無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今年いちばん話題になったアニメといえばやはり「進撃の巨人」だろうが、私のツイート等を読んでくれている人たちは薄々感じてらっしゃるかもしれないな、私はそれほどこの作品を高く評価していない。ゆゆ式の方がよっぽど好きだ。

生理的に嫌いとか、この作品の魅力がわからない、とかではない。全く逆。この作品の"魅力の限界が見えてしまっている"から、そこまで興奮出来ないのである。

同作のいちばん凄い所は、巨人というアイデアと、それを具現化するにあたってあのデザインにした事、そしてそれがもたらす恐怖と絶望のリアリティである。なので、私は、第一話を観た時に、「この作品が進むべき"正しい道"は、このままひたすら人類が訳もわからず巨人に蹂躙され続け、何一つ巨人の謎が解けないまま、人類が最後の1人まで喰い殺されて絶滅して終わる事だ。」と思った。今でも思っている。しかし、それでは勿論売れない。娯楽作品としては、今進行中のように、巨人の謎を解き、そして謎が謎を呼び…という展開にするしかない。お陰様でとんでもない売れ行きであるどうもありがとう。

でだ。そうなると、どれだけ巧みに謎を設定し解いていっても、恐らく最初の、我々が巨人を初めて観た時の恐怖と戦慄と絶望のインパクトを超える事は出来ない。何故なら、恐怖と絶望の謎を解くとは感情の解体であり、ただひたすら最初のインパクトを削り取っていくしかないのである。勿論、その過程が鮮やかであればある程カタルシスは得られるが、恐怖と絶望の解体が終わった時点で物語は進むべき必然性を失う。

要約すると、「進撃の巨人」という作品は、綺麗に作品を終わらせて名作として語り継がれる事は可能だけれども、作品の特質として、終わった後の展開が望めないのだ。看板はそのままに、全く別の特質に入れ替えて続けるかもしれないが、そうなったらそれは全く別の作品として扱われるだろう。

そこらへんが、ガンダムやエヴァやまどマギと違う所だ。これらの作品はいずれも陰鬱で、明るい作品とはいえないのだが、アニメーション作品として"未来を切り開く力"を持っている。要はそこからの発展性が高い訳だ。進撃の巨人にはその望みが薄い。私はそうみているので、どうしても評価が低くならざるを得ない。この作品自体は面白いと思うし、ここまで評判になって当然だとは思う。あクマで、ここから切り開かれる未来への期待の部分の話である。



…とこんな長い前フリをしたのは他でもない、では宇多田ヒカルの音楽の作風を私はどう捉えているのか、という話をしたかったのだ。答はシンプル。私は作曲家ヒカルの作風を、上記であげた「進撃の巨人」型だとみている。意外かな?


彼女の作曲術というのは、いつも全く未来が見えない。飽きる程繰り返し書いてきたとおり、「新しいスタイルを創造して、そのスタイルの許で考えられ得る最高のクォリティーの楽曲を最初に生み出して終わる」というのが彼女のスタイルだからだ。その時、その曲を聴いてマックスに感動する事はあっても、っていうか毎回そうなんだけども、「新しい金脈をみつけた!これからが楽しみだ!」と思わされる事態は本当に少ない。そして、それが12年続いた。普通最初で終わりだ。奇跡みたいな人である。いや、奇跡そのものと言うのすら生温い。何と言っていいかわからない。


ヒカルという人は、最初のような、最後のような、不思議な人である。今私が「魔法少女まどか☆マギカ」に感じているような「これからこのコンテンツは更にでっかくなっていくぜ!」みたいな高揚感を、この人はまるで味わわせてくれない。常に「最高」を「今ココ」で見せてくれているから、かな。だろうな。

だから、私が「桜流しの次の楽曲が楽しみでならない」と言っているのに、何ら心情的確信はない。ただ、今までの結果からしてこの人は次もやってくれるんだろうなと思わざるを得ないだけである。何を言ってるかわかりにくいかもしれないが、体調面も含め、我々がHikkiに向ける感情は、常に期待より心配と不安の方が大きい。それこそ進撃の巨人が恐怖と絶望をまず最初に与えてくれたように。彼女が今後全米1位をとる期待とか、勿論あるんだが、なんだろう、それが楽しみかというと違う気がする。ちょっと今回は難しい話だったかな。自分にとっても、誰にとっても…。

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毎度話の掴みにアニメの話題をもってくるのは、まぁそれならわかりやすいかなー、という程度にほんわり思っている、ってだけで深い意味はない。「来月発売されるTRANSATLANTICの新譜にどう期待するか」から入るよりはいいかなー、と。まぁ、どっちでもいいか。本当は、同じ邦楽シーンの中で今ライバルたちはこんな事しているから…だなんて切り口で入れればいいんだけど、宇多田ヒカルのライバルなんて居ないからね…。いや同期の人たち、MISIAやらaikoやらが頑張っているけれども(MISIAはたった今体調不良でコンサートキャンセルしたばかりだが…)、彼女たちの生き方が参考になるかというと、う~ん…。少し年齢も違うしねぇ。

前も書いたけれど、やっぱり創造的なクリエイターはインタビューが面白い。面白くなっていないのは七割方インタビューアの力量不足だ。残り三割は本人の喋りが下手なケース、という感じ。逆に喋りが面白いのに作品がつまらないってのはまずない。なんだかんだで、クリエイターってのはしょっちゅう考えているのだ。

という視点からみている私からすると、邦楽誌のインタビューを読むのは苦痛ですらある。それだったらアイドル扱いしてくれた方がよっぽど楽しい…と。

で、なんでこんな愚痴っぽい事を書いたかというと、そういえばWILD LIFEの頃のインタビューはつまらなかったなぁ、という事を思い出したからだ。といっても、内容がどうのというより、相手が誰であってもヒカルが常に"用意していた答を繰り返す"事に終始していたからそう思ったまでの話なんだが。

その時は、即ち、インタビューアとの相互作用の中で何か面白いアイデアが生まれていく、というダイナミズムがなかった。これはまぁ確かに贅沢な感想で、常に桜井和寿や浦沢直樹を引っ張り出してこれる訳じゃないんだけども、然し、宇多田ヒカルが喋るという貴重な機会(普段はオフィシャル・インタビューの切り貼りがメインだからね)なんだから、少しは気合いの入ったセッティングを期待したいのだが、そうなってくるとやっぱり、同世代にライバルが居てそこらへんと交流があるとか、彼らの中で揉まれてインタビューアが育つとか、そういうのが必要になってくる。それがない。Hikaruは常にいい歌を世に出してきているからその点については不満はないが、孤軍奮闘な感じはどこまでも否めない。

とはいえ、本人はそういった環境に慣れ切っているので、全然気にしていないんだろうなぁ。それならまぁ、よいかな…。

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