無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今一度メッセのタイトルを読み返してみよう。【藤圭子を長年応援してくださった皆様へ】。肝心なポイントがいつも抜けているなと思うのは、当たり前の事なんだが、今年の件の"主役"は徹頭徹尾藤圭子さんだったという事だ。宇多田ヒカルはその娘で喪主に過ぎない。まず故人を偲ぶのが先だろうに、メディアはヒカルがヒカルがと。

件のメッセの書き出しはこうだ。

『亡き母に代わって、皆様への感謝の気持ちを述べさせてください。』

である。ヒカルは代理でコメントしているに過ぎない。

『長年の応援、ご支援、ありがとうございました。』

代理であるから、この台詞は本来圭子さんが言うべき台詞だったのだ。ヒカルはその代弁者。いわば脇役、介添え役である。

『今なお母の心配をしてくださっている方々に』

こう書いている。ヒカルの心配をしていた皆様に、ではない。ヒカルは、そういう役割を今年の夏に担っていたのだ。かなりキツい言い方をすれば、「藤圭子に乗じて宇多田ヒカルの話をするな」という事だ。うーむ、思いっ切り自分にも突き刺さるなこれ。痛いわ。


ヒカルが脇に徹していたのが今夏、今年なのである。そこからまず話を出発させて欲しい。

『私も藤圭子のファンでした。今も、この先もずっとファンであり続けます。』

私"も"、である。9月のこのメッセは、まるきり藤圭子のファンへ(いわば同胞としての視点で)書かれていた。ここから話を始めよう。

ヒカルが「この先もずっと~あり続けます」と明言・断言するのは珍しい。『未来はずっと先だよ誰にもわからない』と自分の名をつけた歌に記した人がこう言うのだから、その想いは図抜けて強いに違いない。

従って、ヒカルが藤圭子の名と共に何か活動を行うのなら、出発点はまずここからになる筈なのだ。週刊誌の記事にあれこれ書いてあったようだが、いや、キッパリと藤圭子さんの一周忌に向けてと書いてあったらしいが、その真偽を問う前に、この、ヒカルの「一生藤圭子ファン宣言」を、我々ファンはしっかりと確認しておかねばならない。例えば我々が宇多田ヒカルのファンであって、ヒカルに対して何をどう思うか、という視点に立って、ヒカルが藤圭子さんをファンとしてどうみているのか、をシミュレートしてみるのがいいだろう。そうする事で、僅かばかりだが、ヒカルが何をどう感じているかを推察できる、かもしれない。僕らは、宇多田ヒカルが主役ではなかった2013年の夏という時間のクオリアを忘れてはならないのである。

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Single Collection Vol.2の5曲を聴いていると、「熟れ落ちる二歩手前」という感じがいつもする。葉や茎からも養分を吸い取って熟しに熟した実…もう足元から枯れ始めていて、最後は熟しきった実を落として…

…とイメージで語っているが、案外具体的な話である。Can't Wait 'Til ChristmasにしろGondbye Happinessにしろ、サビのメロディーはこれ以上にない位強いのだが、ヴァースのメロディーはいずれも物足りない。GBHに関してはHikaruも「メロディーと歌詞が合わなかった」という風な言い方をしている。(Show Me Loveはあんまりそんな事はないが、こちらは曲自体が他の4曲に較べて古い。) この、“メロディー配置のプロポーションのアンバランス”が、熟した実と枯れた茎のイメージに繋がっている。

これを、DEEP RIVERの頃と比較してみる。特にtraveling等で顕著だが、イントロからAメロBメロサビに至るまで、メロディーのテンションが一定して落ちない。その為、楽曲中ずっとテンションが張り詰めていて、その意味において曲の印象が"ハード"な感じがする。その感触が、否応無しにまるでそれが青い果実のような…まだ色づかず、堅く引き締まっていて、葉も茎もまだ青々と元気一杯で、全体として活力に満ちた風貌を連想させる。

この、時間を経て熟れた実と、若々しく青く実った果実の対比は、物事が突き詰められていく中で立ち現れる普遍的な対比であるように思われる。それが楽曲中のメロディーのプロポーションのバランスと即対応している、と考えるのはやや直接的に過ぎると自分でも思うのだが、そのシンコレ2のタイミングでアーティスト活動を休止した事実が、「実りすぎて腐り落ちる前に一旦退こう」という判断をしたと裏付けられてしまうので、そう捉えてしまうのを止める事が出来ない。やっぱりそうなんだろうなぁ、と思ってしまうもの。

そう考えると、一年前にリリースされた"桜流し"はどういう位置付けなのか。メロディーのテンションという面では、あまり落差が感じられない。代わりに曲展開は極端にダイナミックだが。そもそもAメロBメロサビって構成じゃないし。しかし、少なくとも、あの"熟れ落ちる二歩手前"という感じはなくなった。しかし、熟して得た味の深み、コクは一切失っていない。寧ろ過去最高と言っていい。それでいて硬質さ、青いというべきかはわからないが、全体的に緊張感が漲っている風はそれこそtraveling等を想起させる。

つまり、今のHikaruは実った果実の収穫を終え、これからそれをどうやって…例えば"美味しいワイン"として纏め上げるのか、という段階に入ってきているのかもしれない。それが、桜流しにみられるコクのある味わいと張り詰めた緊張感の同居を呼んでいるのかもしれない。だとすると、確かに本当の"人間としての"勝負はこれからだ。大地の実りを収穫して、如何に完成度の高い味に仕上げるか。30代の勝負の要はその辺りに転がっているような気がする。

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