にする。なかなか「ミスチルを聴きに行く」とはならない。クラシックであれば「今夜はバッハを聴きに出掛けるんだ」などと言う事もあるが、この場合ステージにバッハが出てくる訳では勿論なく、曲目の話をしているから"聴きに行く"という表現になる。ステージの上にたつ歌手や演奏者が目的ならば、"観に行く"というのが自然なのだ。

人間の本能として、「まず耳で音を捉えて、そちらの方に向き直り、目で見て存在を確認する」という行動様式がある。聴覚は予兆を察知するものだから、情報が耳からだけだと行動様式として物足りない。CDだけ聴いている時のこの不足感を、ライヴコンサートでは視認によって解消する事が出来る。ここが大きいのである。

つまり、ライヴ・コンサートにおいては、歌っている人や、演奏されている楽器などの「音の出どころ」を目で観る事が何よりも大きいのである。これをもってして人は「本物を見た・体験した」と堂々と胸を張って言える。ところがここでテープを使ってしまうと、音の出どころが舞台上のどこを見渡しても見当たらない。実際はマニピュレーターの人が操作しているのだろうが、そんなの遠くからじゃ、いや、どんなに近くてもわからない。これでは、ただ音が大きいだけで、家でCDを聴いているのと変わらないのだ。

バックコーラスを導入すれば、その違和感を拭い去る事が出来る。音の出どころを舞台上に確認する事が出来るから。しかし、そうすると前述の通りスタジオバージョンとの乖離が激しくなる。耳で聴く情報としては、確かに引っかかってしまう。視覚上の違和感と聴覚上の違和感。どちらをとるかは判断次第。そこら辺は父娘2人の選択に委ねるしかないだろうな、暫くの間は。

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