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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

名曲を勝手に解釈する⑪

2014-03-13 19:48:13 | 音楽

 厦門大学に留学していた時、ある人から、中村雅俊のテープを頂いた。

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 この中に入っていた「君の国」・「君の中のモナリザ」・「さらば涙~風の彼方に」などを気に入って、良くギターで弾き語りをした。

 「白い寫真館」が好きだと言っていたその人は、今、何処で、何をしているのだろうか・・・

 「俺たちの祭」は、「俺たちの旅」や「ただお前がいい」と同じく作詞は小椋佳。

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 「君の手をとり 心の海に 白い小舟を浮かべる」

 「小舟」は自分の分身である。どうしようもなく小さくて非力な小舟は、大海原を自分では進んで行くことができないが

 「愛の帆をはり 月のさやかに 風のそよぎに漂えば」

 「いつか二人は 見知らぬ遠い島へ」行くことができるのではないか、という「夢」を見る。

 

 「君の手をとり 別れをつげるつらさ・・・」

 「別れをつげるつらさ」は相手を傷つけ悲しませる「つらさ」だけでなく、傷つけた人間が「自分」であるという事実から逃れられない「つらさ」でもある。

 「まっすぐに俺を見る君」の視線を受け止めることのできる力など、別れをつげた人間の何処に有り得ようか。

 「遠い島では 別れのない愛が あるそうな」

 「別れのない愛」があるのなら、その「愛」は好き嫌いなどを超越したもっと大きな「愛」である。別れもないかわりに、出会いもまたない。

 そんな「迷いもまどいも 消え果てる 光りの地」である「遠い島まで 君をつれて行きたいよ」

 

 他に好きな人ができたのではない

 ただ、愛が冷めていくのだ・・・

 君を傷つけたくない

 自分も傷つけたくない

 現実の世界でそれを実現できないのだから、「遠い島」というユートピアを設定するしかなかった。そこは絶対の「愛」に包まれた世界である。相対することがないのだから、彼女を傷つけることもなく、自分も傷つくことはない。しかし「絶対愛の世界」では、将来二人の間に愛が芽生えることはなく、愛し合ったという証である過去も全て、失われるのだ。

 ユートピアが無いと知っているから観た夢なのか、それとも在れば本気で行くつもりでいたのか・・・

 テープをくれた、信仰心の篤いその人ならば、迷わないかも知れない・・・


名曲を勝手に解釈する⑩

2014-02-06 11:12:14 | 音楽

 「あー果てしない 夢を追い続け」

 「果てしない夢」だと誤解していた。そうではなく「あー果てしない」で一度切れて、その後「夢を追い続け」なのだ。この世は果てしないのだ。果てしないものを果てしなく生きること、それは「夢を追い続け」て行くことだ。

 「大都会」ならばそういう生き方ができると思って、田舎から上京することに決めた「俺」。

 「裏切りの言葉に 故郷を離れ」・・・故郷を出るということは、少なからず故郷を裏切ることになる。親や友人の描く未来から、勝手に居なくなるのだから・・・

 実際の東京は、生きていくのに精一杯で、大変な日々。

 「見知らぬ街では 期待と不安がひとつになって 過ぎ行く日々などわからない」

 「交わす言葉も寒いこの都会(まち) これも運命(さだめ)と生きてゆくのか」

 「言葉が寒い」のは、東京弁が冷たいからではない。どの地だろうと、そこで働いて生きていくために使う言葉が、優しいだけであるはずがない。

 逃げ出したい( Ran away  Ran away)、そう思いながら、

 「今日と違うはずの 明日へ」向かって生きていく。

 故郷を出る時には「裏切り者」だと言われた俺が、今度はその「大都会」に裏切られる。思い通りに生きられない自分を嘆きながらも、何とか頑張ってきた。少しづつだがようやく明るさも見えてきた。

