私は川が好きだ。たとえ竿を持っていなくても、川があるならばその横を歩きたい。しかしもしその川に魚がいないと分かったら、興味は激減する。私は海や湖での釣りはしないが、そこに魚がいるならそれだけで嬉しくなる。そこで魚を釣る可能性が、将来に全く無いわけではないからである。しかしたとえ魚がいても、それが公園の池や水槽の中では、釣人としての本能は喚起しない。
昔、タクラマカン沙漠に「楼蘭」という王国があったことは、井上靖の小説で知った。ずいぶん前に敦煌・ウルムチ・トルファン・カシュガルには行ったが、楼蘭には行くすべがなかった。もし今、そこへ行けるチャンスがあるならば、喜んで行くだろう。人の居ない沙漠に行きたいと思うのは何故だろう。それは眼前の魚を取る「釣人」としての私ではなく、もう一人の私が、残された沙の中に過去の幻影が観られると思っているからである。
昔、タクラマカン沙漠に「楼蘭」という王国があったことは、井上靖の小説で知った。ずいぶん前に敦煌・ウルムチ・トルファン・カシュガルには行ったが、楼蘭には行くすべがなかった。もし今、そこへ行けるチャンスがあるならば、喜んで行くだろう。人の居ない沙漠に行きたいと思うのは何故だろう。それは眼前の魚を取る「釣人」としての私ではなく、もう一人の私が、残された沙の中に過去の幻影が観られると思っているからである。