スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

クイーンエリザベスⅡ世カップ&全知

2015-04-26 19:39:34 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で行われたクイーンエリザベスⅡ世カップGⅠ芝2000m。当初の予定より遅れ,日本時間で午後5時50分過ぎの発走になりました。
 ステファノスは発走後は少し押していたような印象。内の5番手という位置に。最初の800mが51秒90,1200mで1分16秒88ですから,極度のスローペースだったといえるでしょう。
 3コーナーを回ってから少しずつ前との差を詰め,直線の入口では2頭分の外という位置。直線は進路を探すようなレースとなり,内から2頭目のコースが開いたのでそこへ。すでに勝ち馬は抜け出した後でしたが,進路を確保してからはしっかりと伸び,内と外に大きく広がった4頭の2着争いを制し,2馬身差の2着でした。
 重賞は昨年の富士ステークスを勝っているだけですが,能力は高いと見込んでいて,今年の安田記念に出走できるようなら馬券の対象にしようと思っていた馬です。これだけの強力メンバーを相手にレースをするのは初めてで,最適距離よりも長いのではないかと思っていましたから,苦戦するのではないかと予想していましたので,この結果なら僕は健闘といっていいのではないかと思います。ペースが遅くなったことは,進路を確保しにくくなったことを別にすれば,プラスに作用したものと思います。
 ベストターンドアウト賞を受賞しました。藤原英昭厩舎の馬は日本でもパドックでよく見えることが多いような印象をもっています。

 真理に関するある事柄に対して無知である存在を最高に完全な存在と規定することは,一般的な規範から逸脱しているというのは,消極的ないい回しです。むしろどんな真理に対しても十全に認識する存在こそが最高に完全であると,積極的にいい直す方がよいでしょう。つまり,神の完全性に関わる一般的な規範のうちには,神はすべての真理を十全に認識するということが含まれている,暗黙の前提として含まれているといえるのです。
 ライプニッツ主義の鍵となっていた部分で,ライプニッツ主義にとっての最適な規準というのが,神がある事柄を真偽不明と認識するなら、その事柄を形相的formalisにみた場合にも真偽不明であるという解釈であったのは,こうした理由からです。この場合には,確かに神には真偽不明の認識が属しますが,それは事柄を十全に認識しているという意味になり得るからです。しかし実際にはこれらは等置不能です。ライプニッツ主義の神の完全性に関わる問題は,そこに端を発しているわけです。
 神は無知ではないというのを消極的な規定とみなすならば,神は全知であるというのが積極的な規定になります。要するにこの意味において神が全知であるということが,神の完全性の中に含まれているということが,一般的な意味において規範を遵守しているということになるでしょう。ふたつほど具体例をあげてみます。
 スピノザは,知性を個々の観念の総体とみなします。これは知性が無限である場合でも有限である場合でも同じです。観念は思惟の様態です。よって第一部定理一により,実体がなくてはあることも考えることもできないものです。したがって,神が全知であるということが,神の本性を構成することはありません。もしそのように主張するなら,神は様態であると主張しなければならず,それは神が全知であることを否定する以上に,一般的な意味での神の規範を逸脱することになるからです。
 しかし,第二部定理七系の意味は,明らかに神が全知であるということを認めています。あるいは第二部定理三二も,それを端的に示しているといえるでしょう。つまりスピノザ主義の神は全知です。
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