 「裏切りの街でも 俺の心に灯をともす」

 そしてついに、今まで溜め込んできた力が、ここで一気に溢れ出す。

 「朝焼け静かに空を染めて 輝く陽をうけ 生きていくのさ

あふれる熱い心 とき放し」

 一晩中眠れずに、朝を迎えた。窓から朝焼けに染まる大都会を観た。その時初めて、自分の内側からフツフツと力が湧いて来るのを感じたのだ。

 「あーいつの日か 大空かけめぐる」

 東京で成功したいのではない。金持ちになりたいのでもない。「大空をかけめぐりたい」だけなのだ。もしかしたら、この感覚は、東京人にはわからないものかも知れない。東京に対する劣等感のようなものが根底にあれば、その克服は東京人になることで、もたらされるものではない。田舎・東京、成功・失敗・・・そういう比較・相対性からの超越。東京さえも超越した処へ行くことが、自分にとっての克服なのだ。その解放感を「大空かけめぐる」と歌った。

 「大都会」はCDよりも動画で観た方が良い。この男たちの東京に賭ける想いが伝わってくる。

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名曲を勝手に解釈する⑨

2014-01-30 19:28:53 | 音楽

 巨人軍で通訳をしていたとき、2軍に同期生がいた。彼の部屋に遊びに行くと、村下孝蔵のCDが何枚もあり、ファンだと言っていた。彼は1軍で活躍することなくプロ野球界を去ったが、村下孝蔵の歌を愛するような、優しい性格が災いしたのではないかと思っている。

 高校生の時に、ラジオから録音した「春雨」を愛聴した。

 「心を編んだセーター 渡すこともできず 

  一人部屋で解く糸に 思い出を辿りながら」

 セーターには心が編み込んである。その糸を一本一本解くという作業は、編み込んだ一つ一つの心を解いていくことである。それは時間をさかのぼり、「愛する前の自分」に戻ることに他ならない。同じセーター絡みの歌では、「着てはもらえぬセーターを 寒さこらえて編んでます」という都はるみの「北の宿」がある。辛い気持を治めるために「編む(作る・前進する)」のだが、村下の方では「解く(壊す・後退する)」のである。表現は全く対照的だが、心の解放という方向性は一致している。

 ところで、1番の歌詞の中には、「繰り返す」動作や「繰り返す」に関係する言葉が多々ある。「編んだ」「解く」「レコード」「繰り返す声」「谺(こだま)」「廻り続ける」「電話の度に」・・・これらに共通しているのは、人為的で、再現することができるということである。2番では、一回性の儚さを嘆き、主題である「春雨」が登場する。

 「あの人を変えた都会 すべて憎みたいわ

  灯り消して壁にもたれ 木枯らしは愛を枯らす」

 「せめてもう少しだけ 知らずにいたかった

  春の雨に頬を濡らし 涙を隠したいから」

 「雨」は水の落下を反復する「繰り返し」ではない。先に挙げた「繰り返し」とは対極にある。「雨」はたった一回の出来事である。雨の一粒一粒は個性をもって、空から地上に降って来る。他と似ていない一粒一粒だからこそ、私にぶつかり頬を流れ落ちるときに、淡い期待や夢をも洗い流してくれるのだ。たった一度の恋を、捨てる場所は「春雨」の中にしかなかったのだ・・・

 「もう誰も私 見ないでほしい

 二度と会わないわ いつかこの街に帰って来ても」

 彼女が春雨に依って洗い落とす様は、肉を削ぎ落とす如くである。彼との思い出だけではなく、「女」をすべて「落とそう」としているのである。女としての魅力を捨てる。それは将来に再び恋をしないことの決意というよりは、二度とそのような恋ができないことを知っているからだ。彼が居ての「私」だったのだから、彼が居なくなれば「私」もいなくなるのだ。

 1番のサビ、

 「電話の度に サヨナラ言ったのに 

 どうして最後は黙っていたの 悲しすぎるわ」

 何故、彼が黙っていたのか。その答えは恐らく、その後彼女が、二度と恋をしないであろうことを分かっていたからではないだろうか。今生における最後の恋、その息の根を止める一言を、言うことができなかったのだ・・・言えれば、辛くとも悲しい想いはさせなかったはずだ・・・


