哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

徹底した物質主義の科学者

2009年01月26日 | x9私はここにいる

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昼の私は、昼子博士という名の徹底した物質主義の科学者です。世界は物質だけから成り立っている。物質の法則だけで動いている。この机も、このパソコンも、そこのケージに入っている実験用の猿も、原子と分子のかたまりだから、物質に過ぎない。あそこに座っている助手のマリーも、人間だけれど、すべての人間は物質に過ぎない。物理と化学の法則で動いている機械に過ぎない。この私、昼子だって、人間の一人なのだから、同じです。こういうことは全部、今私が考えているみたいに感じるけれども、それは脳細胞の細胞膜が電位変化しているだけだから、科学で完全に記述できる物理現象に過ぎないわ。今私は、コーヒーが飲みたいけれども、それもマリーが作っているコーヒーの香りで脳細胞が電位変化しているからなのね。「私の心がコーヒーを欲しがっている」なんていう言葉は意味がない。私などない。心なんて錯覚なのだから。あ、マリー君、私にもコーヒー一杯くれる?

拝読ブログ:Petrarcha-Pico

拝読ブログ:事実は何に依存するか?

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昼子博士と夜子さん

2009年01月25日 | x9私はここにいる

私たち人間も群棲動物の性質を持っている。私たちが感じ取る自分というものは、外面だけだったり、内面だけだったり、ということはない。そのことを確かめるために、次のような思考実験をしてみましょう。

仮に私たちが、ジキル博士とミスター・ハイド(一八八六年 ロバート・ルイス・スティーヴンソンジキル博士とハイド氏)のような二重人格者で、昼と夜とで二つの違う世界に住むとしたら、どうでしょうか? 小説のジキル博士とミスター・ハイドは、紳士と無法者という、ひどい二重人格ということになっていますが、ここでは、もっとすごい両極端の二重人格を考えてみます。昼は、人間の外面だけしか信じない科学者、昼子博士。夜は、内面の自分しか信じない夜子さん。超ショートストーリー。名づけて「昼子博士と夜子さん」。

拝読ブログ:「ジキルとハイド」解離性同一性障害

拝読ブログ:良い意味()での二重人格~ぬま&Numa

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脊椎動物の自己認識能力

2009年01月24日 | x9私はここにいる

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犬など、群れを作る社会性の動物は、かなり違う。自分の外面と内面というほど、はっきりした認識は持っていないようですが、仲間の動作に共鳴し、集団として感覚を共有する。仲間集団の立場から、自分がどう動けば周りはどう変化するか、を認知することもできるようです。

面白いことに、自己認識能力は、脊椎動物の進化の過程で何度か独立に発生(収斂進化)したらしい。群れを作って生活する社会性の動物は、外面から見える自分というものに対応できる能力があると生存に有利なことが多い。偶然そういう能力が出現すると、それは社会生活に適応するので、ますます発達する方向に進化するのでしょう。ある種の鳥は、鏡を見てそれが自分だと分かるらしい、という実験が最近、報告されています(二〇〇八年 ヘルムート・プリオール、アリアン・シュワルツ、オヌル・ギュンチュルキュン『鏡に誘起されるカササギの行動:自己認知の証拠

拝読ブログ:幼児期までの自己の発達

拝読ブログ:死について 2

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猫に自分はない

2009年01月23日 | x9私はここにいる

読者の皆さんが猫を飼っているならば、観察してみましょう。猫は人間が何を感じているかに無関心です。猫にとっては人間の内部には心などというものはない。だいたい、物事に見えない内部などない。猫どうしでも、互いに何を感じているかには、とても鈍いように見える。パンダや猫は、群棲動物に比べれば、社会性がない、といえる。ではここで、猫に乗り移った気持ちになって考えて見ましょう。

猫は自分の内面の感覚だけで動いているらしい。というか、猫にとっては、自分の外面というものは意味がない。自分がどう見えるか、などと思うことがない。吾輩は猫である、などと思わない。自分が猫であるか、そうでないか、などにはまったく関心がない。もちろん、一匹の猫として猫らしくありたい、などとも思わないでしょう。外から見た自分という、そんなものがあることさえ気づかないからです。猫は、鏡に映った自分を見ても、それが自分だとは思わない。これは猫の鏡像である、とも思わないでしょう。一度くらいは鏡を眺めるけれども、鏡に映った物体は匂いも味もしないので猫の生活には意味がない、と気づいてしまいます。その後は見向きもしない。

したがって猫にとって、自分の外面というものはない、といってよい。そうだとすると、外面と内面という区別は意味がありません。私たちは、ふつう、外面と内面の区別が分かるから、自分があると思う。その区別がなければ、自分はない。その意味で、猫に自分はない。

拝読ブログ:ねこのきもち、と言う雑誌を定期購読することにしました。

拝読ブログ:私は此処にいる

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外面がなくて内面だけ

2009年01月22日 | x9私はここにいる

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確かにそういうものの見方もありうる、と思える一方、私たちは、逆に、外面がなくて内面だけという極端なあり方も想像することはできる。

純粋に自分の内面の感覚だけで動いていれば、他人の心は感じられない。他人というものは存在しない。世界のすべての物質も存在するかどうか怪しい。存在するかどうか、などという疑問も存在しない。あらゆる存在は存在するかのごとく感じられるだけだ。それ以外は何もない。目から来るらしい感覚も、耳から来るらしい感覚も、皮膚から来るらしい触覚も、今ここに感じる感覚信号があるだけです。そう感じる、というだけです。したがって他人の心など存在しないから、他人の心に映る自分の姿はない。つまり、別の意味ですが、この場合もやはり自分というような存在はない。これは、結局は、生まれたばかりの赤ちゃんや、群れを作らない動物、たとえば熊やパンダや猫、などの世界なのでしょう。

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