哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

デカルト以来

2009年02月23日 | x9私はここにいる

Barbiergeorges14

デカルト以来、科学者や哲学者は客観的物質世界(現実1)の中に自己中心感覚(現実2)を埋め込もうと努力したが、いまだにうまくいっていない。科学の言葉で自分の内面を語ることはできません。その意味で、科学者があまり疑いを持たずに安心して毎日、科学を実行している科学的唯物論の世界(現実1)は、実は完結していない。

現代の脳神経科学も、もちろん科学の基本を守って、客観的な物質現象としての世界(現実1)を記述していく。脳神経科学者は、客観的物質としての脳の機構を解明して、そこで起きる物質現象としてあらゆる感覚と感情を表現したいと願っている。私たちが自己中心感覚による現実(現実2)として捉えている主観や自我意識についても、それらを科学的物質世界(現実1)の現象として説明しようとする。研究室での実験観察によって、自己中心感覚(現実2)を科学の言葉で記述しようと努力している。たとえば、五感による外界の感知とは別に、主観的な感情や自我意識は、自律神経系や平滑筋や体性感覚の活動信号から大脳前頭葉内側皮質や島皮質に投影される神経活動パターンで表現される、とする理論(一九九九年 アントニオ・ダマシオ何が起きたかの感情無意識の脳 自己意識の脳〕』既出)がある。人間の主観というものを客観的に記述すれば、たしかにそうでしょう。拙稿もそれには同意します。(拙稿の見解では)私たちが主観的に感じる自分の意志や感情や思考や欲望や自我意識は、筋肉による身体運動を形成する神経活動と基本的には同じ仕組みで起こる。身体運動が筋肉を動かして外部から観察できるのに対して、主観的な感情や思考に対応する脳内の神経活動は外部から観察できないので、(拙稿では)仮想運動と呼ぶ。

拝読ブログ:心の脳科学

拝読ブログ: 人間科学・社会科学からは、脳科学は疑似科学?

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物質的、衝動的、社会的

2009年02月22日 | x9私はここにいる

特に、物質主義というか、唯物論というか、現実1(=科学が描くような物質だけでできている世界が本物という現実)ばかりを強調することはよろしくない。たしかに、現実1だけを認めれば、科学的な行為はすべてうまくいく。現代社会で特に力を発揮する技術開発や生産や医療や戦争や建設はうまくいきます。けれども、私たち生身の人間の身体は、どうしても現実2(=自分の感じることだけからできている世界が本物という現実)を下敷きにして衝動的に動いていく。いくら物事を物質現象に還元して説明しても、現実2には近づくことができない。炭素と窒素と酸素の結合状態がどこまで詳しく分かっても、なぜこのコーヒーがおいしくて、あのコーヒーはまずいのか、分からない。

さらに、私たちの毎日は人と付き合うことで成り立っている。私たちの関心は、ほとんど、これで成り立っている、といってもよい。ふつう人間の生活では、人と人が互いにその行動を見たり見られたりすることが、なによりも重要です。顔をあわせて会話するとなれば、もちろん言葉を使う。人と付き合ったり、言葉を使ったりというような、毎日のほとんどを占めるこのような場面では、私たちは社会的現実(現実3)の上で動いていく。この現実3(他人の目で見た自分を自分で見ながら自分を操縦している世界が本物という現実)の上で、いつも、私たちの目玉や顔や舌や手足が動いています。

拝読ブログ:ペシャワール会と写真展

拝読ブログ:会話

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三元論哲学の立場

2009年02月21日 | x9私はここにいる

Barbiergeorges13  

このように、私たちは場面場面によって、くるくるといろいろな現実を使い分けているらしい。現実1と現実2と現実3は、哲学者がいうように論理的にはたがいに相容れないはずなのに、私たちの日常生活では、あまり違和感なくどれをも使ってしまう。私たちの毎日の生活は、まことにいい加減です。私たち人間はみんなが、外面と内面と社会的人間関係をくるくると使い分ける。ジキル=ハイド、あるいは昼子=夜子と同じ二重人格者です。自分で気づいていないだけですね。あるいは三元論哲学の立場でいうならば、三つもの現実を使う三重人格者である、ともいえる。

しかし、たいていの人がそうして生きているならば、こういう状況を、それこそ現実と認めてしまったらどうか。三元論哲学でよい。三流哲学でよい。論理的整合性などと、えらい哲学者たちのようにうるさいことをいうことはやめる、というふうにできないでしょうか? 

拝読ブログ:ジキルとハイド

拝読ブログ:『We are 親戚』

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ずうずうしさの分子レベル

2009年02月20日 | x9私はここにいる

私は、ずうずうしいと思われるのは困る。そう思われると損をすると思うからです。しかし、ずうずうしい、というのは、どういう物質現象なのか? どの分子がどういうエネルギーレベルに遷移するのか? さっぱり分からない。言葉を並べて詳しく言おうとすると、ますますおかしくなる。それなのに私たちは、ずうずうしい、という言葉を、その一言で、すぐに理解する。ずうずうしいと感じる人の気持ちがすぐ分かる。さらに、ずうずうしいと感じる人の気持ちが分かる人の気持ちもよく分かる。そういう、ずうずうしさの存在感、これは客観的物資世界(現実1)とはぜんぜん違う社会的現実(現実3)の世界です。

拝読ブログ:きょうのジョーク

拝読ブログ:You and Me

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空気が読めない人

2009年02月19日 | x9私はここにいる

Barbiergeorges12

さっき妻からこのお小遣いをもらったときに私が「ありがとうございます」と言った理由は説明できる。黙ってもらってしまうのでは、ずうずうしいと思われて、妻との付き合いにおいて今後大いに損をすると思うからです。その事態を予想して、それを恐れたからああいう態度をとったわけです。妻の目に私の行動がどう映っているかと気にしているわけで、現実3(他人の目で見た自分を自分で見ながら自分をうまく操縦している世界が本物という現実)を感じている場面です。

この社会的現実もまた、やはり、目には見えない。物質として捉えることはできない。だから、共感できない人に対して、言葉を使ってどこまでも明快に説明するのはなかなかむずかしい。一言で片付けるほうがよほど簡単です。分かる人にはすぐ分かる。分からない人には、いくら言っても無駄です。空気が読めない人には、言葉で言っても無駄です。

拝読ブログ:Stylish Life~アンナのスタイリッシュ派宣言!~

拝読ブログ:世界史受けてないとちょっとわかりづらいかな?

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