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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

名曲を勝手に解釈する⑭

2014-07-19 09:35:26 | 音楽

 谷村新司の「残照」を聴いていたのは、二十歳前後だっただろうか。

「久しぶりに散歩する 父と二人の遠まわり」

 最近まで、この親子の間には生き方をめぐる確執があった。

「はるか昔に この人の背中で聞いた 祭りばやし」

 父に背負われていたことを思い出した。

「“人生は祭りのよう” 何気なく貴方は言った」

 人生は苦しく、働くばかりで、一時の楽しみしかない。それでさえ過ぎてしまえば、まぼろしの如くである。

「その後の 淋しさにたえる 勇気ができました」

「その後」とは父のなくなった後のこと。

「残り少ない 祭りの夜は」

 父の人生が長くないことを暗示している。

「哀しくて 哀しくて 体全部が哀しくて 目頭が熱くなり思わず貴方を追いこした」

 互いを理解できずに過ごして来た時間が、あまりにも長かったことが、哀しかった。

「見えていますか これが貴方の 見えていますか これが貴方の 夢を削った 夢をこわした背中です 震えているのは きっと きっと きっと・・・」

 父は息子に夢を預けたが、それは叶わなかった。父の夢と息子の夢は違っていた。今にして思えば、父の進めた道を進んだ方が良かったのではという思いが少しはある。いまだに自分の人生に対する自信なども持てずにいる。

 父の夢をこわした息子が初めて、父親に見せた背中は、遠い昔に祭りばやしを聞いた時の、父の背中と同じ背中だった。    

 そこには「夢」など何処にもなく、ただ男の背中が二つあった。


名曲を勝手に解釈する⑬

2014-07-11 20:34:49 | 音楽

 ジャニス・ジョップリンの「ミー・アンド・ボビー・マギー」は、歌詞を読めば、情景が目に浮かんでくる。列車でニューオリンズに向かう旅の途中、

「アタシは汚れた赤いバンダナに包んだハーモニカを取り出し ボビーの歌うブルースに合わせて そっと奏いたわ」

「自由ってことは 失う物が何もないってことね 自由でなけれゃ なんにも なんにも意味はないわ」

 「物」は物質的なものだけではなく、すべてに固執していないということ。しかしこの時点では、「彼」も失う対象であるということを自覚してはいない。

「彼がブルースを歌えば いい気分になるのは簡単だった いい気分になるだけで アタシにはもう何も言うことはなかったわ」

 自由は長くは続かない。自由を歌うことは、他者の自由を認めることでもある(たとえ自分にとっては悲しくても)。

「ある日サリーナ近くで 彼と別れたの 彼は生まれ故郷を探していたのよ うまく見つかったのならいいけれど・・・」

 「生まれ故郷」は、「自分が本当にやりたいこと」。彼女はそれ(彼の自由)を喜ぶ自分でいたかった。

「でもアタシは思い出の内のたった一日のために 未来のすべてを売り払ってもいいわ ボビーの体に ぴったり寄り添うためになら・・・」

 こんな台詞、なかなか吐けたものではない。よくある「死ぬほど愛している」という言葉よりも、こちらの方が本気度が高い。一緒に暮らしてくれなどと懇願しているのではなく、「たった一日」で良いと言っているのだ。「彼の自由(故郷)」を邪魔するつもりはなく、ただ「その一日」を、彼女にとっての永遠にするために・・・。

 過去に囚われているなどと軽々しく言ってはならない。彼女は、彼(過去)と誰か(未来)を比べるような時間軸では生きてはいない。彼女の中には今でも彼がいるのだから、過去ではなく現在なのである。

