スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

名古屋記念&対象

2010-04-02 19:00:09 | 競輪
 競輪も4月が年度初め。2009年度最後の記念競輪は30日に決勝があった名古屋記念でした。
 並びは菅田-斉藤の北日本に遠沢,永井-加藤-笠松の中部,吉本に兵藤-大薗の関東。
 Sを取ったのは大薗で吉本の前受け。中団に永井,後方から菅田の周回。残り2周から菅田が上昇,吉本が引いたので誘導の後ろへ。これを打鐘から永井が一気に叩いて先行。中団に菅田,後方に吉本で一列棒状。バックから菅田が捲っていきましたが,永井のかかりもよかったようで車はそれほど伸びず,加藤の牽制もあってあえなく失速。直線で追いこんだ加藤が優勝でマークの笠松も続き中部のワンツー。笠松の外を伸びた兵藤が3着。
 優勝した岐阜の加藤慎平選手は昨年7月の弥彦記念以来の記念競輪6勝目。ここは自力タイプでは永井の力が上。その永井が逃げて番手を無風で回りましたので,展開的には当然の優勝。まだまだ活躍し続けられる選手だと思います。

 尿意という観念ideaが混乱した観念idea inadaequataであるということ,とくに自分の身体corpusのある状態についての表象像imagoであるということについてはこれでいいと思います。しかしこのように規定しますと,今度は別の問題が生じてきます。それは尿意の対象を問うことができるのかという問題です。すなわち,ここでは尿意というのを神Deusとは関連付けず,ある人間の精神mens humanaのうちにある思惟の様態cogitandi modiとしてそれ自体で考察の対象にしようとしています。ところで,表象像つまり混乱した観念というのは有esseか無かといえば無に該当します。したがって,無であるような思惟の様態に関して,その対象について言及するというのはいささか不自然になるからです。
 これを考える前に,ひとつ注意しなければならないことがあります。一般に対象と訳されるラテン語はobjectumです。岩波文庫版では想念的,僕のブログでは客観的といっているラテン語がobjectiveですから,少なくとも語源的には関係があるのでしょう。しかし,観念の対象といわれる場合には,ideatumというラテン語が使われています。たとえば第一部公理六で用いられている観念の対象という語がこれにあたります。岩波版の訳者である畠中尚志が観念の対象の後で,観念されたものという訳注を入れているのはこうした理由からでしょう。
               
 スピノザが哲学的な意味合いからあえて使い分けているのか,あるいはラテン語一般がこのように用いられていたのか,僕はラテン語に関する教養はほぼ皆無なので分かりません。ただ,観念の対象といわれる場合には,それ以外の場合に対象といわれるのに対して,少なくとも用いられていることばが異なっているということ,したがって意味合いにも何らかの相違があるかもしれないということは,『エチカ』を読む上で注意をしておきたいところだと思います。
コメント
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