私は、自身が今話そうとしている内容の全貌を知らない。知っているのは冒頭だけかも知れないし、およそは知っているつもりになっているのかも知れない。いずれにしても、自分の中にある既に出来上がった話を口にしているのではなく、話し始めることによって動き出す全身が瞬間毎に創り出す「何か」を、言葉の形を借りて口にしているのである(仕事その他でやむを得ず形式的な言葉を使うこともある)。簡単に言えば、話してみなければ、何を話すか分からないのである。
こうして話し出した言葉が正しいとは限らない。文字にした文章を推敲し、書き直すことはよくあることである。しかし、こんこんと湧いて来る言葉をろ過することなく「純」のまま扱うことは、自分を知ることになる。そもそも私は今、この瞬間の私を知らないのである。過去の自分を以て、現在や未来の自分を想像してしまう。「キチンと立つ」練習をしていると、普段の自分ではない、もう一人の自分が出て来る。それは、今ここに立っていることを知っている自分である。
こうして話し出した言葉が正しいとは限らない。文字にした文章を推敲し、書き直すことはよくあることである。しかし、こんこんと湧いて来る言葉をろ過することなく「純」のまま扱うことは、自分を知ることになる。そもそも私は今、この瞬間の私を知らないのである。過去の自分を以て、現在や未来の自分を想像してしまう。「キチンと立つ」練習をしていると、普段の自分ではない、もう一人の自分が出て来る。それは、今ここに立っていることを知っている自分である。