スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

よさこい賞争覇戦&説明の比較

2015-04-05 19:04:23 | 競輪
 新年度に入って最初の記念競輪になる高知記念の決勝。並びは房州-山崎の福島,牛山-神山の茨城栃木,浅井-伊藤の中部,村上-佐々木の西日本で和田は単騎。
 村上がスタートを取って前受け。3番手に浅井,6番手に牛山,7番手に房州,最後尾に和田の周回に。残り2周のホームから房州が上昇し,和田も追随。和田の後ろに牛山。村上は後ろまで引かず,和田の後ろに入って打鐘。牛山が外から和田の外に上昇し,山崎の後ろを取り合うような形。かなり下げていた浅井が発進し,前にもつれがあったこともあり,結果的にかまし先行のようなレースに。バックで房州の後ろから山崎が発進。この後ろを牛山-神山で追うことに。伊藤の牽制はあったものの,外から豪快に捲って山崎が優勝。大外を佐々木が伸びて4分の3車身差で2着。最内に進路を選択した神山が1車輪差の3着。
                         
 優勝した福島の山崎芳仁選手は2月の全日本選抜以来のグレードレース優勝。記念競輪は昨年9月の岐阜記念以来で通算15勝目。高知記念は初優勝。房州を利せるので,若干は有利かなと考えられました。その房州がわりと楽に前に出られ,浅井には一旦は捲られたものの,相手の発進が早かったこともあり,落ち着いて捲り返すことに成功。展開の恩恵があったのも事実ですが,しっかりと自身の脚を使ってのもので,今年はやはり目が離せない存在になりそうです。

 スピノザの説明ライプニッツの説明の最大の差異は,次のようなところに存すると考えられます。
 スピノザの説明の場合,ライプニッツの精神の中にあるとみられる意志作用が,後のライプニッツの知覚に対して,十全な原因の一部としての部分的原因を構成し得ます。しかしライプニッツの説明では,こうしたことはあり得ません。また,スピノザの説明だと,ライプニッツの現実的本性,第三部諸感情の定義一によりライプニッツの欲望が,ライプニッツの身体運動に対して十全な原因の一部を構成し得ます。しかしライプニッツの説明では,こうしたことも不可能になります。ライプニッツは一例なのであって,これは現実的に存在するすべての人間に妥当しますから,スピノザの説明では,人間の意志作用がある観念の原因を構成し得るし,人間の欲望がその人間の身体の運動の原因となり得るのに対し,ライプニッツはそれを否定することになるのです。
 ただし,この解釈は,ライプニッツに対して意地悪である可能性もあります。というのは,ライプニッツが真偽不明と判断するのは,単にある行為に関する命題だけではなく,人間が欲望し,また意志をすることにも及ぶと解することも可能だからです。つまり現実的に存在する個々の人間がどういった事柄を意志し,またどんなことを欲望するのかということまで含めて神の善意の裁量の中にあるとライプニッツは主張することが可能です。この場合には人間は意志に見合った思惟作用をなすでしょうし,欲望に見合った運動をすることになるでしょう。ですからそこに因果関係を認めることは相変らず不可能であると僕は考えますが,人間が何を意志し,また何を欲望するのかということとは無関係に,人間は神が選択した可能世界に則して,つまり否応なしに作用するという結論だけは回避することができることになります。
 けれども,もしもライプニッツがそのように主張したとしても,スピノザの哲学と比較したときに,ライプニッツの哲学で規定されている人間が,きわめて運命的な存在であるという点は変わらないと僕は考えています。なので僕のその考えの根拠を示していきます。
コメント
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