名曲を勝手に解釈する⑧

2014-01-24 10:33:55 | 音楽

 私たちが「恋人よ」を聴くときには、悲しみの中にも「美」を観るのだが、本人(歌の中の主人公)にとってこの歌は、悲しみだけなのかも知れない。五輪真弓が真直ぐに立ち、その口元を引き締めた表情を観るとそう思うのだ。 前奏は、彼女の置かれた境遇と心中を現している。刻まれるリズムは、「時」そのものであり、呆然とする彼女に別れの現実を突きつけ、対処を迫る。一方ストリングスは心の様相であり、「時」の間を縫うように流れ、消えた恋人をさがし求める。

 恋人と居るときに「枯葉は散らない」。恋人と居るときには、時間が止まるからだ。「枯れ葉散る」という冒頭の一行は、既に愛が終わったことを示している。恋人と別れることは、「時」の中から「時」の外に出ることだ。そこではじめて「時」が流れるものであり、「枯葉が散る」ことを知ったのである。

 「雨に壊れたベンチには 愛をささやく 歌もない」・・・「愛をささやく 人もいない」のではなく、「歌もない」なのだ。何故「人」ではなく、「歌」なのか。この恋人たちは、単なる言葉のやり取りをしていたのではなくて、歌を交わして(唄い合って)いたのだ。歌は物語である。物語が終われば、歌はない。たとえ人が残ったとしても、歌がなければ仕様がない。歌は二人の存在そのものだったのだ。

 恋人と別れた彼女は、初めて無常を知る。枯葉も夕暮れも、壊れたベンチも皆、そこに立ち止まることなく、変化し続けていくことを知る。 そしてマラソンランナーまでもが、全てを忘れ無常に生きろと「止まる私を誘っている」。

 2番のサビで「恋人よ さようなら」と言ったのは決別の意ではなく、無常によって彼が再び戻ってくることを信じたのだ。彼女の心にわずかな静寂があったとすれば、この一瞬である。しかしめぐってくるのは季節だけ・・・「あの日の二人」は再び帰っては来ない・・・流れ星を前にしても、そこには決して叶わない「無情の夢」があるだけだ。

 最後のサビ「恋人よ そばにいて」の歌詞は1番のサビと同じだが、意味合いは大きく異なる。1番のそれは、突然の別れに動揺し、自分を制御できずに現れた感情。最後のそれは、2番のサビで「恋人よ さようなら」と一度「無常」を悟った後に、再び現れた感情である。それがいかに激しい慟哭であろうと、一度平坦になった処から湧き上がるものを抑えることはできない。


歌は終わってはいない

2013-11-14 14:59:36 | 音楽

 23年間くらい使い続けている手作りの鍋?

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 実はこの鍋?の名称を知らない。当時「北京体育学院(現大学)」に留学していた時に、仲の良かったブルガリア人に貰ったものだ。彼が一時帰国した時に持ってきてくれたのだ。酒を温めて飲むためのものらしい。たしかその時に、これまた家で作ったという果実酒をもらったのだが、それがアルコールがキツいのにも拘らず、何とも言えない美味しさがあった。

 帰国後、酒を温めることなく、珈琲を入れたり、牛乳を温めるのに使っている。彼にとっては不本意かも知れないが、温めるに値する酒に出会うまでは待つしかないのだ。

 彼(中国名を「盖?基[gai er ji]」)とは、よく一緒に歌を唄った。それは即興の歌で、寮の廊下などで、いきなりセッションが始まる。声量のある彼の声はオペラ風になり、それに私が絡むという感じであった。抑揚のある響きは、衰えることなく続いた。その歌は、どうやって終わったのだろうか?いや、終わってはいない・・・我々は少しも疲れてはいないのだから・・・

 彼は歌っているだろう。私も歌っている。何処かで「ドブロウットラ(乾杯)!」したら、また「題名の無い歌」が始まるだろう。