 彼女のことを「後ろ向き」だと咎めることのできる人がいるとすれば、年老いて尚、次なる恋を最上だと思える感覚のある人だろう。

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昔、弾き語りで使ったジャニスの歌集。


歌は処方箋

2014-05-18 19:22:18 | 音楽
 ビートルズの歌集(ギターのコードブック)が数日前から見当たらない。何処へ行ってしまったのだ。まさか私のことが嫌になって家を出たわけではあるまい(たとえそういう場合でも、黙って行くことはないだろう)。
 歌いたい歌を唄えないというのは、ツライことだ。とんかつを食べたい時に、天ぷらや刺身で我慢することができないようなものだ・・・試しに井上陽水や長渕剛を唄ってみるが、やはりとんかつが食べたいのだ(もちろん、時には長渕や陽水を唄いたいこともある)。
 悩みがある時にバイブルを開く人も多いようだが、私は悩みがなくても歌集を開いてきた。特定の歌を唄うのではなく、ビートルズの全曲が入っているその本をぱらぱらとめくり、その時に唄いたい歌を選ぶ。日によって唄いたい歌は変わるのは自然なことである。気分に応じて選ばれた歌を唄って行くと、調子が出てくるのを感じる。身心が整うのだろう。歌は処方箋である。私は薬は飲まないが、代りに歌を唄っている。だから唄えないと少し落ち着かなくなるのである。早く出てきておくれ。


キャンディーズを時々歌う

2014-04-11 16:48:29 | 音楽

 小学生の時から「キャンディーズ」を聴いていた。アイドルとしてと言うよりは、彼女たちの歌が好きだったからだ。

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 その頃買ったテープは、よく聴いたので、今では音がすっかりコモってしまった。それでもCDを買う気にはなれないのは、このテープの音質と曲順が、思い出と共にカラダに染み込んでいるからだろう。

 それから「キャンディーズ 卒業アルバム」という本。私と共に引越し先を転々と移り、今も手元にある。この本には、ギターコード付きの楽譜があり、弾き語りに重宝している。

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 さて、私のココロが一番動くところは、歌の途中で、ランちゃんのソロが入る処である。たとえば、

①「哀愁のシンフォニー」・・・「?私の胸の奥のみずうみにあなたは~」

②「暑中お見舞い申し上げます」・・・「?なぜかパラソルにつかまり~」

③「その気にさせないで」・・・「?何故かあなたには 隙をつかれそう~」

④「ハートのエースが出てこない」・・・「?あいつの気持が判るまで~」

 

 ランちゃんがソロを歌い出す直前に、ほんの一瞬、「空白の間」がある。その「間」はスーちゃんとミキちゃんが作り出している。これ以上ない歌いやすい環境を作り出す。その「間」があるからこそ、ランちゃんは、自由に羽ばたくことができるのである。二人の献身的な姿勢を受けとめ、ランちゃんは、たとえ画面には一人で映っても、一人で歌っている顔をしていない。

 


名曲を勝手に解釈する⑫

2014-03-21 19:38:56 | 音楽

 岩崎宏美がこの歌を唄う時、「聖母(マドンナ)」に見えてしまうのは、私だけではあるまい。

 「さあ眠りなさい 疲れきった体を投げだして」と言えるのは、母だからではなく、母性である。歳を取っても特に男は、子供の頃の記憶がある限り、それを求めることがある。

 「この都会(まち)は戦場だから 男はみんな 傷を負った戦士」

 聖母は「どうぞ 心の痛みをぬぐって・・・」と言う

 「恋ならば いつかは消える

 けれども もっと深い愛があるの」

 この女性は、始めから聖母だったわけではあるまい。信仰や思想によってそうなったのではなく、「恋」を「愛」に昇華させたのだ。それは簡単なことではない。恋は所有することを求め、触れることを求めるが、愛は見返りを求めない。ただ一方通行の「想い」だけが通り抜けるだけで、何の「形」も残さない。

 「ある日あなたが 背中を向けても 

 いつも私は あなたを遠くで 見つめている 聖母」

 聖母は一人では存在しない。温かい眼差しを感じ取れる人がいて初めて存在する。巷にあふれる、お金を介在させた安っぽい「癒し」とは、次元が違うのである。

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