丹田の大きさは決まってはいない。小さく感じることもあるし、大きく感じるときもある。太極拳などでは上達すればするほど、丹田を小さく動かしてその力を末端に伝えるようにする。
気功や瞑想などでは、初めはテニスボール位に感じていた丹田が、スイカやビーチボールのようにどんどん大きくなって、やがてからだを包み込むほどになり、更に部屋いっぱい(或はそれ以上)になることもある。野口晴哉氏の著作「健康生活の原理」には、合掌行気法(掌に気を通す方法)について次のように書かれいる(72~73頁)。
「手掌がだんだん拡がって室中一ぱいになり、〔天地一指〕という感じになって、自分がどこへ坐っているか、脚も体もなくなって、ただフカフカした雲の中に合掌だけがあるというようになる」。
この感じは丹田が拡がった感じとよく似ている。
気功には「意守丹田」という言葉があり、「意到気則到(意が到れば気が到る)」の原則により、丹田を思い(意識し)続けることをする。しかしそれは、いつでもどんな状況でも守られるものなのだろうか。
私は野口整体(愉気や整体)をして、からだが整った後には、わざわざ「意守丹田」をしたいとは思わない。バランスの悪い(気の散っている)ときに、それを整える一つの手段として「意守丹田」があっても良いとは思うが、整った後は忘れた方が良い。
そもそも、からだの特定の場処を思い続けることは、たとえそれが丹田であったとしても偏りになるのではなかろうか。何か一つの事を考えることは、からだに反映するからだ。それは禅に於いて、「悟り」を目指せば、「目指す」が故に悟れないのと同じように。
意識を偏らせずに、全身の緊張を抜いてリラックスして立てば、結果として丹田は充実する。丹田はからだのバランスが結果として現れる場処なのである。誤解を恐れずに言えば、丹田はからだ上の一部の場処であり、他の場処と比べて特別なわけではない。なぜならば、他の場処をおろそかにして、丹田が充実することはないからだ。
危惧するべきは、丹田の場処や大きさにこだわり過ぎて、(身心共に偏ってしまい)せっかく練習しても所期の目的に達することができなくなってしまうことだ。
気功や瞑想などでは、初めはテニスボール位に感じていた丹田が、スイカやビーチボールのようにどんどん大きくなって、やがてからだを包み込むほどになり、更に部屋いっぱい(或はそれ以上)になることもある。野口晴哉氏の著作「健康生活の原理」には、合掌行気法(掌に気を通す方法)について次のように書かれいる(72~73頁)。
「手掌がだんだん拡がって室中一ぱいになり、〔天地一指〕という感じになって、自分がどこへ坐っているか、脚も体もなくなって、ただフカフカした雲の中に合掌だけがあるというようになる」。
この感じは丹田が拡がった感じとよく似ている。
気功には「意守丹田」という言葉があり、「意到気則到(意が到れば気が到る)」の原則により、丹田を思い(意識し)続けることをする。しかしそれは、いつでもどんな状況でも守られるものなのだろうか。
私は野口整体(愉気や整体)をして、からだが整った後には、わざわざ「意守丹田」をしたいとは思わない。バランスの悪い(気の散っている)ときに、それを整える一つの手段として「意守丹田」があっても良いとは思うが、整った後は忘れた方が良い。
そもそも、からだの特定の場処を思い続けることは、たとえそれが丹田であったとしても偏りになるのではなかろうか。何か一つの事を考えることは、からだに反映するからだ。それは禅に於いて、「悟り」を目指せば、「目指す」が故に悟れないのと同じように。
意識を偏らせずに、全身の緊張を抜いてリラックスして立てば、結果として丹田は充実する。丹田はからだのバランスが結果として現れる場処なのである。誤解を恐れずに言えば、丹田はからだ上の一部の場処であり、他の場処と比べて特別なわけではない。なぜならば、他の場処をおろそかにして、丹田が充実することはないからだ。
危惧するべきは、丹田の場処や大きさにこだわり過ぎて、(身心共に偏ってしまい)せっかく練習しても所期の目的に達することができなくなってしまうことだ。