スピノザが第四部定理三七備考二でいっていることは,場合によっては刺激的に響くかもしれません。たとえばAという人間とBという人間のふたりが存在したとして,Aという人間の本性からBという人間を殺傷するということが必然的に生じるとすれば,AはBを殺傷する自然権を有しているということが帰結するからです。他面からいえば,Aの本性のうちにBを殺傷することがなし得ることとして含まれているなら,Aはその権利を産まれながらに有しているということになるからです。
確かにそれがAの本性のうちに含まれているなら,僕はこのことを是認しなければならないと考えます。ただし,人間と別の人間との間にこのような自然権が存在するということはありません。実際にこのような主張が有効なのは,以下のような観点に依拠すると僕は考えます。
スピノザは人間の自然権について語っていますが,どんな事物も最高の自然権によって存在するでしょうし,本性から流出することを最高の自然権によってなすでしょう。第一部定理三六からして,そのような自然権が人間にだけ特権的に与えられるとは考えられないからです。このときに,たとえばライオンにはシマウマを殺傷する自然権が生まれながらにして与えられているというのが,本性によってなし得ることを自然権として規定することの原理的な意味合いになります。だからAの本性にこのような意味でBを殺傷することが含まれているなら,それはAの自然権であるということになるでしょう。
第四部定理三五では,理性に従う限りではすべての人間の本性が一致するといわれています。この限りでは,Aの本性のうちにBを殺傷することは含まれ得ません。Aの本性とBの本性は一致しますから,Bを殺傷することが含まれるなら,Aを殺傷することも含まれます。しかしこれは第三部定理五に明確に反してしまうからです。
ただし,これは正義という概念の発生を意味し得ません。第四部定理三一により,この観点からは善だけが出てくるのであり,悪は出てきません。善悪は比較上の概念なので,実際にはこの観点からは,善も悪も,つまり正義も不正も認識され得ないからです。
スピノザの説明との比較をしやすくするために,ここでもライプニッツがスピノザを訪問するという例を用いましょう。
スピノザの哲学では,第一部定理二八および第二部定理九からの帰結として,この事象を正しく説明するために,ライプニッツ自身について言及することが不可欠です。なぜなら訪問という作用に対して,ライプニッツが十全な原因の一部としての部分的原因を構成するからです。しかし僕が理解するライプニッツの世界観からすると,ライプニッツはこのような説明をすることはできません。
ライプニッツがスピノザを訪問するという命題は,ライプニッツの判断によれば真偽不明となる筈です。このゆえに,ライプニッツがスピノザを訪問するという可能世界と,ライプニッツがスピノザを訪問しない可能世界の両方が実在します。ここでいう実在というのは,現実的に実在するという意味ではありません。ただこういうふたつのモナドがあるという意味です。そしてどちらかのモナドが神の善意によって選択され,現実世界となります。史実はスピノザとライプニッツは会ったのですから,ライプニッツはスピノザを訪問するという可能世界が神によって選択され,スピノザを訪問しないという世界は可能世界としてとどまったことになります。
僕が理解するところでは,ライプニッツの世界観において,ライプニッツがスピノザを訪問するということは,これ以上の仕方では説明できません。いい換えればこれが十全な説明のすべてであることになります。すなわちなぜライプニッツはスピノザを訪問したのかという問いに対する答えは,神がその世界を現実世界として善意によって選択したからだということになります。
命題として真偽不明であるとされる事柄のすべては神の善意によって決定されるということを認める限り,この解答しか僕には考えられません。つまり神が訪問する方の世界を選択すれば,ライプニッツは否応なしにスピノザを訪問しますし,もし訪問しない方の世界を選択していたとしたら,ライプニッツはスピノザを訪問することはなかったでしょう。要するに現にあるのとは違った世界になった筈です。
確かにそれがAの本性のうちに含まれているなら,僕はこのことを是認しなければならないと考えます。ただし,人間と別の人間との間にこのような自然権が存在するということはありません。実際にこのような主張が有効なのは,以下のような観点に依拠すると僕は考えます。
スピノザは人間の自然権について語っていますが,どんな事物も最高の自然権によって存在するでしょうし,本性から流出することを最高の自然権によってなすでしょう。第一部定理三六からして,そのような自然権が人間にだけ特権的に与えられるとは考えられないからです。このときに,たとえばライオンにはシマウマを殺傷する自然権が生まれながらにして与えられているというのが,本性によってなし得ることを自然権として規定することの原理的な意味合いになります。だからAの本性にこのような意味でBを殺傷することが含まれているなら,それはAの自然権であるということになるでしょう。
第四部定理三五では,理性に従う限りではすべての人間の本性が一致するといわれています。この限りでは,Aの本性のうちにBを殺傷することは含まれ得ません。Aの本性とBの本性は一致しますから,Bを殺傷することが含まれるなら,Aを殺傷することも含まれます。しかしこれは第三部定理五に明確に反してしまうからです。
ただし,これは正義という概念の発生を意味し得ません。第四部定理三一により,この観点からは善だけが出てくるのであり,悪は出てきません。善悪は比較上の概念なので,実際にはこの観点からは,善も悪も,つまり正義も不正も認識され得ないからです。
スピノザの説明との比較をしやすくするために,ここでもライプニッツがスピノザを訪問するという例を用いましょう。
スピノザの哲学では,第一部定理二八および第二部定理九からの帰結として,この事象を正しく説明するために,ライプニッツ自身について言及することが不可欠です。なぜなら訪問という作用に対して,ライプニッツが十全な原因の一部としての部分的原因を構成するからです。しかし僕が理解するライプニッツの世界観からすると,ライプニッツはこのような説明をすることはできません。
ライプニッツがスピノザを訪問するという命題は,ライプニッツの判断によれば真偽不明となる筈です。このゆえに,ライプニッツがスピノザを訪問するという可能世界と,ライプニッツがスピノザを訪問しない可能世界の両方が実在します。ここでいう実在というのは,現実的に実在するという意味ではありません。ただこういうふたつのモナドがあるという意味です。そしてどちらかのモナドが神の善意によって選択され,現実世界となります。史実はスピノザとライプニッツは会ったのですから,ライプニッツはスピノザを訪問するという可能世界が神によって選択され,スピノザを訪問しないという世界は可能世界としてとどまったことになります。
僕が理解するところでは,ライプニッツの世界観において,ライプニッツがスピノザを訪問するということは,これ以上の仕方では説明できません。いい換えればこれが十全な説明のすべてであることになります。すなわちなぜライプニッツはスピノザを訪問したのかという問いに対する答えは,神がその世界を現実世界として善意によって選択したからだということになります。
命題として真偽不明であるとされる事柄のすべては神の善意によって決定されるということを認める限り,この解答しか僕には考えられません。つまり神が訪問する方の世界を選択すれば,ライプニッツは否応なしにスピノザを訪問しますし,もし訪問しない方の世界を選択していたとしたら,ライプニッツはスピノザを訪問することはなかったでしょう。要するに現にあるのとは違った世界になった筈です。